目次をパラパラっとみて、なんとなく手に取ってしまった一冊。だって、
- 「なぜ人を殺してはならないのか?」だって? ー法と倫理
- 「<私>は特別な存在」なのか?ー私と他者
- 「脳が心を産み出す」!?―こころともの
- 人は「意味という病」に取り憑かれた存在か?―言語と映像
- 「社会はリアリティを失った」のか?―社会とメディア
って、大変面白そうな感じはしませんか?さっさと手にとってレジに向かってしまった私です。
ぶっちゃけ言って、本当に面白かったのは5章のみ。
1章では2chにある時期あった「なぜ人を殺してはいけないんですか?」というスレッドへのレスを、ハンス・ケルゼンの法実証主義(法に従わなければ罰されるがゆえに、人は法に従う)、ストア学派などに代表される自然法論(法には当然従うべき合理的な根拠があるからこそ、人は法に従うし、また従わなければならない)、H・A・ハートの分析法学(日常的言語使用の分析によって、帰納法的に法の概念を抽出し、経験に見合うような形に再構成していく...不文法なイギリス分析哲学的な方法)、道徳性・倫理性(道徳感覚論、義務感覚論、快楽主義)などにマッチングさせ、それぞれのエッセンスを簡単に紹介している。レス内容が様々な哲学的方法論に収束していく様子は面白いのだが、それぞれに対する解説が少し薄い。
2章では「私は実在するのか?」という、哲学的には基本的な内容に言及。「私」ではなく、<私>である。哲学者永井均氏流の表現で、デカルトの有名なことば"cogito ergo sum"(邦訳は「われ思う、故に我あり」だが、適切には「我推う、即ち我在り」であろうと筆者は指摘)の「cogito」に該当する。考える主体の私とでも申しましょうか。この言葉を原点とし「独我論・独在論」、「他我認識の問題」について検証している。
3章の対象は「脳死臓器移植」の哲学的含意について。本件における「脳死は人の死の基準となりえるか?」、「それが倫理的に許容されるか?」という二つの問題を、2章でも扱った"cogito ergo sum"を原点とし「唯物論・唯心論」、「心身・心脳問題」から考える。肉体と言う実態に対し、心とはどういった存在なのか、過去にこれほどの諸論があったとは...
4章は一番面白そうと思っていたのだが...「いかに、哲学とは映像表現が適さないか」という内容でした。何度かブログにも書いたように、哲学と言うのは微細にわたり適切な表現をしなくてはならないため「書き言葉」以外では表現しにくいということの検証である。
そして5章。冒頭に井上陽水の『傘がない(1972年)』と『最後のニュース(1990年)』の歌詞が書かれている。「傘がない」については以前ブログにて歌詞とともに「社会問題に対して現実には傍観者にしかなりえていない」という思いを書いた。『最後のニュース』はこの方のブログに詳細に記述されているので参考にしていただきたい。この二つの曲をつなぐキーワード、それは「社会に対するリアリティの喪失」である。しかし、20年の時を隔てている二つの曲には大きな断絶が存在している。『傘がない』が「政治や社会のリアリティをどこか信じていて、でもそれにはあえて背を向けている」に対し、『最後のニュース』では後ろめたさや言い訳のらしき文言は見当たらない...つまり「リアリティを完全に欠いたバーチャル・リアリティ」だと筆者は指摘している。
戦前・戦中の時代、リアリティの中心は「国家」にあったが、戦後それは「革命」やその実行者である「市民」(学生運動あたりを連想してください)に変わった。そして学生運動が下火になってきたのが1970年頃、『傘がない』は発表された。そして1990年前後は、『ベルリンの壁崩壊(1989年)』、『ソ連崩壊(1991年)』といった共産圏の失墜、『湾岸戦争(1990年)』による戦争の仮想化、さらに1995年ころから急速に広がりを見せた『インターネット』というインフラ...『最後のニュース』はまさにこうした時代背景を適切に読み取った歌詞であると思います。
