私のような知識の浅い者が本来述べるべきことでは無い問題なのかもしれないが、今日、行ってきた頌徳公園と聖バルバナ教会、草津新四国八十八ヶ所霊場を巡り、草津の暗い過去を1つ知った。
先日も述べたが、草津の湯は酸性度が高く、特に殺菌効果が高い。皮膚病に特に効果が高いとされて、ハンセン病もその例外ではなかった。
湯畑の近くに「白旗の湯」と呼ばれる公衆浴場がある。この湯は1197年に源頼朝が浅間山麓で巻狩をした時に頼朝が発見し、入浴したと言う伝説が残っている。そのとき頼朝が座った盤石を「御座の石」、そしてそこから湧き出る湯を「御座の湯」と呼んだという。元禄年間に書かれたという「吾妻郡略記」には庶民が利用した共同浴場5湯が記されており、そのうち特に「御座の湯」がハンセン病に効能があるとされていたという。
明治時代に襲った草津の大火事後の集客運動や草津の湯の治療効果を世に知らしめたベルツ博士の論文の効果もあり、草津の湯の効用が公になるにつれ、次第にハンセン病患者が草津に逗留するようになった。だが、ハンセン病は視覚的に人を驚かせてしまう一面もあることから、病者湯治客は「裏壷の客」と呼ばれていたそうである。「裏」とは宿の「裏口」を指し、「壷」とは「人目につかないような屋根裏部屋や物置部屋」を指す。さらに、入浴も人目につかない夜中に限定されていた。
まだハンセン病に対する特効薬もまだ無い状況で、ハンセン病患者の方々は藁にもすがる思いで草津に多くのハンセン病患者が集まりだしてきた頃、草津の行政では「ハンセン病者が温泉街に居住・逗留することは草津発展の妨げとなる」という意見が強まりだした。そこで1886(明治19)年に角田浩平草津戸長は「草津温泉改良会」という組織を結成し、草津中心部からのハンセン病者の追放を開始する。その具体的な内容は、ハンセン病者が居住・逗留する場所を湯之澤と呼ばれる地区に移し、そこに湧いていた「白須の湯」を利用させると言うものであった。湯之澤部落は、私が4/6に訪れた町営の「大滝乃湯」がある場所で、今となってはこのような施設が出来たことで発展を遂げたものの、当時は熊笹が覆う湯川の谷間で、ハンセン病者の遺体が投げ捨てられることもあったため「骨ヶ原」、「投げ捨ての谷」等と呼ばれていた場所だったという。さらに、ハンセン病に対して高い効果を期待されていた「御座の湯」をこの地区からでは利用できないため、ハンセン病患者はこの計画に大きく反対したという。
しかしこの分離政策は強行され、1887(明治20)年春、湯畑近くのの「御座の湯」の浴場がまず取り壊されることになる。そしてここを源氏が使う白旗にちなんで「白旗の湯」と改名し、湯之澤部落の「白須の湯」を「御座の湯」と呼ぶようにしたと言う。湯畑と湯之澤では源泉が異なるため、全く違う湯であるにも関わらず、とりあえず名前だけでも解決させたと言う格好である。(なお、御座の湯は湯之澤部落消滅後、現在の大滝乃湯に変わっている)
湯の改名と同時にハンセン病患者の住居だけではなく、ハンセン病者抜けの旅館「浜名館」、「成沢屋」などが移転し、30名ほどの人々が住む湯之澤部落が形成され、その人口は年々増し、1915(大正4)年には372名、1930(昭和5)年には草津全人口の34%にあたる221世帯、803名がここに住んだという。
なお、湯之澤部落にはハンセン病患者だけが住んでいたわけではない。その比率はハンセン病患者3に対し健康者は2といった割合であり、病者と共に暮らす近親者や子供も住んでいた。そして、湯之澤部落に住む大部分の人々は生業を営み、生計を立てていた。大工や建具職、豆腐屋、洋品店などの商店、飲食店、質屋、そして郵便局や小学校などの公共施設もあり、働いていない方は病状がひどくなった方ばかりである。
草津町の中で健康者が住む地域を上町、湯之澤部落を下町と別称し、その境には門柱が設置されていた。建前としてはハンセン病者はここから外には出ないことになっていたが、実際には自由な往来があり、お互いに物を売り歩いたり働いたりしていた。
当時ハンセン病を患うということは、患者はもちろん、親類縁者にとっても非常に衝撃の大きなことであった(身内にハンセン病者が居るために、離縁されたり、地域社会と接することが困難になるなど、そのような例は枚挙に暇が無い)。そのため、親類としての縁を切られるようなこともしばしばあったと言う。その中でも比較的資力がある家庭でハンセン病になってしまった方は草津のような湯治場に住んだり、逗留することができた。逆にそのような余裕が無い場合は、四国八十八箇所や熊本本妙寺周辺に集まって、御仏にすがって命を永らえることを祈るしかなかったという。
