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千代田区図書館の蔵書を見ていたら、面白い本を発見した。「やさしい時計学(2)」。昭和30年7月10日初版の書籍である。

この本は機械式時計の基本的な構造、メンテナンス手法、各種公式などが記載された書籍である。まだ職人の世界は師弟関係が構成されており、師匠の見よう見まねで技術を盗みつつ習得するというのが一般的だった時代。そのような時代の中で、時計技術者は待ったなしで必要にもかかわらず、しっかりとした時計の教科書といえる書籍は存在していなかったがために作られたという本書。(2)ということは(1)も存在するのだろうが、残念ながら千代田区図書館にはなかった。

ちょっと面白いと思ったのは定価の記載である。定価260円、地方定価265円とある。物流の関係で、中央と地方で書籍の値段が違う時代があったのだろう。こういうのを見ると、現代ってのは恵まれているものだなぁと思う。どんな書籍でもネット上で購入することができる。そうした点では、中央と地方の差というのは限りなく縮まっている。
ちなみに、昭和30年(1955年)の大卒の初任給は\11,000ほど。現在の1/20位だろうか?そうすると本書は…5,200円。結構な高級書だったのか?

昭和30年は時計と言えば、機械式である(クォーツはこの14年後に登場する)。そして驚くべきは、基本的な構造においては現在の機械式時計と全くと言っていいほど同じことである。もちろん、新素材が誕生したり、ベアリングの構造が変わったり、オイルも高性能なものが誕生したが、そうした点を除けば、香箱の構造も、輪列も、脱進機の構造も全て同じ。長い間培われてきた機械技術というものに驚きを隠せなかった。この本をもとに習得した技術も、機械式時計に対してであれば十分に通用する。

当時の機械式時計の価格と寿命はどれほどのものであったか?本書に下記のような記述がある。


1年に1度分解掃除の手入れをするものとして7年も使えたら3000円や5000円の時計なら十分にお役目を果たしてくれたことになります。
また実際にも5年から7年くらいが時計の性能もよく調子もよく動くのであります。
(中略)
もっとも上にのべた5年とか7年というのは並級の時計の話であります。数万円くらいの時計で10年くらい、拾数万円の時計で15年くらいに時計の寿命をおさえるのがいいところではないでしょうか。
これからの皆さんはもし時計に対し、それ相当の性能で使うものとすれば、ある程度つかったらまた新しくいい性能を発揮する時計に買い替えるくらいの心構えをしていただきたいと思います。時計だってそんなに長く酷使してはかわいそうです。だんだん弱りもいたみもします。時計も生き物です。

3000円~5000円と言うと、先ほどの初任給換算で言うと、現在の60,000~100,000円位になるだろうか?クォーツ化により腕時計はものすごく安く製造でき、高耐久性を得たが、機械式時計時計ならこのくらいの値段が妥当であろう。寿命に関しては…機械式時計とはいえ、7年で逝ってしまう時計というのは少なくなったが、これは製造技術の向上によるところが大きいだろう。
しかし、十数万円の時計時計でも15年位か…これを読んで、アンティーク時計には手を出せないなぁとしみじみ思わされた。

本書の最終章は、新型時計の技術紹介である。ここで挙げられているのは

  • 中三針時計
  • カレンダー時計
  • 自動巻時計
  • 耐振時計
である。写真のROLEXのDATEJUSTはこれらの機能をすべて有する時計である。当時としてはまさに夢の時計だったことだろう
私が生まれた時代の時計はほとんど中三針時計であったため、特に目新しいものとは思っていなかった。しかし、多くの懐中時計がスモールセコンドで秒表示をしているように、時分針と同軸に秒針を配置するのは結構手間であることが本書でよくわかった。現在は意図的にクラシカルな雰囲気を醸し出すためにスモールセコンドを採用している時計が多い。
自動巻機構についても比較的詳しく本書では述べられている。香箱のスリップ機構、両方向巻の原理など…ためになりました。

本書を読んで、機械式時計を分解したくなってきた。そしてうっかり、腕時計のメンテナンスキットを購入してしまった(笑)。
ジャンク品でもオークションで落札して、改めて構造を直に見てみたい。


カインは主に言った。
「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会うものはだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
主はカインに言われた。
「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに印をつけられた。

旧約聖書 「創世記」第四章第十三ー十五節


また中島先生の本を読んでしまった(ブログで紹介していないが、別に3冊ほど読んでいる…)。哲学書は内容を理解しきることが難しく(私にはハイブローすぎます)、レビューが全くと言っていいほど書けない。哲学は微細なことまでもはっきりと言語化するが故に非常に難しい言葉の羅列となり、読解するまでに時間がかかって眠気を誘う。本書はそうした口調ではなく、「T君」という仮想の人物(若き日の中島先生でしょう)との間で取り交わされる手紙という形式をとっている。しかしそれは往復書簡ではなく、中島先生→T君という一方向のみだ。それでもT君がどのような状況に置かれ、何を考えているかということをしっかりと理解することができる。

