太宰 治『人間失格』


恥の多い生涯を送って来ました。

人間失格 第一の手記より

あまりに難解で二度三度と読んだ本はいくつかある。哲学書などはそんな感じである。
しかし、内容が理解できているにもかかわらず三度読んだ本はあまりない。その中の一冊がこの人間失格である。

初めて読んだのは16か17歳の頃だった。私はこの最初の文章を読んで背筋が震える思いをし、そして全くもって「恥の多い生涯」そのものだと思った。あの頃、私の中の「恥」という言葉の定義は今の私の考えとは違っていたように思う。どちらかといえば客観的な、外面から見られ言われる「恥」ということに目を奪われていた。いろんなものをさらけ出して平気な顔をしていられる年長者に対する絶望的な意味合いと、自分自身が生きながら犯していった「恥」というものが入り混じり、嫌悪感を覚えた。私は太宰自身と言われているこの主人公を軽蔑した。歳をとるということ、それとその時間的経過に合わせて自分が経験していく「恥」というものの恐怖に大きく慄いたのである。

そして次に読んだのは25歳の頃。ちょうど入院していた時で、その病院の書棚にこの本があり再び手に取った。自分対する絶望に打ちひしがれていた頃で、半ばやけになって生きていた自分のことを、この本を読むことによって「ちょっと頼もしくなったのかねぇ」と感じた。多面的な感情を持ち、道化のように社会的役割を演じながら生きることに疑問を持ち、だけどその疑問に抗うこともできない。その無力さを嘲笑うことしかできなかった。その嘲笑う自分を認めてくれた本だった。本書の主人公よりはマシだと思った。そんな程度の低い思いもその頃の私には必要なものだった。

そして三度、私はこの本を手に取った。
虚無感にさいなまれて仕方が無いのが今の私である。何をしても自分の中にある客観的な視点が自分自身を監視しているようで、「恥」という概念もどちらかといえば内から湧き出してくる、つまり自分が恥だと思うことが恥であり、人が恥だと言おうと自分がそう思わないことは恥だと思わなくなってきた。ただその「恥」というもの基準が些か緩くなってきているようなのだ。ぶっちゃけていうと、どうでも良くなってきた。
ということを書いてみたものの、実際はいろんなことを気にしている。恥ずかしいと思っている。自分は随分と罪深いとも思っている。人に「あなたは恥ずかしい」と糾弾されるよりも、「自分は恥ずかしい」と気がついて悶えるほうが苦しいものだと思う。しかし、この虚無感...罪深いと思いながらも、そんなものは一瞬の出来事であり何の意味も持たないのではないか?気にするな。お前以外は誰も恥ずかしいなどとは思ってはいないと言い聞かせている自分がいる。そしてむしろ、この主人公のようなその場限りの後先追わぬ生き方というものに妙な憧れを感じてしまう。
つまり、葛藤の真っ最中なのである。

人間失格は、読む自分自身を写し出す鏡だと私は思う。
まだ生き続けていくのならば、この本を手に取る四度目というのがありそうな気がする。そのとき、私はこの鏡から何を見るのだろうか?

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