「便利の向こう側にあるもの"我々が得たもの失ったもの」
第2信 staygold→ヒデユキ
かなり、私の理解しにくい主張を的確に解釈いただけて感謝しております。
先日、知人が講演のために京都に行きました。
東京から京都だと、二時間とちょっと。のぞみだともっと早いのでしょうか?
京都で日帰り出張だったそうです。
昔なら、京都ほどの距離ならば最低1泊くらいするのが当たり前だったと思うのですが、
なまじ交通機関が発達したがゆえに、こうしたことが可能になってしまったのですねぇ。
本当に無粋だなぁと思います。
リニアモーターカーなんて開通してほしくないなぁと、その話を聞いて心から思いました。
さて、そろそろ北京でオリンピックが始まりますね。私はこの世界的スポーツの祭典について正直言って全く興味が無いのですが、これを当局の思惑通り粛々と実現するが為に、色々な悪い面が噴出しだしているいます。そこを光に対する「影」と表現し、話を始めさせていただきます。今回のテーマは急速に進歩するネットサービスの話題が中心ですが、Webというバーチャルワールドではなく北京というリアルな都市も「急速に成長していく世界」という意味で、同じような題材に考えられるのではないかと思います。
光の後ろに影がある
「いったい誰のためのオリンピックなんだ!」
北京市に80年間住む老人が、叫んでいた映像が非常に印象に残った。何の番組だったかはわからないが、ドキュメンタリーで見た映像です。市街地整理、景観維持のために追放される人々。彼らが怒るのは当然のことのように思います。
今、北京市はネット上のバーチャルワールドでおきているようなスピードの変化が、リアルな世界でおきています。新しい道路や鉄道が次々に開通し、競技のためのスタジアムや、観客のための宿泊施設がすごい勢いで作られています。
これらの建設には民工と呼ばれる、国内各所からやってきた低賃金で働く人々が携わりました。しかし、彼と彼らのための食物市場は一つの工程が終わるごとに、市外へ追放され、整理されています。また民工として北京で働くためには新たにその資格の申請が必要で、オリンピック終了後に北京で同じような仕事ができる可能性はまさに皆無に近い。事実上みな泣き寝入りに近い状況で追い出されるそうです。皆、今後の生活について不安を抱いています。
国家の威信をかけたオリンピックというイベントは、一体誰のためのものなのでしょう?もともと北京に住む貧民層はその協力だけさせられ、祭典を眺めることすらできず追放されていく。元もとその地に暮らす人々に大いなる影響や犠牲を与えてまでして開催すべきものなのか、私には理解に苦しみます。これ以外にも、テロに対する厳戒態勢などで、オリンピックという光の後ろに確実に存在する影が、中国当局が隠しきれないレベルまでに見え隠れするようになってきています。
amazonにも、その便利なサービスという光の後ろに、時間だけでただひたすら働かされている人間という物流の影がありました。
何かに光が当たるとき、その光に対して影が、その大小の差はあれど、確実に存在すると私は思います。技術革新という点だけではなく、何か明るいところがある時、そこには必ずと言っていいほど影としての面が存在しているという「光だけではなく影も見つめる」複眼的視点や考え方を慎重にしていくことが、私はこれからの世の中を生きていく中では非常に重要だと考えます。
私たちは何かの便利を得るためには、何かを失っている。それは、昨今注目を浴びている環境問題などを例にすれば、いくらでも語れることなのではないかと思います。こういう視点を...そうですねぇ、義務教育を終えたころから、実際に若い人たちに考えさせていっても良い話題だと思います。(前回のStaygoldさんからの返信、「屠殺」を高校程度のレベルならば学校教育の中で見せて、考えさせるという意見には非常に賛成いたします)
今回はいきなりStaygoldさんの質問への回答から始まってしまいますが、私が考える哲学的基盤は「疑い続ける姿勢」といえるでしょう。自分が心地よい、便利である、楽であると感じる何かには、その光の面だけで完結しない影というか、別な面が存在する。そうした多面的・複眼的なとらえ方と、考えることをやめないという姿勢が必要かと考えます。
ただし、これは相当な理想論であることは私も承知しています。多くの人々は自分の生活を守ることに時間を費やさざる得ず、情報ばかりが次々にやってくる。私たちは立ち止まる余裕すらありません。そうすると、やはり絶望的な経験を人類にはもう一度してもらう必要があるのかなぁと、悲観的な考えをせざる得ないのです。