このようにして時代とともにリアリティの所在は変遷していった。こうした社会的リアリティの拡散と相対化を、思想的に正当化するイデオロギーが「ポストモダニズム」である。「ポスト」という言葉が付いている通り、「モダニズム(近代主義)」の後という意味で、それに対する「プレモダニズム(前近代主義)」という時代もあり、これぞれを筆者はこう定義している。
さらに「モダニズム」については
「ポストモダニズム」は警句をこめて、このように述べています。
ポストモダニズムに対する考え方は人により多種多様で、「成長すること」が至上命題のようになっている現在の市場では疑うべきもないことなのかもしれません。しかし、それが本当に何の意味を持つのかということは、私にはよくわからない。「無駄なことはやめましょう」、「生産性を高めましょう」、「効率よくお金を儲けましょう」ということが何よりも優先される。そういう世界においては、哲学などというものは最大の無駄だということになるでしょう。私はどうしてもこうした世界に虚しさが感じられて仕方がない。そして、世の中には何か普遍的な価値があると(幻想であっても)信じて邁進してきた頃の人々が猛烈にうらやましい。
一つ、ポストモダニズムを超えられると私が期待しているものがあります。それは環境問題。考えれば考えるほど、ポストモダニズムと環境問題は相反する。だが、人間は愚かなもの。どれだけの犠牲を払うことで「ポスト・ポストモダニズム」へ移行できるものだろう?



この記事を読み解くにはお恥ずかしながら若干インプットが足りなく、少々困惑しながら読ませていただきました。
一つだけ、よろしいでしょうか?人類共通の普遍的価値は「生命の尊厳にあり」を前提に書かせていただきます。
>一つ、ポストモダニズムを超えられると私が期待しているものがあります。それは環境問題。
この指摘は非常に的を得ていると思います。環境問題は地球的規模のもので、もはや一国の利害にとらわれて放置していられる類のものではないのは周知の事実ですね。必然的に解決に向けた国際的な対話・協力が必要となる喫緊の課題です。では、なんのための環境問題の解決なのか?その時に見出される答えは簡単なはずです。それは人類の存続のためです。人類というと「何を大きな話を」と斜に構えて鼻であしらう輩もいますが、要は我々一人ひとりの明日のためです。大切な人の明日のためです。大切な人の明日が掛かっているのに、大きいも小さいもありません。俺はまだ独身ですが、小さなお子さんがいらっしゃるヒデユキさんなら、お分かりいただけるものと思います。
環境を守るということは、ほかならぬ生命を守るということに同義と解釈します。20世紀は史上空前の規模で大量殺戮が行われ、経済発展のために生命が手段化され人間性が疎外されていきました。今、その弊害に苦しんでいるわけです。
ならばやることは決まっているはずです。「人間性の復権」「生命の尊厳を守る」そのことに尽きます。環境問題を考える時、このことにたどり着かざるを得ないはずです。その共通認識に立って、マクロ的には国際社会が結びつき、ミクロ的にはその国々に暮らす庶民同士が結びつく時、事体は時間はかかっても(そんなに余裕はないでしょうが)に解決の方向へと、少しずつでも進んでいくはずです。
「本当によいことというのは、カタツムリの速度で進む」(ガンジー)
今は我慢強く、粘り強く、諦めずに身近なことから地道に取り組んでいくしかないですね。今までこのブログを読ませていただいて、ヒデユキサンの視点というのはとても大切なことに向けられているなという印象を受けています。その視点から紡ぎだされる問題意識、ぜひ「ぽや~ん」と漂うように生きている身近な周りの人達(もちろんそんな方ばかりではないでしょうが)と共有したいただきたいなと、勝手ながら思うわけです。
>ポストモダニズムと環境問題は相反する。だが、人間は愚かなもの。どれだけの犠牲を払うことで「ポスト・ポストモダニズム」へ移行できるものだろう?