手紙ということでやさしい口調をとっていてるものの、内容はかなりの劇物である(笑)。目次からして

  • どんなことがあっても自殺してはならない
  • 親を捨てる
  • なるべく人の期待にそむく
  • 怒る技術を習得する
  • 人に「迷惑」をかける訓練をする
  • 自己中心主義を磨き上げる
  • 幸福を求めることを断念する
  • まもなく君は広大な宇宙のただ中で死ぬ
ときている。この段階で抵抗を感じる人は、まず読むべき本ではない。
中島先生の本は、毎回胸をえぐられるような気持ちで読んでいるのだが、今回のもなかなかのものであった。彼の思考の中ではまず「まもなく広大な宇宙の中で死んで無にかえってしまう」という考えが横たわっている。実に厭世的なのだが、それでいて「自殺によって生を放棄する」ことを完全に否定する。生きていることが辛くない人が生きても、そこにはとりたてて道徳的な価値はない。しかし、カントの言葉を借りつつ「生きるのが辛いからこそ、それにもかかわらず生きていることは道徳的」だと言う。さらに「生きることに価値や意味は与えられない。しかし、それを問い続けることこそ意味がある」、「死を選ぶことは怠惰である。たったこのまえ生まれてきて、たちまち死んでしまう自分という存在は何か?それを問い続けよ」と言う。これはとてつもなく酷な考えであるものの、考えたくなくともそのようなことばかりを考えてしまう人間(私…)にとっては常に与えられている命題のようなもの。「考えるな」と人に言われてもやめないし、やめられもしない。

本書のタイトルとなっている「カイン」は上で紹介したとおり、旧約聖書の創世記に出てくるカインの現代版のことである。それは現代を生きるさまざまな事象に鈍感になれないマイノリティのことを指し、とにかく不器用で生きにくいと考えている人を指し、孤独な人を指し、すべてのものの存在や意味を問い続けるしか道が無い人を指している。今となっては「戦う哲学者」の異名をとるほどの中島先生だが、ウィーンに私費留学する34才まではまさに「カイン」であった。ウィーンでの生死の境をさまようような生活を通じて怒る技術、戦う技術を習得して強く生きている(ように見える)が、やはり突き詰めて読んでいくとそうした繊細な面が見えてくる。

本書の中で、二つほど私の印象に残ったことを引用したい


怒りの教育においてぜひとも必要なのは、他人の怒りをしっかりと受け止める能力の開発である。たとえこちらが「正しい」注意を冷静にしても、相手から反感を買うのは当然でさえある。そこには正しいことをしているという傲慢さが臭う。だから、他人に注意するものは、それが正しい要求であると信じていればいるほど、覚悟しなければならない。自分はいまたいそう傲慢な行為に出ているのだから、無傷で相手を動かすことができるというおめでたい期待などしてはならないこと、を。
ぼくは心の底からそう確信してから、自然に注意できるようになった。怒鳴ることもできるようになったんだ。自分は正しいことを要求することによって、はげしく他人を傷つけることを知っているがゆえにーなぜなら、注意されたものもそれが正しいことを承認せざるを得ないからー自分は彼からいかなる仕返しを受けても仕方がないと居直るようになった。



私、なんで「正しいことを言っているのにこの人はなぜこんなにひねくれるのか?」と本気で思っておりました。理詰めで論破しても、そういう覚悟がないから何とももやもやした気分がして、どうしようもなかった。


それは「さしあたり食っていかねばならない」者の真実の叫びかもしれない。だが、最近ようやくわかったのだが、そのうちでもさらっと反感を持つのではなく、きみやぼくのような人間を執拗に迫害するものは、たぶん心の奥底では自分の自己欺瞞に気づいているのではないか。「食っていかねばならない!」と絶叫しながらも、それがじつは唯一崇高な生きる理由ではないことをうすうす感づいているのだ。生きていかねばならない。だが、なんのために?そうした疑惑がふっと湧き上がる。だが、たちまに心の中でハエを振り払うようにそれを必死に振り払うのだ。こんな「馬鹿げた」問いに振りまわれてはならない、と。

ようは世の中で「大人だな」といわれる人々のことである。生きていること、働くこと…一々、すべてにおいて考えて動きを止めてしまう私に対して「考えても仕方が無いじゃないか」、「大人になれよ」と自己欺瞞を積極的に薦めてくる。楽になれるからそういうのだろうが、残念ながら私にはそういうことが出来ないのである。


と比較的内容に共感して読むことが出来た私としても、中島先生の薦める「カイン」の生き方を絶対的に実行することははっきり言って不可能である(社会で生きていけなくなってしまう)。
「カイン」としての生き方は、とにかく不幸である。幸福を求めることを断念することで過剰に不幸を感じることはなくなるが、これはサルトルの言う「自己欺瞞」そのものでもある。もちろんこのことを認めたうえで、自分の価値観を変えずに私は今のまま生きていくことでしょう。

店頭で見かけて「あ、俺のこと?」と思い即買い。しかし読まずにしばらく寝せてしまっていた本。本書は4人の若者と中島氏との仮想対談のような形で進む。同じ中島氏の著書である『働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか』と同じような形をとっている。働くことが~と同じように、この本の中に出てくる4人とは若き頃の中島氏であったり、今の中島氏であったり…自分の分身である4人と対話をすることで意見が整理されている。そのため他の中島氏の哲学書よりは相当読みやすい。

