中島義道「醜い日本の私」

なぜ日本人は「汚い街」と「地獄のような騒音」に鈍感なのか?
我々は美に敏感な国民である。欧米人に比べても、心づかいが細やかで洗練されている――。しかし、いや、だからこそ、この国には騒音が怖ろしいほど溢れかえり、都市や田舎の景観は限りなく醜悪なのだ!「心地よさ」や「気配り」「他人を思いやる心」など、日本人の美徳に潜むグロテスクな感情を暴き、おしつけがましい「優しさ」と戦う反・日本文化論。

本書 帯より


私の出身地は福島県福島市である。
高村光太郎の妻、千恵子は「東京には空がない。」と言っていた。彼女にとっての本当の空とは、生誕した福島県二本松町(現在の二本松市)の、安達太良山が見える空だという。二本松市は福島市の隣だ。二本松市まで行って、私は空を眺める。そして私は思う。
 「おい、電線だらけじゃないか!」

本書は以前書評を書いた『うるさい日本の私』と『「うるさい日本」を哲学する』の間の時期に発刊された本である。先に紹介した二作は日本中を取り巻く騒音に対する内容が中心であったが、本書では日本固有の都市景観や美的感覚、日本的サービスについて言及している。

中島義道先生は、間違いなく現代日本におけるマイノリティである。ありとあらゆる「普通の人」がなんとも思わないことに日々、苦しんでいる。しかし、ほかのマイノリティと明らかに違う点が一つある。それは、表現する手段を持っているということである。
中島先生が上記の本を含めて強く主張し続けていること、それは「この日本で生きているのはマジョリティだけではない。マジョリティがなんとも思わないことに悩み続けているマイノリティが少なからず存在することを忘れずに、安易に物事を決めてくれるな」ということである。色々な人がいる。だからそれぞれの人々の感覚を許容する...そう「感受性の共生ができる社会」を目指したいという思いが随所から読み取れる。
だから本書でも「日本のマジョリティはなんとも思わないこういう事態は、いったいなぜ起きるんだ?」という点を、日本と他国、現代と近代・古代といった様々な軸を持って説明している。だが、この本の本来の目的を見誤ると「変人大学先生の変人紀行」にしかならない。おそらくamazonあたりで星ひとつをつけている人たちは、そうした表層的な面しか読み取れなかったのではないかと思う。これらは真意を伝えるための例に過ぎない。


まずはその例たる、目次を紹介しよう。

  1. ゴミ溜めのような街
  2. 欲望自然主義
  3. 奴隷的サービス
  4. 言葉を信じない文化
  5. 醜と不快の哲学

1~2章は日本の都市景観を中心に語られている。
特に声高に主張されているのは、日本の空を覆い尽くす電線と電柱の存在である。こうした景観に対して何の疑問を持たない人(マジョリティ)と、「こんな景観おかしいでしょう?」と訴え続けてきた中島先生の行動が記載されている。

私はバウハウスにインスパイアされたような造形物が非常に好きで、とくにモダニズム建築の家にはいつか住んでみたいと思っている。あの開放的な空間(特に窓。日照時間が短いドイツならではの工夫なのだろうか?)、機能とデザインが調和した(いや、最も機能的なものはデザイン的にも優れている)という合理的な考え方がとても好きなのである。
都心の高級住宅街を歩いていると、そんな建物に出会うことがある。日本人の美的感覚も捨てたものではないと思う。庭もよく手入れされている家が多い(我が家は微妙だが...)。
そして、東京や横浜のウォーターフロントの景観の美しさといったらない。ベイブリッジの光を見ながらドライブしているときなどは、こうした美しい景観を作れる日本人のセンスの良さは驚くばかりである。