これからも犠牲は避けられないものがあるのでしょうね。我々はまだまだ未来に向けて、多くの屍を乗り越えていかなければならないのかもしれません。しかし、その犠牲はなるべく少ないほうがいいわけで、最小で済むように祈るばかりです。
staygoldさん、こんばんは。返信が遅れてすいません。
この本の内容は非常に総花的で、一つ一つの哲学的内容については言及していないんですね。私も俄か哲学好き人間なんで、完全に伝えきれなかったのですが、伝えようとするとこの本以上の長さになってしまうかもしれません^^;
> 人類共通の普遍的価値は「生命の尊厳にあり」を前提に書かせていただきます。
人類と言うか、この世におけるほとんどの生物が一義的な本能としてこの価値は有していますよね。残念なことに生物界において唯一例外なのが人間で、戦争をしたり、自殺したりしたりしてこの普遍的価値を認めていないようですが…
少々、私の持つ疑問と意見を書かせてください。もちろん、反論大歓迎です。
人類に限らずすべての生物が存在する意味、これが私にはどうにもわからない。これはポスト・モダニズムが明らかにしてしまった最も深刻な問題ではないかと私は考えています。さらに言えば実は「存在自体に意味はない」ということに気がつきはじめている。しかし、意味が有るとか無いとかそういう問題の前に、我々はすでに存在してしまっているのです。これは大変残酷なことだと私は思っています。
だから、そうした現実と向き合わずあまりに享楽的・刹那的に生きてしまったり、「経済の発展」や「効率的にお金を儲けましょう」ということに普遍的な価値を転化し、皆が邁進しまくってしまう。一種の「逃げ」の結果がにこの状況なのかと思えるわけです。年をくった政治家なんかは、老い先短いわけですから、まさに享楽的ですよね。先のことなんて全然考えようとしない。彼らに環境問題を論じさせることは無理なのではないかと思っています。これはやっぱり若い人間が先陣をきらなくてはいけない。
だからと言って、「人類永劫の繁栄のために…」なんては思ってないんです。私は「人は生まれてしまった以上、不幸である」という考えから抜け出せない人間なんですが、できればこういう考えを世の中には広めたくはないと思っています。やっぱりこんなこと考えながら生きるのは辛いですし、不健康ですから。(そういう考えの人間に子供がいるということは最大の矛盾ですよね。私のような考えを子供には持ってもらいなくないと思っています。)自身が存在するならば、できる限り辛く切ない状況を作りたくはない…それが私のスタンスです。私の社会に対する問題定義はそういった一環でしかなく、それ以上の大それた意思はありません。
staygoldさんのおっしゃるように、「環境問題」という大きな山を見続けているだけでは問題に着手できないんですよね。少しずつでもリアルに、現実的なところから手をつけなくては何も始まらない。「千里の道も一歩から」ってところです。ガンジーの言葉、いいですね。
●ヒデユキさんの持つ疑問と意見について
返信ありがとうございます。ネット上での議論というのは中々難しいものなので、感じたことを率直に書かせていただきますね。
>残念なことに生物界において唯一例外なのが人間で、戦争をしたり、自殺したりしたりしてこの普遍的価値を認めていないようですが…
これは言えていますね。ただ、生命の尊厳という普遍的価値を認めそれを擁護しようとしている心ある人たちは世界を見渡せば無数にいます。政府やマスコミがそれを意図的に無視し、報道しないのが今の現状です。生命の尊厳を守る善の連帯が勝つのか、それとも生命を手段化する悪の連帯が勝つのか、そのせめぎ合いの中で人間は滅びずに今まで命脈を保ってきているのではないでしょうか。
同じ人間の中にある「善」とか「悪」とか、常に移ろい行く決して単純ではない個々人のその命のメカニズムを解明できない限りは、一種愚かで謎めいた人間の行動に対する答えを見出すことはできないのではないかと思います。それについては科学ではいまだ解明に至らず、心理学の世界でも「とても学問的に解き明かせる領域ではない」という意見が大勢のように思います。これについては今まで数冊読んだ方々の意見(日・米)を参考にしているだけですので、根拠としては弱いきらいがありますが。
>人類に限らずすべての生物が存在する意味、これが私にはどうにもわからない。