絶望による治安の悪化
今回論じているのはネットをはじめとした技術革新の上で便利なツールを得るという中で、我々は何を失っているかという点ですが、ありきたりな回答で申し訳ないのですが、これはやはり『治安』や『安全』ではないかと思うのです。
テクノロジーの急激な進歩が恐るべき貧富の差を作る要因となってきていること、そしてその貧富の差が治安の悪化を生んでいること。それは昨今のニュースを見ていれば枚挙にいとまがないことではないかと思います。
また中国の例で恐縮なのですが、私は正直に申しますと、中国という国は国内の経済格差や、宗教・民族問題でもう少し早く国家が崩壊するのではないかと本気で考えていました。しかし、一筋縄ではいきませんね。統治する側は力を持って強制的にそれらを封じ込めにかかっている。中国の治安担当者がこう言っていました。
「下層階級には暴力的な強制力を、上層階級には法をもって対応する」
と。
さすがに民主国家を標榜する日本においてそれは行われていませんが、本来、政府が行うべき『富の再配分』としての納税と社会サービスの機能は「どこも金がない」、「自己責任」などという言葉とともに次第に放棄されつつあります。このまま突き進むと、平和に暮らせる世の中を構築するには、中国的方法をとらざる得なくなるのではないかという危惧感を抱いています。たった数万円のために命を奪われる人々、平等だと教えられてきた結果が全く不平等であることに怒りや悲しみを覚え、周囲に危害を及ぼす人。そんな人が大量に発生しているではありませんか。
そして、私のような新しいサービスを創出しようとしている集団も、おもに富裕層を見ながらサービスの検討をいるのが事実です。その層に対してサービスを提供していかないと、やはり利益が上がりません。昔から『パレートの法則』のような「全体の大部分はその一部が生み出している(世界の80%の資産は20%の人間が所有しているなど)」ことが言われてきましたが、現在ではこのような傾向がさらにすすみ、新しいサービスを提供する側も急速に目がそちらに向いているような気がしてなりません。
そこから漏れた人たちは、半ばどうでもいい...生活にも、食にも、仕事にも、どんどん無視されていく存在になりつつあるように思えて仕方がありません。
実際のところなんとも言えませんが、大規模核を使うような戦争はこれからは起きにくいのではないかと私は考えています。
そうした大規模戦争がなくなった代わりに、テロのような局地的戦闘が続いています。貧しきものが富める者へ行う主張や復讐はこうした形に変わってきています。治安は先進国、発展途上国ともに明らかに悪化しています。こうしたテロをはじめとした危険は富裕層にも当然及ぶ可能性があるわけですから、やはり私はここでも「複眼的視点」を持っていただきたいと思うのですが、そんなことまで考えながら生きている人は本当に少ないと思います。
(先日のウイグルにおけるテロで中国の警察が十数名亡くなったことは気の毒ですが、ウイグルに対していままで行ってきたことを思えば、イスラム圏である彼らがジハードを起こすという気持ちも、非常によくわかります)
この便利の向こう側にあるもの...それは大いなる貧富と絶望。これら双方の戦いが、テロという手段に変わり、さらなる苦しみを生んでいるように見えてしまいます。
人と仕事について
仕事は生きるうえでの必要条件ではあっても、十分条件ではないと考えます。もし人生の重要局面に立たされてその決断を下さなければならなくなったら、その時はきっぱりと切ってしまったほうがいいのです。
そうなんですよね。ああ、わかってくれる人がいてよかった。
だから仕事のことで精神を患ったり、自殺したりするというのは、本当に本末転倒なのです。
人が生きる目的は仕事をするためではありません。それが何かは、具体的にこたえられませんが。
(会社の経営者なんかだと、生きる目的が仕事という人もいるのかもしれませんが)
生きるための「手段」と考えたほうが、肩の荷が下りるのではないかと考えています。
Staygoldさんには、人がする仕事がする仕事における重要な成果として「収穫」を挙げていただきました。
ちょっとこの点とは話が違うのですが、日本は食料自給率が先進国の中でも著しく低いわけですから、ちょっと法律を改正して、株式会社が農業に参画することにより、地方における雇用も活性化するのではないかと考えています。すごくビジネスチャンスもあると思うんですがねぇ...
