中島義道 「後悔と自責の哲学」

私はどうも過去の出来事に対する後悔や自責の念を打ち消すことができない人間らしく、生まれて30年近くの間に起きた様々なつらい出来事(実際に記憶としてあるのはここ20年位のものだが)思い返したり、自分の意志とは関係なく思い返さされたりして、時に冷や汗をかき、時には呆然となりながら何とか生きている。こういう後悔や自責の念を積み重ねていくことが「生きていくこと」ならば、私は何年生きられるか分からないが、結構な辛い思いをこれからもしていかなくてはならないということになる。

人はなぜ後悔するのか?「あの時、何でこんなことをしてしまったのだろう」という後悔が生まれるには、少なくともその事柄に関与しているという自覚が必要である。自覚すること、それは意図的な行為になんらかの仕方で関与させることができることに気づくことで、その限り後悔が可能になる。この「後悔しうる範囲」には個人差があるようで、どうやら私はその範囲が比較的広いのではないかと感じている。

「そうしないこともできたはずだ」という思いが人を後悔させるのだが、この思いは「そのとき私が自由だった」という思いとリンクしている。だが「あのときAを自由に選んだから、Aを選ばないこともできたはずだ」と推量するのではなく、私は「Aを選ばないこともできたはずだ」という信念を抱くからこそ、私はAを自由に選んだと了解しているのである。つまり自由とは自ら実現したある過去の意図的行為に対して「そうしないこともできたはずだ」(他行為可能)という信念のもとに生じてくる。この信念は根源的であり、ほかの何物にも由来するものではない。そしてこれを広義に「後悔」と本書では捉えている。
しかし、この後に「自由に選んだ」と思う自由とは一体何なのか?自由は「過去における自由」としてしか、つまり時間との連関によってしか認識できないのに、我々は往々にして時間を極小的現在に限定してとらえようとしてしまう。この意味での原型としての自由とは、あくまでも責任追及の到達点としての、禍を引き起こした原因としての過去における自由意思である。原型的自由は、過去において自分が選んだことに関して「それを選ばないこともできたはずだ」という後悔とともに現れる
AとBとの二つの選択肢のうち一つを選ぶという岐路に立たされているその時、どのようなメカニズムがはたらいて私がその一方を選ぶのか、正直全く分からない。このとき「自由」という言葉を使っても、「いかなる理由で」Aを選ぶのかに関して、いかなる説明もできない。そのわけは、自由という言葉は、その時の私の心に現に起こっている事実を説明する言葉ではなく、現在振り返って「どこまで」責任を追及するべきかという規範に属する言葉だからである。もし、その時まで私の責任が追及されるべきだと判定されるなら、私は「その時自由にAを選んだ」とみなされる。つまり、「そのとき私が自由にAを選んだ」ということは、そのとき現に私の心のうちで事実、何が起きているかとは独立なことなのである。そう冷静に考えると、正直救われるような後悔も私の場合は少なくはない。

ところで、上記は意図的行為に対する後悔であるが、「思わずしてしまった」という非意図的行為に対する後悔というものも存在する。どう見ても自分の意図的(目的論的)行為が直接かかわっていないことに対しても、「そういうこともできたはずだ」という後悔の念を募らせる。交通事故を起こしてしまった人が「その時違う道を走っていたら…」、「もう少し早い時間に家を出たら…」と考える、そのような後悔である。
本書では車に排気ガスを引き込んで自殺した父を持つ少年の例が紹介されている。その少年は「自殺直前の朝、学校に行くときそのすぐ傍を通ったのに気がつかなかった。気が付いていたら救えたかもしれない」と涙を詰まらせながら訴えていたそうだが、「気がつかなかった」ことを後悔するのは自分の意図的行為以外の後悔であったといっていいだろう。むしろこの場合は自分が一定の意図的行為を思い立たなかったことに対して後悔している。これは、具体的な行為以前の心の状態であって、心の状態において「気がつくこと」と「気がつかないこと」という新たな選択肢がここに形成されている。つまり後悔が先にあり、そして後悔するからこそ「気がつくこと」ができたような感覚になり、それに導かれて「気がつくこと」と「気がつかないこと」の両方を自分が対等に選べたような気がしてくる。
上記の少年の例は人間存在の根本的なあり方として、ハイデガーが提唱していることに非常に近いと思う。人は誰しも「生まれてきたい」という意志を持ち、この世に生まれてきたわけではない。日本人としてであるとか、男として、どの親のもとでといった条件の提示は全くなく、生まれてしまう。というか、生まれさせられてしまう。こうしたどうしようもない「事実性」つまり「投げ込まれてしまっていること」から人生はスタートしている。ハイデガーは「投げ込まれてしまっていること」の自覚から過去が発生していると考えているが、むしろ「投げ込まれてしまっていることに対して一定の態度をとること」つまり広い意味で「後悔すること」から、過去は発生している。人間は自分が投げ込まれてしまっている事実性を何の抵抗もなく素直に受け入れるわけではないからである。むしろ、各人の事実性は超えられない枠であって、絶えずその枠を超えようとする可能性を認めつつも、そのつど決して超えられない枠として立ちはだかっている。言い換えれば、人間は動物と違って未来へ絶えず可能性を投げかけるからこそ、そしてその可能性がほとんどかなえられないからこそ、さらに後悔を堆積させる。


私はこんなことを考えたり、いろいろと後悔したり、時々は自責の念にかられたりもする。これはどう考えても不合理であることを知ってはいるのだが、それでもやめることがどうもできない。それどころか自分の実存のすべての重みをかけてしがみついてしまう。
こんな態度をとっていると、人は私の周りに駆けつけて「後悔はやめなさい」という。「後悔しても過去は変えることができない」と説得してくる。みんなが後悔や自責の念を熱心に叩きつぶしに来てくれる。なぜもこんなにみんな熱心なのか…それは、みんな私の「幸福」を望んでいるからだろう。そしてそれを通じて、自分も「幸福」になることを望んでいるからだと思う。だいたい、後悔や自責の念にばかり駆られている人間など見ていたくないのだろう。そしてそれが、社会で潤滑に生きていくための知恵なのだと思う。
しかし、いかんともごまかしがきかない大いなる後悔の前にはそうした企ては無力である。真実を知りたいがために、さらに古傷をえぐるような真似までしてしまう。
後悔や自責の度合いが私とは比べものにはならないだろうが、たとえば子供を殺人などで失った親が、その子供がいかにして死んでいったのかを知ろうとする…それを知ることによって不幸になることは分かっていても、周囲の慰めよりも真実を優先するようなその気持ちに近い。
これはもう、私の性質なのである。そして、その性質自体をもつにいたった自分に対して、後悔と自責の念が絶えない。

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