これは俺にもわかりません。なぜ宇宙が存在しなければならなく、なぜ地球が存在し、自分を含めた人が木が水が存在するのでしょう。後づけの意味づけで、「それは生態系や生命が存続するために必要なことだからだ」ということは分かります。ただ、トータルで根本的になぜそれらが存在する必要があるのか。実は俺も昔から考えていたことです。まあ、夢でも幻でもなく事実存在していることに対してごちゃごちゃ言っても仕方がないのですが(笑)。
とりあえず、「存在自体に意味はない」と結論付けるにはまだ早いと思います。世の中人のこと殺すことを考えている人間ばかりではありませんから。上記にも上げましたが、心ある人々は大勢います。ただ、悪は結びつきやすく、
善は結びつきにくいだけなのです。決着はまだついてはいません。
>意味が有るとか無いとかそういう問題の前に、我々はすでに存在してしまっているのです。これは大変残酷なことだと私は思っています。
俺が思うのは、その存在することの意味を飽きることなく探求していくことに、人間として生きていくことの意味や使命があるのではないかということなんです。20世紀最大の歴史家と呼ばれたイギリスの歴史家アーノルド・トインビーは人間の歴史を「挑戦と応戦」と表現しています。今は分からないけども、目の前にあることにはすべて意味があって、その意味を理解できるとまた謎にぶつかって、その挑戦と応戦の繰り返しの中で人生は深まってより楽しく充実したものになっていくのではないでしょうか。
なので、確かにいやおうなしにここに「ぽん」と置かれてしまっているのは「酷」ではあるのかもしれません。しかし、「残酷」とまでは思わないんですね。ヒデユキさんがなぜ「残酷」と思うのか、よろしければ具体的にお聞きかせ願いたいです。
>私は「人は生まれてしまった以上、不幸である」という考えから抜け出せない人間
それはこんなおかしな世界に、もしかして自分が意図するとしないとに関わらず産み落とされてしまったという気持ちがあるからということなのでしょうか。
ここで一つ質問させてください。
中央アジア・キルギス共和国に世界的作家のチンギス・アイトマートフという方がいました。大統領候補にも推された方です。その方の著作に「カッサンドラの烙印」という作品があります。物語の中では、この世の中に生まれてこようとしている子供達は生まれ出ることに対する否定的な信号を発することで、生まれてくるかどうかを選択できるという設定になっています。いやなら生まれてこなくてもいいのです。母親が生まれてきてくれるのを望んでいてもです。もし、ヒデユキさんがその選択を出来るとしたら、今の世に生まれてこられてましたか。もし、とりやめてこの世に生を受けなくても、後悔はありませんでしたか。よろしければ教えてください。
人間は、生まれながらにして望む幸福な状態で生まれてくる人は少ないと思います。必ずなんらかの事情の元に生まれてくるものです。それは、国単位で言えば貧困国か先進国か、平和な国か紛争の耐えない国か。家庭単位で言えば裕福な家庭か貧困な家庭か、等々。五体満足で生まれてこれるかも分からないですし、家庭不和の家に生まれることだってあります。人は、「生まれるところを選べない」といいますが、俺はそれはすべて過去に起因するものと考えています。
「人は生まれてしまった以上、不幸である」と断じてしまうのはどうかと思いますが、「人は生まれながらにして不幸である」というのなら、当たらずも遠からずだと思います。誰しもが生きるうえで抱え込んでしまう「業」を抱えて生まれ生きていくわけです。それが人生に大きく影を落とすことになるでしょう。ただ、人間には影のような否定的な力ばかりではなく、それと同じくらい多くの光り輝く肯定的な力が備わっています。その肯定的な力を強めていけさえすれば、光は影を消し去って一種つらいことばかりに思える人生というのも思いのほか上向き楽しいものできるのではないでしょうか。
ロシアの著名な作家でノーベル文学賞受賞者でもあるミハイル・ショーロホフという方がいます。彼は次のように述べています。
「人間は幸福の鍛冶屋ですよ」と。
俺この言葉を知ったとき、「そうだな」と思ったわけです。未来をどうこうするも、心のさじ加減一つ。俺自身、愚かな自分と日々向き合いながら、火に入れちゃ水で冷やして「トンカン」「トンカン」していきたいと思います。少しでも、自分の思い描く人生に近づけるように。
なんか、長文になってしまいすいませんでした。
staygoldさん
こんにちは。返信ありがとうございます。