私は就職活動等のために上京してきた19才の頃、東京の繁華街という洗礼を受けた。新宿歌舞伎町の電飾と音と人とゴミだらけの道路に驚かされた。同様に、上野や神田や秋葉原でも同じような衝撃を受け、こういうゴミ溜めのような街には居たく無いし、住みたくないと思った。
なぜ、自分の家はあれほどこぎれいにでき、美しいウォーターフロントの景観を作れる人たちがたくさん居るというのに、ちょっと繁華街に出ただけでなんでこんな風になってしまうのだろうか?
店レベルでいえば、あまりに典型的なので挙げさせてもらうとドンキホーテである。統一性がなく、商品を探しにくい陳列。人と人がすれ違うことすら難しいほどに商品が店内を埋め尽くしている。あの店なら、火事で死人が出るのも良くわかるというものである。おいてある商品も低俗なものと、比較的高価のブランド物が混在している(といっても、本当に一流のものはこのような店に卸されないから、街でよく見かけるような商品が多い)。少なくとも、この店でブランド品を買いたいとは微塵も思わない。究極のカオス店だと思う。私はこの店に居ると具合が悪くなってくる。しかし、私の住む近くに店舗が増えたりしているのである。つまり、多くの人々はこういうカオス状態に嫌悪感を抱かないのだろう。
茶の湯の侘び寂び、東山文化の代表とされる銀閣寺のようなものを愛する感性をも持ち、自宅はこぎれいにすることができる日本人が、なぜあのような街や店で買い物が出来るのか、不思議でならない。

そこで筆者は、欲望自然主義という言葉でこの日本人の不思議な行動を説明している。その点を引用してみよう。


欲望自然主義とは、その欲望の歯止めのない大きさを意味するのではなく(その点にかけてなら、欧米列強の欲望の方が桁違いに大きい)、欲望の様態を特徴付けるのだ。日本人にとって「自然」とはある決まった領域ではなく、そこにはいかなる限界も無い。まさに人間のなすこと全てが自然なのである。(中略)欧米人は美を実現する際に徹底的に「醜」を排除しようとするが、日本人はそうではない。「美」のすぐそばに「醜」があっても、それほど気にしないのだ。「醜」が「美」と共存していても目障り・耳障りではないのである。こうして、京都に典型的であるように、清涼な寺院の庭園が原色の看板に埋もれ、電柱が林立し、頭上では電線がとぐろを巻き、それにスピーカーががなりたてているゴミ溜めのような街と自然に共存していることになる


つまり、(マジョリティ的)日本人の特殊性としてその景観に一貫性を持たない(そういう意味での自由)ことができると解釈している。まぁ、この辺は正直、私の疑問が解けたわけではないが、自分の事実認識とさほど異なってはいないので納得できる話である。


3章の「奴隷的サービス」と4章の「言葉を信じない文化」では、日本的サービスの特殊性について語っている。

私たちが店で何かを購入する場合、その商品と、商品に対する対価(お金)をもって取引をしているわけだから、この点において、売る側と買う側の力関係は同等な筈である。
しかし、日本と言う国において提供されるサービスは非常にお客に対して謙ったものであり、そしてサービスを受ける側の客もそれを当り前だと考えている。ちょっとにわかには信じられないような要求をする客もいるし、そうした客に対応すべく、恐ろしいほどの対応マニュアルを用意してサービスを提供する側は待ち構えていたりする(特に公共交通機関やホテルでは非常に徹底している)。
そして、この王様のような客と奴隷的なサービス提供者の関係が成り立つとき、王様(客)は個性や人間味をすっかり洗い流して思いっきり匿名的な存在に留まろうとする。
例えばタクシーでのやり取り。ほとんどの日本人客はタクシーに乗り込む時「九段坂下交差点」と目的地を言うだけである(ちなみに私はタクシーの運転手と話をするのが好きなので、一人で利用した時は、東京中の道路の話などをしている。お互いに最短ルートを考えあったりする)。降車するときに運転手から「ありがとうございます。お忘れ物ありませんように」と丁寧に挨拶されても、多くの方は全くの無言である。
近所の方に挨拶をされても返さないという人はまれだと思うが、いざ、サービスを受けるという立場になるとこのような態度を平気でとる。むしろ逆に「安全運転ありがとう。さようなら。」などと返事をすると、妙に勘ぐられてしまうのではないかと思うほどである。
このような現象は西欧型市民社会に共通にみられるものらしく、社会学的には「儀礼的無関心」と呼ばれるものらしい。これが日本では気持ち悪いくらい徹底している。

