店頭で見かけて「あ、俺のこと?」と思い即買い。しかし読まずにしばらく寝せてしまっていた本。本書は4人の若者と中島氏との仮想対談のような形で進む。同じ中島氏の著書である『働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか』と同じような形をとっている。働くことが~と同じように、この本の中に出てくる4人とは若き頃の中島氏であったり、今の中島氏であったり…自分の分身である4人と対話をすることで意見が整理されている。そのため他の中島氏の哲学書よりは相当読みやすい。
「なぜ生きるんだろう?」とか「人生の意味って何?」ってことは、程度の大小はあれど人間として生きていれば考えてしまうことだは思う。しかしそうしたモラトリアムな状態は比較的若い頃に脱却(忘却?)し、一般的に言われている社会に「適応」できた人世の中を、うまいこと回していってくれている。だが、こうした脱却が出来ない人間も少なからず存在する。恐らくそういう人には「ビビッ」と来る様なタイトルである。そして中島氏はそうした人たちに「そうした考えから脱却するのではなく、徹底的に考え抜くべきだ」と説くわけである。このあたりで拒否反応が出る人は、まず読むべき本ではないと思う。
実のところ、私は今の生活が退屈でならない。決まった日常を退屈ながらも毎日同じようにこなし、常に休日のことばかり考えている。こうして何十年と年を重ねていくのかと思うと、ちょっと恐ろしい気分になってくる。
先日、頭痛が酷いので逓信病院の脳外科に行って来た。脳外科の待合室で記入したヒアリングシートの項目の一つに「脳腫瘍が発見された際、本人へ告知しますか?」という選択肢があり、私は迷うことなく「はい」に丸をつけた。その後診察まで随分と時間があったので「ここで脳腫瘍が見つかったら自分はどうするだろうか?」ということを考えてみた。私は腫瘍の摘出手術等の治療を受けるだろうか?自分の意思だけが通せるならば、私は受けないと思う。そうなれば、どこかへ一人で旅にでも出たいと思うだろう。そして切のいいところで終わりにしようと思えたら、あとは運命を受け入れるだろう。ただ、最近は自分の生き死にという判断も自分ひとりで下すことが出来ない。人との関係が介入してくる。私の場合もこうした判断が下せるのかどうか、その点については自信がなくなってきた。
結果として脳腫瘍のようなものは見つからず、良くわからない頭痛だけが残ったのだが。
既に生きているわけだから、何もしなければ「生きている」状態が継続されていく。死に転じるには能動的のアクションが必要なのだが、これは小さなアクションではない。私が考えた「脳腫瘍が発見されたら…?」というのは受動的なアクションである。「生きることも死ぬこともイヤ」という方にこうした受動的な条件を差し出したら、結構受け入れる人は居るのではないかと思う。能動的に死ぬというのが嫌なのである。正直、それは怖い。
少し話がずれた。
こうした退屈を解決するためなのかどうかわからないが、社会では暴力的ではないかと思えるほど人生の目的のようなものを見つけさせようとする。どんな社会が形成されようと、どんな教育が施されようと、各人がどんな積極的な生きる目的をもとうと、いずれすべての人は死んでしまい、いずれ宇宙から人類の成果はことごとく消滅する。このことを直視してしまうと人生が虚しいということは疑う余地がない。おそらく誰しもがこんなことにはうっすら気がついているのだろうが、現代の社会ではこうしたことを明るみにすることを大変忌み嫌う。企業の採用でも消極的なことばかり話して全体のトーンを下げるような人間はまず採られないし、そういうことを明るみにする人間は迫害されていく。
ハイデガーは自分が明日にでも死んでしまうかもしれないという真実を見ないようにして生きている、そうした人間存在のあり方を「非本来的」と呼んだ。それに対して直視することを「本来的」と呼んだのだが、本来的に生きるというのは確かに苦しいことである。今の社会は「効率よく非本来的に生きる」ゲームを集団でしているようなものである。
「生きる」という言葉の対義語が「死ぬ」であっても、人が採る選択肢が対義語になるわけではない。「生きたくない」という思いを持つ人間が皆能動的に「死にたい」と思うわけではなく、死に対しても恐怖を持っている。そうした宙ぶらりんの状態でずっと何かを求め、考えながら生きていくというのは、死のうという決心をする以上に辛いことなのかも知れない。そんな微妙な線で立ち止まっている人には、救いの手になるかも知れない…いや、それはちょっとむりかなぁ(笑)と思える一冊である。



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