そして、私の返信がまた遅れてしまい、申し訳ありません。
ネット上の議論というか、口頭よりも文字を介した議論と言うのは、難しいですね。言葉を緻密に選ばなければいけません。私の解釈の中に誤解がありましたら、ご指摘いただければと思います。
staygoldさんのご意見は非常に現実に即していると思います。それに対して私は…なんというか妄想的と言うか、変わっているのかもしれません。ちょっと厭世的内容が続いてあまり気を悪くされないでほしいのですが、今回も偽りなく思いを語らせていただきます。
> 生命の尊厳を守る善の連帯が勝つのか、それとも生命を手段化する悪の連帯が勝つのか、そのせめぎ合いの中で人間は滅びずに今まで命脈を保ってきているのではないでしょうか。
人間の歴史は非常に不思議なもので、なぜ命脈を途絶えさせる可能性があるようなことを行ってきたのか、それを解明することは私も不可能だと思います。staygoldさんは心理学的な面からご意見をいただきましたが、社会学的見地からも困難でしょう。
その昔、こうした人間の行為にも宗教(キリスト教が典型的でしょうか)は超越的根拠を与えました。生命の尊厳を保ちつつも時にはそれを(自己存在を正当化するための)手段としてしまっていました。今はこれをマスコミや政治が担っているのかもしれませんね。
> まあ、夢でも幻でもなく事実存在していることに対してごちゃごちゃ言っても仕方がないのですが
「事実存在している」のでしょうか?
形而上学的問題として多くの哲学者がこの証明に取り組んできましたが、厳密にいえばこの世の5秒前に自分が明らかにここに存在しているということを証明できません。
もしかするとこの世は、中国の有名なお話「邯鄲の夢」のようなものかもしれません。
ちょっと詭弁めいているように思われたかも知れませんが…しかし、生よりも"死とは何か?"ということを考えるとき「本当に自分は存在するのか?」、「存在とは何か?」、「無とは何なのか?」という問いに私はいつもぶつかります。そして「本当に存在している」という結論をいつも出せずにいます。
> とりあえず、「存在自体に意味はない」と結論付けるにはまだ早いと思います。
ちょっと確認させてください。もしかしますと、「人を殺すような人間の存在に意味はない」という意味で捉えられたかもしれませんが、私は「(人を殺す、殺さないにかかわらず全ての)人の存在自体に意味はないのではないか?」というつもりで書かせてもらいました(わかりにくくて申し訳ないです)。
本当に「そんなことを言い出したらどうにもならないじゃないか」と思われるかもしれませんが、人間もいつ、どのような手段によってかは判りませんが(愚かしければ意外と早く自滅するかもしれません)、いつかは地球環境の変化で滅亡します。その地球も太陽の膨張に飲まれて消滅するでしょう(これは50億年も先の話ですが)。
こんなに極端な話ではないにしても、「その人が存在していた」という記録が残るのは、多く見積もっても数百年というところです。いかに大変な思いをして歴史に残るような偉大なことを成しても、たいした期間は残らない。人の行為、存在に意味があるとはとても思えなくなってしまうのです。
上記の意見は、「意味」という軸を主観的ではなく客観的な位置に設けています。中には仙人のように自分ひとりで「存在する意味」を見出せるすごい方も居るのかもしれませんが、人と付き合いつつ社会で生きていく以上、客観的視点にも耐えうる「意味」を持ちたいと私は思わずには居られません。
>俺が思うのは、その存在することの意味を飽きることなく探求していくことに、人間として生きていくことの意味や使命があるのではないかということなんです。
私自身、存在の探究をずっとしてきたつもりなのですが、これがどうも「存在自体に意味はない」という方向へどんどんと吸い寄せられています。そして世の中で一般的に言われる「幸せ」というものから遠ざかっていくような気がしてなりません。しかし、自分はこれで良いかと思っています。何より、この問いを止めることができません。
本書ではポスト・モダニズムを「これはあらゆる共同体や社会を超越するような、あるいはすべての共同体や社会が共有できるような普遍的価値など存在しないことがわかったあとの、価値の相対主義」と説明しています。私は非常に的を得た表現だと思っているのですが、普遍的価値観が喪失し、ただ漂流し続ける根無し草のような社会の中で「意味の探求」をし続けることに多くの人が耐えられるのでしょうか?