恨まれるテクノロジー
お父様の写真製版の話、写真製版を無くす方向に動いて仕事をしてきた私には、何とも耳の痛い話です。私がその印刷会社に入った初めの年には、工場では製版フィルムとマスクを使いながら紫外線露光し、印刷物のフィルムを作っている職人さんたちが何人も居ました。しかし、その会社を退職する事となった4年後には、そのフロアは完全にMacばかりになってしまってました。
コンピューターを使った仕事が恐ろしいなぁと思うのは、技術習得に必要な時間が、手作業などでして来た頃と比較して、圧倒的に短いことです。例えば、しっかりとした機械図面を起こす技術を習得するには大変多くの時間を必要としましたが、今はCADソフトの進歩により、手作業の1/3~1/5程度の時間で、それなりに見栄えがするものを作成することが出来ます(まぁ、それでも昔からやっていた人に言わせるとまだまだ、色々なところが抜けているらしいのですが)。こんな具合なので、一般的に職人的な仕事を一途にしてきた人には、ずいぶんと恨まれたものです。やはり年齢と共に賃金は上がるものですし、若くて人件費が安い人間にさせたほうが会社としても利益が上がる。辛いところです。
例えば、医療の分野での技術革新は人間の寿命を延ばすことに大きく貢献してきました。それで多くの人が数年でも長く幸せを享受することができたのなら人を幸せにしたといえるでしょう。しかし、いたずらに寿命が延びたためにかえって本人は無為な時間を送り、あるいは介護でその家族が苦しむようならそれはどうなのでしょうか?
私は生に対する渇望が人より希薄なためか、本当にいい迷惑だと思っています。
放置しておいたら死んでしまうような病気にかかったなら、そのまま死んでしまってもいいと思っているのですが。
こういう技術進歩があるならば、尊厳死というか、死ぬことを選択する自由というものもほしいなぁと思っています。日本はまだそれを認めていないようですが、これは医療の進歩と併せて法律も同時に検討すべき重要な事項だと考えています。
また、ITの分野における技術革新は利便性をもたらす一方で、人間から「思考」というとても重要な作業を奪う傾向にあります。具体例を挙げれば、インターネットやPCが情報整理を円滑にし余暇を生み出し生活の効率化をもたらすどころか、人間から睡眠時間を奪っているという事実。それで人間が「白痴」のような状態にでもなってしまうのであれば、それもどうなのでしょうか?
