カントの著書『純粋理性批判』、『実践理論批判』、『判断力批判』などを読んで批判哲学(コペルクニス的転回)を生み出たイマヌエル・カントという人間とは一体どういう人なのか、本当に不思議になってくる。「人間の根本悪」、「道徳的とはどういうことか?」考えさせられるテーマは山のように提示しながら、彼自身はこれら学説とどのように向かっていったのか?私が哲学を離れたカントという人から聞く話は「毎日同じ時間に散歩に出かけるため、周囲のみんなの時計代わりになった」とか、「客人を自宅に招いてよく会食をした」とか、そういう話ばかりである。
まぁ、時間概念の確立に重要な役割をカントは果たしているので、この時計の代わりになったという逸話は自説とリンクしているのかもしれない。カントは人間の認識能力の基礎を追及し続けた哲学者で、時間と空間の主観的形式だけは絶対に不可欠であると考えた。これが「絶対時間」、「絶対空間」と呼ばれる考え方で、こう宣言している
『時間は一切の直感の根底に存する必然的現象である(純粋理性批判より)』
つまり、時間という先験的な直感がなければ、そのそも人間は、世界を認識することさえできないと考えたのである。
少し、細かな話に入りすぎてしまった。
勝手な私の願いなのだが、哲学者というものは実生活であっても狂人的であってほしいと思っている。自らが提唱する学説を実践しながら生きている(大体そういうことを本当にすると狂人になる)ものだと勝手に思っていたのだが、カントは80年も生きているのである。死因は身体衰弱と老人性痴呆。この時代としては大変恵まれている方ではないだろうか?キルケゴールはデンマーク教会の改革を求めた教会闘争最中に道ばたで倒れて、その後死んだ。ニーチェは発狂し、最後は肺炎で死んだ。こういうのが哲学者の理想的な死に方(勝手に言わせてもらってます。すいませんねぇ)だと思うのだが、カントは後に残した影響に対して、その人生があまりに淡々としているように思えてならないのである。
というわけで、カントという「人間」に迫った本が読みたくなった。私はカントの「道徳的とは何か?」という考えに大変感銘を受けて、実はこの生きにくい世の中を何とか生きていこうという気になったのである。そこで、私の書評ではおなじみの中島義道先生の「カントの人間学」を早速手にとってみることにした。すいませんねぇ、また中島先生で。他の人の本も読んでいるのだが、書評を書くという気にまではなかなかなれないのである。
さて、「根本悪」や「道徳的とは」ということに論じていると、きっと今日の記事はすさまじく長くなり、私の精神力が持たなくなってしまうし、読む人も辛くなってきてしまうのでその辺については後日詳しく意見を述べたいと考えているのだが、一気に総論を述べると、そうした哲学的理想と現実的考えをかなり内包した人物であるということが分かってきた。どうも私は「女性との接点が少なく一生独身であった」とか、「清貧に徹した人物であった」とか「小男ながらも思想は崇高で清潔な哲人」といったイメージを勝手に持っていたわけである。しかし、この本を読んで、逆にそのような人間では理想と現実(たとえば、形而上学の基礎付けや道徳法則の演繹を徹底的に行いながら、おむつはなぜ害があるのかを真剣に論じるなど)を非常にリアルに見ていた。またカントは地上の永久平和を論じながらも、永久平和は墓の中だけで実現されるとみなしていた。つまり、表面的な不整合性をものともしないような懐の深さをもつ人物であるということに、この本の中の数々の例を読むにつれて理解していくことができた。(とは言いつつも、持論に対する反論には徹底的に戦ったりと、意外と器量が小さい面もあるなぁと思わされるのが、カントを人間としてみなすうえでは救いである)
この本はどちらかというと「あまりに偉大なるイメージがある(イメージが作られてしまった?)」カントを少々人間臭くあつかい、貶めている感も否めないが、人は神ではなく、そして、その自分の持ちうる状況を最大限に生かし、考え、それを表現していったという現実の方が「人間のする哲学」らしいし、きっと私の心に届く何かもなかったのかもしれない。
惜しむらくは、死の床に際して著書となり得なかったカントの断片的メモ類である。彼に時間があれば、これらはどのような花を咲かせたのだろうか?
カントの著書を読んでない方でも伝記のように楽しめるし、何らかの著作を読んでいれば、そのギャップというか、どういう生活の中から思想が生まれてきたのを考えることができ、より楽しめるのではないかと思う。それほど重い本ではないので、ぜひご一読をお勧めしたい。



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