アルベール・カミュ『異邦人』

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑い転げ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追及したカミュの代表作。

本書裏表紙より



人が社会で生きていくためには、自分がある役割を演じることを強要される。その演じる内容は国や地方によって多少の違いはあるにせよ「演じる」という行為そのものはどの社会でも必要とされる。演じることとは自分に対して「嘘をつく」ということに同義だと思う。
この作品の主人公ムルソーはこうした「演じる」ことを拒否した。だから、社会は彼を同じ国の大衆として認めない。彼は大衆から見て「異邦人」なのである。そしてムルソーが「演じる」ことをしない限り、どの社会の大衆から見ても彼はずっと「異邦人」のままであろう。

その反面、彼は自分が好むものに対しては非常に積極的でもある。しかし、深刻な問題に対して「どうでもいい」という態度を崩さない。彼は自分自身というものに無関心なのである。ニーチェ風に言えば、ムルソーは典型的な「受動的ニヒリスト」というところだろうか。
ふとしたことからムルソーは人を殺すことになる。そしてこの国の宗教はキリスト教で、裁判は陪審員制だ。つまりキリスト教的な大衆規範によってムルソーは裁かれることとなる。弁護士はムルソーが有利となるために積極的に働きかけるが、それすらムルソー自身にとっては「どうでもいい」ことなのだ。半ば被告人不在のような状況で検事と弁護士は法廷で戦い、結果彼は死刑となる。斬首刑である。
死刑確定後、ムルソーの元に幾度となく司祭がやってくる。その司祭とのやり取りが私は本書の最大の読みどころであると思う。考えさせられることはたくさんある。

一つ、考えたことを明らかにしたい。それは「社会常識」というものについてである。私は「常識」という言葉を御旗のように掲げて話をされることをとても嫌っている。常識というものが非常に揺るぎやすい存在であるということを認識せず(国家、宗教、文化といった状況が変わればあっという間に変化するものである)、ただ思考を停止してそれを元に話すのは一種の暴力である。
さしあたり私もこの日本で生きていくため、大衆に迎合した存在にすぎない。しかし宗教的、国家的な思想の拘束が少なく、色々なことを(場所次第では)論ずることが出来る日本という国は比較的健全だと思う。ただ、その健全さを活かさないことが多すぎる点が少々もったいないと思う。

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