最近増えた…生活・労働環境が劣悪な状況にある人がこの問いに立ち向かったとき、どういう答えを出すでしょうか?内向すれば自殺し、外向するようならば通り魔事件のようなことを引き起こす要因になるのではないかと思うのです。そういう理由から、非常に危険な考えでは無いかと思いますし、あまりこういうことを押し付けるべきではないのかなと考えているのです。
ところで、この問いに対して明確に応えられるアーノルド・トインビー氏のような一般的に言う「成功者」の言葉は、結果に対する後付けだとしか思えません。この世をそんなに単純化して、誰もが同じようになれると説くのは暴力的ではないでしょうか。
努力をすれば報われる、世の中平等である…人は(建前上)こう言います。しかし、実際にはそんなことはありません。世の中には運もタイミングも、いろいろな要因が重なって結果が生まれます。非情ですが、それが世の中です。
staygoldさんは意味の探求を続けられますか?
そして、うすぼんやりとでもこの「自己が存在する意味」がみえますか?
見えていたら、その思いをぜひとも聞かせてください。
> ヒデユキさんがなぜ「残酷」と思うのか、よろしければ具体的にお聞きかせ願いたいです。
理由は二つあります。
人間は必ず、しかもそう長くないうちに、自分の意思に関係なく「死んでしまう」ことが一つ。
渋谷治美氏の『逆説のニヒリズム』から言葉を引用すれば「人はそれぞれ根拠無く生まれ、意義無く死んでゆく」からです。
もう一つは、「自分の存在に意味がある」と自信を持って言うことができない、今という時代がそれをとてもしにくいからです。
「自分の存在に意味が無い」ということを、既に存在する自分に対して思い続けること…これは、自分自身の存在を否定することであり、その否定が人をうちのめす様子は「残酷」だと思うからです。
その上、自殺なんてされてしまったら、堪りません…
> もし、ヒデユキさんがその選択を出来るとしたら、今の世に生まれてこられてましたか。もし、とりやめてこの世に生を受けなくても、後悔はありませんでしたか。よろしければ教えてください。
「チンギス・アイトマートフ」という作家とそのお話のことははじめて聞きました。ぜひとも読んでみたいお話です。
芥川龍之介の『河童』という小説の中で同じような描写が見られます。この話中では河童のお産について触れている場面があり「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と、母親の胎内にいる河童の赤ちゃんに問いかけるのです。赤ちゃんは「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」と答え、生まれてくることを拒否します。すると、河童の産婆は母親に注射をし、同時に大きかったおなかが萎んでいくのです。
私は6年くらい前、本気で「河童はイイなぁ」と思っていました。私は生まれることを拒否したと思います。
でも、今の感覚からすると、正直言ってわかりません。無になるという感覚に恐怖を覚えますが、元々無ならばそのような恐怖すら感じようがありませんから。
ただ、今、自発的に死にたいかと言われたら、NO!とこたえます。
三つの理由のために私は死ねません。
一つはやはり、自分自身がなぜ存在するのか、なんでこんなにも理不尽な運命を人は突き付けられなくてはならないのか、それをもっと深く考える必要があると思うため。
二つ目は、自分を知る数少ない人間を不幸にしたくないため。特に子供については、この世に存在させたという責任がありますから。
三つめもっと社会に対して怒るため。二つ目の理由とも密接に関係していますが、これから生きようとしている人間を不幸にするような政治や経済の仕組みに対してしっかり物申す。何でこんなにもみんなおとなしいのかなぁ?