さらには、コンビニでの「いらっしゃいませ~~こんにちわ~」という、こちらを見ることもなく発せられるあいさつから、町を埋め尽くす標語、注意を促す放送へと矛先が向けられる。つまり「実効性が伴わないにもかかわらず、ただ存在するだけで、かつ、マイノリティ(中島先生)の美的感覚を著しく損なう」対象(役所など)へと突進しつつ、言語哲学者の加賀野井修一の言葉を借りつつひとつ面白い分析をしている。


言語哲学者の加賀野井修一は、こういう日本人の言語観を「言霊思想」と呼んでいる。日本人の言語使用にあたっては、言葉はその意味伝達機能を無限に希薄化され、ただ「語っていること」が異様に前景にでてくる。加賀野井が言っているように、その典型的例は「祝詞」であって、「交通安全」も、「駅前放置自転車クリーンキャンペーン」も祝詞なのである。実効を期待せず「いつか気づいてくれる」だけでいい。人々の心に残って「だんだん改善していく」だけでいい。短期にならずに、その時まで忍耐強く待たなければならない。
こういう考えだからこそ、掛声、標語、警句、お願い...という「言葉」が街にあふれることになる。しかも、それによって直ちに効果を求めているのではないから、一度決まったら、えんえん何十年でも続くことになるわけだ。


こうした実効性のない「祝詞」も、景観を愛する人々からすればとてつもなく不快なものなのだろう。そう、私などはこういうものがありふれているところで育ってしまったので、あまり感じなくなっていたが...。しかし、定型的な「祝詞」で迎えられるコンビニの客と言うのも、ずいぶんとなめられた存在だなぁと思わずにはいられない。


以上が多様な感受性が存在するということに対する数々の例の一部である。

多くの進歩的(に見える)人々は感受性の多様化を認めているようであるが、その実、どうかはわからない。「個性を伸ばそう」という学校では児童・生徒の平均化に躍起になっているし、マイノリティはコミュニティの中で排斥され、いじめに苦しみあえいでいる。感受性のファシズムがまかり通っている。
私はこの本に書かれている数々の例に共感しているわけではない(だって、私は中島先生じゃないですから)。だが、こういう例題で具体的に説明されないと、鈍感な我々はその苦しみと言うものを寸でも理解できないのである。

本書のタイトル「醜い日本の私」は、感受性のファシズムが猛威をふるい、異端者を排除する日本と言う構造の醜さ、そして、こんな滑稽なことまでしないと皆に理解してもらえないという、中島先生流の皮肉のこもった自身に対する醜さ、双方にかかっているのだということを、最後まで読んで理解できた。

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コメント(1)

日本人に宿る悪しき「村八分」の思想。世界に誇る醜悪さでは他国を圧倒するかもしれません。

今という時代状況は「当たり前(と思われている)」のことに疑問を差し挟み、声を上げていくことが必要なんですよね。何かを変えたかったら、たとえ周囲から「変人」と呼ばれても、いや変人扱いされるくらい貫かないと物事は動かないんですね。そういう意味では、この中島義道氏はその名前のとおり「義」の「道」を貫かれているようですね。

皆気づかなくちゃいけない。その当たり前に慣れきってしまった自分たちのほうがよほど「変人」なのだということに。

今回の記事を読んで俺自身、騒音や景観というものに対する捉えかたが受動的に過ぎていたのかなと反省しました。というのも、実は家の母が盛んにそのことを気にし、行政の怠慢に怒りを表明していたからです。俺はというと、その表明を聞くたびに「またか」と少々うんざりするようなこともあって(まあ、愛する母の言うことなのでだまって聞くわけですが)。なぜかというと、今ある現状にさして不満を感じていなかったからです。あるいは、「仕方のないもの」と普通に考えていました。でも、よくよく考えてみれば「変」なものは「変」。「おかしいもの」は「おかしい」。だったら正常化させなければならない。そのためには波風が立つのが分かっていても言うべきことを言う。それこそが、人間としての正常な心持なのだと。

日本の景観の「おかしさ」については俺は「新・都市論TOKYO」という新書を読んだことで強く意識するようになりました。この本ではミッドタウンの設計に携わった隈研吾氏が対談形式で都市の景観論を語っています。ここでは詳細は避けますが「フェイクタウン」という言葉の響きが今でも耳から離れません。


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