さて、湯之澤部落の人口の増大と共に、当初は家族的小集落であった湯之澤も、博打・殺傷・淫蕩などの問題を抱えるようになった。不治の病とされたハンセン病に効果があると藁をもつかむ思いで湯之澤部落へやってきたものの、病状は思ったように好転せず、財産を使い果たし、多くの患者の心は荒廃していた。明日へも知れぬ自らの身を考えると、自暴自棄になってしまうことも十分に考えられる。自殺者が日々絶えなかったという。また、家屋の予想以上の増大により、上町と軒を連ねるようになり、上町とのトラブルも発生しだした。これらの問題を抱えた明治30年頃を「湯之澤暗黒時代」と草津の人は呼んでいる。
そこで草津市は明治41年に「癩予防法」が発布されたこともあり、「癩村移転事業調査委員会」を設置し、草津町からのハンセン病者排除を始めた。そして明治43年、湯之澤の住人を草津町から3キロほど離れた滝尻が原の国有地に移すことを求める「湯之澤癩部落移転請願書」を群馬県知事に提出する。しかし、この計画の根底には邪魔なものは遠ざけるという目的が明白であり、湯之澤に移ったにも関わらず再度移転計画であったため、湯之澤部落の住人は移転反対の請願書を内務大臣に提出、これを強行すれば不穏な事態を招きかねないと政府は判断し、再考の結果、この時点でのこの計画は頓挫することになる。
しかし大正4年、国レベルでの湯之澤の将来を決定付ける動きが現れる。政府は、ハンセン病政策に関する諮問機関として組織した保健衛生調査会の諮問のもとに、療養する資力の無いハンセン病者を府県立療養所に収容する一方、資力のあるハンセン病者のために自由療養地を設置知ることを決定する。これに対し、湯之澤区長高田氏は政府が湯之澤を自由療養地として正式に認めることを議会に建議したが、政府は資力のあるハンセン病患者の療養施設については自由療養地の必要を認めていること、自由療養地としては気候が温和で周囲に病気が伝播する危険が無く、物資の供給が潤沢で、生活費の高くないことを条件に候補地を調査していること、この条件に照らすと草津は自由療養地としては適さないと考えるという見解を示す。
この頃、別な方面からも湯之澤部落を支援する動きが現れる。イギリスからやってきた51才のキリスト教伝道者コンウォール・リー女史が1916(大正5)年に湯之澤部落に赴いた。リー女史は湯之澤部落における「希望」を見出せない状況を目の当たりにし、私財をなげうって「聖・バルナバミッション」と呼ばれる病者救済事業を開始した。女史はまず、現存する聖バルナバ教会を設立し(教会の中はこのようにこじんまりとしている)、次に女子ホーム、男子ホームなどの生活のための施設を設置した。これらのホームでは多いときで300名のハンセン病者が生活し、聖バルナバ教会の信者も500名に達したと言う。
このように急激な改宗の中で、また別な問題が発生した。湯之澤部落の大師講信者が護持していた大師像を湯川に投げ捨てようとした。大師講信者が何とかそれを制し、落合の山林中に小堂を建立して安置、教会所を開いた。それがこの建物である。この建物の周りに四国八十八ヶ所霊場を巡礼し、礼所の土を1すくいづつ奉持して帰ってきた。湯之澤の信者、草津町の篤志、またそのほかの篤志が一体づつ寄進した八十八対の石仏の下に、奉持した聖地の土を埋没し、草津新四国八十八ヶ所霊場が出来た。八十八個あるので手間はかかるが、全てを拝んできた。しかし、霊場の場所が熱帯植物園の裏側で、熱帯植物園で飼われている動物の糞尿の匂いが充満し、ひどい状況である。また、石仏やお供え物の陶器が破損している状況である。人があまり訪れている様子も感じられない。ちょっとひどい状況であるように思う。
その後の湯之澤部落についてだが、大正15年当時の群馬県知事である牛塚虎太郎氏は第51帝国会議に「草津温泉付近ニ国費ヲ以テ癩病者収容部落建設ノ件」という請願を行っている。この請願の要旨を述べると、「草津町には草津温泉を慕って全国から集まる患者が湯之澤という部落を形成しているが、湯之澤は従来の草津町に接近しているので病毒が伝播する心配がある。また、湯之澤は非常に住まい地域であるから年々増加する患者は付近に散在する傾向があり、これを放任すると予防上危険であうえ草津町の反映を妨害する恐れがある。そこで、国費で草津温泉を利用できる知識に患者を収容することを請願する」というものである。帝国議会衆議院はこの請願を受理し、政府は湯之澤部落移転を正式に閣議決定する。