ですが、何かのきっかけがあってふと自分が殺されたりするようなことがあっても、仕方がないかなぁという思いもあります。
人を押しのけてまで自分が生き続けたいと思うほど、生に渇望してもいません。
こんにちは、ヒデユキさん。
ある日突然やってきた、見ず知らずの人間からの問いかけに今回も真摯にお答えいただきとても感謝しています。さすが埼玉県民!(といってもご出身かどうかは存じ上げませんが。俺は生粋の埼玉県民です)。こちらもまた、いくつかお答えをさせていただきたいと思います。
>普遍的価値観が喪失し、ただ漂流し続ける根無し草のような社会の中で「意味の探求」をし続けることに多くの人が耐えられるのでしょうか。
結論から言えば、耐えられます。大丈夫なんです。人間の中にはその「力」が備わってるんです。大事なことはその「力」があると信じ、強めてあげることなんです。その時に必要なのが「励まし」です。人間が「漂流し続ける根無し草」にならないためには、一人にならないことです。そして、俺自身は、諦めるのではなく、失われた普遍的価値観の復権を目指す側に立って生きていきたいと思っています。
>staygoldさんは意味の探求を続けられますか?
そして、うすぼんやりとでもこの「自己が存在する意味」がみえますか?
見えていたら、その思いをぜひとも聞かせてください。
「意味の探求」。俺は死ぬまで意味の探求を続けます。理論や言葉ではなく、この生命で理解できるまで。それはやはり死ぬまでかかります。努力が足りなければ死ぬまでにも間に合わないかもしれません。出来るところまでいきたいです。
「自己が存在する意味」。それは見えています!人間(俺)はこの世の中に、「人生を存分に楽しむため」に生まれてきたのです。それはどんなこと事をもです。「難こそ誉れ」。障害に勇んで挑み続ける人生が楽しい人生です。障害は、決していやなことではなく大事なことに気づくありがたい「きっかけ」です。目指すのは、環境に左右されない、環境を支配しゆく生き方(当然まだまだでですが)。人間、なにもないからと安穏にまかせて油断し弛緩した日々を過ごしていると、たちまち退屈がやってきます。「小人閑居して不善をなす」。精神的には碌なことがありません。
家の母は幼い頃に父親をなくして相当な苦労をして生きてきました。それでも俺が幼い頃からいつもニコニコして上機嫌です。幼くして父親を失った悲しみ、苦労した影など微塵も見せずに。先にあげたアーノルド・トインビーは、その世界的な名声とは裏腹に心から愛した長男を自殺によって失っています。その挫折感・喪失感といったら想像を絶するものがあったはずです。トインビーが21世紀最大の歴史家と呼ばれるまでになったのは、そんなどうしょうもない悲しみを乗り越える過程で世間的な成功や名声の無意味さに気づいたからにほかなりません。
悩みや苦しみえを乗り越えた先に、本当の喜びや感動があるもの。
ただし、なぜ生命体という物体が存在するのか、それは本当に存在するのかということについては、それを生み出す条件を整え、この体を構成する原子を有するこのあまりにも広大な宇宙に聞いてみるよりほかないでしょうね。
ヒデユキさん!、ともに三十路~ズ(笑)。いけるところまで、自分らしく探求に挑んでいきましょうよ。そして、怒りをもって生きていきましょう!それ、大賛成です。
staygoldさん
こんばんは。返信ありがとうございます。こんなにうれしいと思えるのは久しぶりですね。
「人が生きる意味は何か?」であるとか、「死とは何か」であるとか、こういった話題は「問うこと自体がタブー」に近いような雰囲気(私の少ない付き合いの中では)があります。深刻に捉えることをとかく嫌悪されがちです。しかしどうも根が暗いせいか、こういう問いに絡み取られずにいられないのです。野球の話題もゴルフの話題もオリンピックの話題も結構なのですが、この深遠たる問題の前では、正直全部どうでもいいことのように思えてならないのです。