いやー、本当に脳が退化していますね。
私の場合、思考能力よりも記憶能力に多大な影響を与えているようで、数日前にした自分の仕事のことを覚えていなかったりします。仕事自体が平坦な時など、その苦労などもさほど記憶に残らず、あっという間に忘却のかなたです。
また、簡単に色々な処理が出来るようになったので、単純に仕事量も増えましたね。仕事量が変わらず、パソコンなどが使えるならば理想的なんですがねぇ。私は仕事で使用するパソコンの処理速度が向上するたびに「クロック周波数に比例して、仕事も増えるんじゃないだろうな?」と冗談交じりにいつも言ってしまいます。
冒頭の京都の話ではありませんが、情報機器が発展することで出来るようになるからといって、仕事量が増えるのは本当に嫌だなぁと思います。でも、自分だけがその仕事量を維持することは出来ないんですね。全世界でパソコンの処理能力の向上が起きているわけですから。
この流れは止まらないのか?再考
「核」の例は実によい例であったと思います。Staygoldさんが取り上げないのならば、私から書こうと思っていたところです。
あの当時の物理学の大結晶ですからね。
なぜ「核」があのような使われ方をするに至ったかと問われれば、やはりあの時のアメリカにとって最も重要なことが終戦後のミリタリーバランスにおいてソ連に対し優位に立つことであったからとしか言いようがありません。単純に、ミリタリーバランスで優位な局面に立つという目的以上に、敵国民(日本人)の命は重要ではなかったと私は考えています。人間というものはやはりそうした非常に残酷な面を持つ生き物であるとしか言えませんし、私が当時のアメリカ大統領であっても同じ決断をするような気がします。私にとって、人というのは時としてそうした判断をもいと簡単にする存在という認識なのです。
そして、この弱者を省みないテクノロジーの進歩も、相当なる被害を被ることにより何か人が気づくか、それか人類が滅びるまで続くのではないかと思います。それによって実生活で困る人は真剣にこのテクノロジーの進歩による影の面をとらえるでしょう。しかし、それを便利に利用する層に、複眼的な視点で考え続けよというのは、かなり難しいのではないかと思います。愚かなる歴史は、残念ながら繰り返され、苦しむ人間が大量に発生し、治安の悪いすみにくい世の中になっていくのではないか考えています。
(この点「人間はそんなに愚かではない」というような反論があったら、ぜひともいただきたいと考えています。私は結構絶望しているので、明るい意見をいただけると救われるのですが)。
格差が残酷なのは、そのスパイラルに入ってしまうと、そこから中々脱出することが出来ないことにあります。短期的に見れば、一度の失敗することから経済的に再起することが非常に難しい世の中になっていますし、長期的に見れば収入格差が学歴などに現れることとなり、次の世代にもまたそうした重荷は受け継がれていきます。先ほども申しましたが、国にこれを改善する社会保障を期待することも難しい状況ですしね。
ちょっと話がずれてしまいましたね。
私は仕事をはじめて10年以上、こうした新しいサービスを創出する仕事についてきましたが、正直、もう飽きてきました。ですが、私が明日食べるパンを得るための手段はこのようなものしかなく、かなり仕方がなくやっているという現実があります。
(といいつつ、ものすごい夢中になっていること...つまり、単眼的視点しか持たずに、猛烈に仕事をしていることがあることも事実なのですが...矛盾してますねぇ)
でも、本心からすると、洛陽で仙人を待つ杜子春のような気持ちになっていることも事実です。私は本当に生活力のない人間なので、杜子春のような生活ができないかもしれませんが。
例えば、せかされて仕事をすることが無い、人間国宝級の技術を持つ職人というのは、戦わずに済む人がうらやましい。戦いたくないのに戦っている自分には、ものすごく魅力的に感じます。
さて、こんな具合に私は人類とはまた学習もせずに技術的に行き着くところまでいってしまい、多くの被害をこうむるしかないのではないかと思っています。それをやめるなら、金銭欲や権力をかなりに放棄し、隠遁しながら自給自足でもするしかないと思っているのです。
(実際に、私にはそれに近いことを実践している叔父が居ます。)
ご意見をいただきたい
さて、先ほども書きましたが、私にはどうにも明るい未来が描けません。
人を高みから見て「愚かだから不可能だ」といっている傲慢な姿に見えるかもしれませんが、正直言えばそのとおりなのです。
できればそのような思いは打ち砕いてほしいと思っています。
私ひとりがもつ権利とほかの成人がもつ権利は同じ。私ひとりが政治や経済に与えられる影響はたかが知れています。
私が考える「影も見て、そこそこ自重した発展を望みたい」という思い事態を否定する意見も結構。
もし同調いただけるならば、これをどう浸透させていくべきかという意見をぜひ伺いたいです。
まったく違う未来を考えられているというのであれば、それも是非ともご意見いただきたいと思っています。
また難儀なお願いをしてすいませんが、ご意見をお聞かせください。