昭和4年、内務大臣安達謙蔵氏が移転候補地の視察のため草津を訪問し、これをもとに政府は昭和5年の第59帝国議会に「草津癩療養地区設定費予算」を要求する。予算請求に当たっての政府説明の概略は次の通り。
「昭和5年の全国一斉調査によれば患者の概数は14,000余人である。これには軽症者は含まれていない。療養の道を持たずまた救護する者のいない患者の収容施設としては全国5ヵ所の道府県立療養所と昭和6年完成予定の国立長島愛生園があるが、これらによって確保される病床数は4,000床にすぎない。このため多数の患者が或は諸国を流浪し或は自宅にこもって不完全な治療に甘んじ、甚だしい場合は全くなんらの治療も講ずることもない状態にある。草津町の湯之澤は健康者居住地と近接し、患者も自由に往来しているので予防上看過しえない状態にありながら戸口は増加している。その大きな原因は資力ある患者の収容施設が欠如しているからである。草津温泉を導引できる地域に療養所を中心とする療養地区を設定すれば、資力のない患者を収容することはもちろんのこと、資力ある患者に対しても、この地区への往来を督励することによって、湯之澤部落は自然に消滅するであろう。しかし、このような施設を確保するには土地の買収、住宅の建築、道路の築道…など、仮に300人分の施設を講ずるとすれば、110余万円を要するが、昭和6年度については12万円の予算を計上したい」
政府はこれにより湯之澤部落のハンセン病患者が療養所に自発的に移り、湯之澤部落はやがて消滅すると予想する。
療養所建設予定地となったのは、草津中心部から3キロほどほど東方の滝尻原、水ノ窪、沼尾原、芳ケ窪、栗生などで、当初の総面積は10万9千坪(36万平米)に及ぶ広大な地域である(現在の総面積は73万2千平米)。草津町の人々はこの地を「移転地」と呼ぶようになった。
このような国立療養所建設の本格化は、コンウォール・リー女史の「聖・バルナバミッション」にも大きな影響を与えることとなる。この計画は湯之澤部落を拠点とした計画であったからである。「聖・バルナバミッション」では独自施設の建設計画がさらに存在したが、それらはは頓挫することとなる。
イギリスの恵まれた家に生まれたにも関わらず、湯之澤でハンセン病者に献身するリー女史の生活はきわめて質素で「西洋乞食」と呼ばれることさえあったという。リー女史は一人一人の患者を訪問しながら手厚く包帯を替え、いつも励ましの声をかけると共に、死すれば草津の谷間に投げ捨てられることさえあった患者の遺体を自ら洗い清め、手厚く葬ったと言う。湯之澤の人々は、いつしかリー女史を「かあさま」と親しく呼ぶようになったという。
1936(昭和11)年1月、高齢のため草津の冬に耐えられなくなったリー女史は、兵庫県明石市に移り住む。同じ頃、英米と日本との関係が悪化して海外からの寄付が減少した「聖・バルナバミッション」の経営は困難になり、1941(昭和16)年に解散した。そして同年12月18日、リー女史は明石で天に召される。遺言どおり、草津に戻った女史の遺骨は、病院と共に草津聖バルナバ教会納骨堂に収められた。
なお頌徳公園は、リー女史が病人のために作り、のちに町に寄付されたものである。
リー女史のその偉業はベルツ・スクリバ両博士に匹敵するほどのものであると私は考えるが、負の歴史の下で活躍した方であったが故か、私はリー女史のことを今日までまったく知らなかった。観光マップにも公園のことは書かれていても、これを誰が作って、どのようないきさつで市に渡ったかを記述しているものは全く見当たらない。私も七日間も草津に居られるのでこのことを詳しく知ったが、二泊三日くらいの旅行では知ることも無かったであろう。
1931(昭和6)年にはじまった栗生楽泉園の建設工事は昭和7年10月末に第一期工事がほぼ完了し、12月には湯之澤部落の人々を対象とする外来診療が始まった。そして、12月28日に湯之澤部落から五味勘三郎という人が入所したのを皮切りに、昭和8年84人、昭和9年77人、昭和10年72人、昭和11年50人と、かなりの人びとが入所した。しかし、入居したのハンセン病患者の多くは湯之澤部落に住む人ではなく、宿屋のハンセン病者客がかなりの比率を占めていたようで、湯之澤部落住人にとっては栗生楽泉園へ入所することにかなりの抵抗があったようである。栗生楽泉園には内科や外科などの各科を備えていることもあり、湯之澤部落に住むよりも享受できるメリットは大きいように感じるが…なぜか?それは、最初の国立療養所長島愛生園開所前に制定された「国立癩療養所患者懲戒検束規案」が入所への不安と動揺を与えたと考えられる。具体的には下記のような内容である。