(先日、「一人が好きだ」と書いたのは、このところ猛烈にこういう思いばかりするからなのです)
同じく、政治や宗教の話題もことごとく避けられますよね。まぁ、上記の問題にすればこれら問題はまだどうでもいい(本当はどうでもよくないんですが)のかもしれませんが、まぁ、同じレベルか、またはそれ以上に嫌われる話題なんだなぁと思います。
人の死や生きる意味に対して、人の態度は3つのパターンに分けられるんじゃないかと私は思っています。
1.そもそもこういう考えを持たない、または持ちたくない人
2.こういう考えに絡み取られて身動きが取れない人
3.考えに考えた末、自分なりにある程度の結論が出てしまった人
私は完全に2の世界の人で、3まで突き抜けてしまえる日が来ることを願っているのですが、なかなか納得できる答えが得られません。
ただ、2の世界に一人で留まり続けているのもこれまた精神衛生上非常に悪く、時として何かに出力しないと社会生活に影響を与えてしまうのですね。私にとってのブログとはそういう存在で、ここに書くというのが一種の自分の中での整理というか、自己との対話のようになっているのです。自分が自分であるために書く場なので、正直言えば、自分が今(自身と家族を養うためにしている)仕事よりも大事なことであり、このことについて意見を頂けるstaygoldさんのような方は、見ず知らずどころか自分にとっては大変貴重な存在なのです。私こそ感謝しなくてはならないと思っています。
> さすが埼玉県民!(といってもご出身かどうかは存じ上げませんが。俺は生粋の埼玉県民です)
残念ながら、私の出身は福島なのです^^;
ですが、東京に出てきてから東京以北の人には何か、共通した人間性を感じています。最初はとっつきにくいのですが(シャイなんでしょうか?)、ある一線を越えて付き合うとこれほど面白い人間はいない。ちなみに私の妻は生粋の埼玉県民でして、何か私にとって心地よいような県民性が存在しているのかもしれません。
かなり人というものの存在について否定的に書かせていただきました。正直に「人が生きる意味とは、そこに昆虫や微生物が何だか分からずに存在しているように、本人からみれば意味はない」という視点は変わりません。しかし、自己が人として存在している(らしい)という事実を受け止めるにあたり、一縷の希望を持たずにはいられない…それもまた、正直な思いです。
> ただし、なぜ生命体という物体が存在するのか、それは本当に存在するのかということについては、それを生み出す条件を整え、この体を構成する原子を有するこのあまりにも広大な宇宙に聞いてみるよりほかないでしょうね。
諸説あるものの、宇宙自体の終焉の時もある…宇宙も私たち同様に勝手に膨張させられつづけて、なんだかわからないうちに収縮反転したりして理不尽な条件のもとに消滅する存在のようです。宇宙と一緒に悩んでみましょうか。
> ヒデユキさん!、ともに三十路~ズ(笑)。いけるところまで、自分らしく探求に挑んでいきましょうよ。そして、怒りをもって生きていきましょう!それ、大賛成です。
ああ、もう30過ぎちゃいましたねぇ。こういうこと考えてばかりいると「いつまでも青臭いことばかりで悩んで、現実を見ろ」って言われちゃいますが、あなたの言う現実って何ですか?って感じです。この現実を見て、怒りの感情すらも抱かないあなたの現実を伺いたいと思ってしまいます。
↑
私は本当に偏屈野郎ですねw
またどうしようもないネタをさらしたら、突っ込み入れてやってください。
StayGold's cafeにもちょくちょく出現するかと思いますが、よろしくです。