以前、中島氏が書いた「うるさい日本の私」という本を紹介した。日本の至るところで荒れ狂う「言葉を伴う音や管理放送を鎮める」ための戦闘記であったが、それらの戦闘の経験を踏まえ、コミュニケーション論的に人々の行動を分析した往復書簡が本書である。往復書簡の相手は過去に「拡張機騒音を考える会」で中島氏と一緒に活動をしていた加賀野井秀一氏。中島氏、加賀野井氏共に海外での生活経験があるが、中島氏はウィーン、加賀野井氏はフランス。このあたりがサブタイトルの「偏食哲学者と美食哲学者の会話」につながっている。二人とも哲学者という括りになっているもの、中島氏は「悲観的なドイツ哲学者」に対し、加賀野井氏は「楽観的なフランス哲学者」であるから、大きな違いがある。このギャップを乗り越えて、両者の往復書簡は成り立つのかとハラハラさせられる。
騒音問題について真摯に抗議し続けた両氏であるが、騒音を出している側に全く悪意が無く、事なかれ主義や曖昧さで真っ当に相手にされないという現実を突きつけられ、日本の街を変えることはとても出来ないことを体験している。
いきなりざっくり所感を述べさせてもらうと、日本における言語のやり取りというのは非常に表層的で感情的なものであり、欧米におけるそれは表層よりも内容をじっくりと重視しているという指摘に大いに納得させられた。具体的にいえば、エスカレーターでの注意を喚起する放送であれば「エスカレータでは遊ばないようにしましょう」というのがよくあるパターン。それが「エスカレーターで遊ぶな!」という放送になれば「何だその言い方は?」という具合になる。つまり、日本人は言葉の表層的な部分に対してまず感情が表れる。そしてその中身を理解しない。表層的に問題が無ければ、意識の外に行ってしまう。日本人が「エスカレーターの案内」のような公的な音には寛大であり、私人の発する音(携帯電話の着信音など)には不寛容であるという性質も無関係ではないと思う。
と、日本の場合...と連呼してしまったが、ウィーン&フランス絶賛で「日本はダメ」とか「欧米は優れている」という論点に終始しないことには大変好感が持てる。多くのヨーロッパ賛美者の著作物のように「理念としてのヨーロッパ」と「現実の日本」との比較がダラダラと流れるような本であれば、途中で読むのを止めたことだろう。「良い」とか「悪い」とか主観的な価値観で論じず、「文化の違いがある」という客観的視点で論じられている。両氏のコミュニケーションの方法論に関する分析は非常に面白い。
ところで、昨年「KY(空気が読めない)」という言葉が流行った(?)が、これなどはまさに「和をもって貴しとなす」価値観の現代版である。「一を聞いて十を知る」、「ツーカーの仲」、「腹芸」、「以心伝心」、「行間を読む」などなど...言葉で語るというよりも、むしろ言葉の余白で語る能力を日本人は発達させてきた。議論したり話し合ったりすることを逆に「屁理屈」だとか「大人げない」とか、「青臭い」と言われてしまう。だが、こうした察知力は同じ前提を持つ人々、つまり同じ文化の中で価値観を共有するようなマジョリティにしか通じず、マイノリティ的価値観を持つものを排斥するような動きを強める。こういう構造を見ていると、イジメなんてものはなくなりそうにないと切実に思う。



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