第一条 国立癩療養所ノ入所患者ニ対スル懲戒又ハ検束ハ左ノ各号ニヨル
一、謹責 叱責ヲ加へ誠意改俊ヲ誓ハシム
二、謹慎 三十日以内指定ノ室ニ静居セシメ一般患者トノ交通ヲ禁ズ
三、減食 七日以内主食及副食物ニ付常食糧二分ノ一迄ヲ減食ス
四、監禁 三十日以内監禁室ニ拘置ス
五、謹慎及減食 第二号及第三号ヲ併科ス
六、監禁及減食 第四号及第三号ヲ併科ス
監禁ハ前項第四号ノ規定ニ拘ラズ特二必要卜認ムルトキハ其ノ期間ヲ二箇月迄延期スルコトヲ得
そして、二条から第四条で懲戒・検束を課す行為を列挙し、「謹責」「謹慎」にあたる行為として「所内の草木を傷害すること」「家屋・建物・備品を毀損すること」「貸与した衣類・物品を毀損または隠匿、所外へ搬出すること」「流言浮説などを流すこと」「喧嘩口論をすること」など、「謹慎または減食」にあたる行為として「みだりに所外に出ること」「風紀を乱すこと」「職員の指揮命令に従わないこと」「賭博をすること」など、「減食または監禁」にあたる行為として「逃走または逃走を企てること」「職員などに暴行もしくは脅迫を加えること」などを挙げている。
この規定から明らかなことは、国立のハンセン病療養所は単なる医療機関ではなく、病者をあたかも犯罪者あるいは犯罪を犯す可能性の高い者とみなすような施設だった、ということである。栗生楽泉園の正面を入ってすぐ石に、林の中に入っていく細い道があり、それをたどると礎石だけを残した「特別病室」の跡に至る。病者を監禁したこの建物は他の建物とは隔絶された所に建ち、まさに刑務所を想起させるたたずまいである。そのゆえに「重監房」とも呼ばれていた。そこは「癩予防法」を貫く精神の本質が何だったのかを私たちに語りかける場ある。
このような規則があったためか、国立療養所が出来れば湯之澤部落は消滅すると見ていた政府や栗生楽泉園の予想ははずれた。1930(昭和5)年に800人ほどいた湯之澤部落の人口は、1940(昭和15年)においても500人程度に減少するに過ぎなかった。
大東亜戦争へ時代は移る中、排外的国粋主義が台頭するようにない、この傾向はハンセン病者を「国辱」「非国民」とみなす空気を強め、各府県で無癩県運動、放浪する病者の一掃運動を急速に進展させることになる(このころ、熊本本妙寺のハンセン病患者の一斉摘発、収容といった事件がおきる)。
開所から9年を経た昭和15年、政府と群馬県は湯之澤移転交渉の根本方針を確認し、移転に本腰を入れ始める。その根本方針は「群馬県の湯之沢癩部落移転交渉の概要」に示されている。そこに「群馬県の見る所によれば本妙寺癩部落と湯之沢部落とは本質的に相違せるものあり。即ち本妙寺癩部落は浮浪癩の集団にして極めて多岐なる犯罪を内包するに反し、湯之沢部落は然らず極めて自然に生成せる部落にして合法的集団と見做すを得るものなり。かかる観点よりして、之が移転を慫慂するに当りては群馬県としては終始穏健平和裡に之を解決せんとするものなり、然れども第二段の構へとしては強行解決の方途を講ずるに遺憾なきを期する為万全の準備と警備計画をなすは言を俟たず」とあるとおり、三上がかつて病者に説いた考え方を維持しながらも、強権の発動も辞さない姿勢が明確に打ち出されている。
「聖・バルナバミッション」の解散が大きな要因となり、療養を受けるところも無くなり、湯之澤部落のハンセン病患者はほとんどが栗生楽泉園へと移った。栗生楽泉園が他の療養所と大きく異なるのは、資金さえあれば敷地内に自宅を設けられることである。資力のある方はそうした形で、栗生楽泉園敷地内で暮らしていると言う。
栗生楽泉園はすずらん通り(国道292号線)を六合村方面にバスターミナルから3km程歩いたところにある。町の境にある火葬場や葬儀場よりも境界に近い。明日、私は栗生楽泉園を実際に見に行ってみようと思う。長く虐げられ、2001年5月11日の「癩予防法」違憲国家賠償請求訴訟まで、私はハンセン病のことを何も知らなかった。今日一日で色々なことを知った私としては、どうしても療養所をこの目で見てみたい。見学が許されるかどうか、ちょっと心配である。