「なぜ生きるんだろう?」とか「人生の意味って何?」ってことは、程度の大小はあれど人間として生きていれば考えてしまうことだは思う。しかしそうしたモラトリアムな状態は比較的若い頃に脱却(忘却?)し、一般的に言われている社会に「適応」できた人世の中を、うまいこと回していってくれている。だが、こうした脱却が出来ない人間も少なからず存在する。恐らくそういう人には「ビビッ」と来る様なタイトルである。そして中島氏はそうした人たちに「そうした考えから脱却するのではなく、徹底的に考え抜くべきだ」と説くわけである。このあたりで拒否反応が出る人は、まず読むべき本ではないと思う。

実のところ、私は今の生活が退屈でならない。決まった日常を退屈ながらも毎日同じようにこなし、常に休日のことばかり考えている。こうして何十年と年を重ねていくのかと思うと、ちょっと恐ろしい気分になってくる。
先日、頭痛が酷いので逓信病院の脳外科に行って来た。脳外科の待合室で記入したヒアリングシートの項目の一つに「脳腫瘍が発見された際、本人へ告知しますか?」という選択肢があり、私は迷うことなく「はい」に丸をつけた。その後診察まで随分と時間があったので「ここで脳腫瘍が見つかったら自分はどうするだろうか?」ということを考えてみた。私は腫瘍の摘出手術等の治療を受けるだろうか?自分の意思だけが通せるならば、私は受けないと思う。そうなれば、どこかへ一人で旅にでも出たいと思うだろう。そして切のいいところで終わりにしようと思えたら、あとは運命を受け入れるだろう。ただ、最近は自分の生き死にという判断も自分ひとりで下すことが出来ない。人との関係が介入してくる。私の場合もこうした判断が下せるのかどうか、その点については自信がなくなってきた。
結果として脳腫瘍のようなものは見つからず、良くわからない頭痛だけが残ったのだが。

既に生きているわけだから、何もしなければ「生きている」状態が継続されていく。死に転じるには能動的のアクションが必要なのだが、これは小さなアクションではない。私が考えた「脳腫瘍が発見されたら…?」というのは受動的なアクションである。「生きることも死ぬこともイヤ」という方にこうした受動的な条件を差し出したら、結構受け入れる人は居るのではないかと思う。能動的に死ぬというのが嫌なのである。正直、それは怖い。

少し話がずれた。
こうした退屈を解決するためなのかどうかわからないが、社会では暴力的ではないかと思えるほど人生の目的のようなものを見つけさせようとする。どんな社会が形成されようと、どんな教育が施されようと、各人がどんな積極的な生きる目的をもとうと、いずれすべての人は死んでしまい、いずれ宇宙から人類の成果はことごとく消滅する。このことを直視してしまうと人生が虚しいということは疑う余地がない。おそらく誰しもがこんなことにはうっすら気がついているのだろうが、現代の社会ではこうしたことを明るみにすることを大変忌み嫌う。企業の採用でも消極的なことばかり話して全体のトーンを下げるような人間はまず採られないし、そういうことを明るみにする人間は迫害されていく。
ハイデガーは自分が明日にでも死んでしまうかもしれないという真実を見ないようにして生きている、そうした人間存在のあり方を「非本来的」と呼んだ。それに対して直視することを「本来的」と呼んだのだが、本来的に生きるというのは確かに苦しいことである。今の社会は「効率よく非本来的に生きる」ゲームを集団でしているようなものである。

「生きる」という言葉の対義語が「死ぬ」であっても、人が採る選択肢が対義語になるわけではない。「生きたくない」という思いを持つ人間が皆能動的に「死にたい」と思うわけではなく、死に対しても恐怖を持っている。そうした宙ぶらりんの状態でずっと何かを求め、考えながら生きていくというのは、死のうという決心をする以上に辛いことなのかも知れない。そんな微妙な線で立ち止まっている人には、救いの手になるかも知れない…いや、それはちょっとむりかなぁ(笑)と思える一冊である。

私はどうも過去の出来事に対する後悔や自責の念を打ち消すことができない人間らしく、生まれて30年近くの間に起きた様々なつらい出来事(実際に記憶としてあるのはここ20年位のものだが)思い返したり、自分の意志とは関係なく思い返さされたりして、時に冷や汗をかき、時には呆然となりながら何とか生きている。こういう後悔や自責の念を積み重ねていくことが「生きていくこと」ならば、私は何年生きられるか分からないが、結構な辛い思いをこれからもしていかなくてはならないということになる。

人はなぜ後悔するのか?「あの時、何でこんなことをしてしまったのだろう」という後悔が生まれるには、少なくともその事柄に関与しているという自覚が必要である。自覚すること、それは意図的な行為になんらかの仕方で関与させることができることに気づくことで、その限り後悔が可能になる。この「後悔しうる範囲」には個人差があるようで、どうやら私はその範囲が比較的広いのではないかと感じている。

「そうしないこともできたはずだ」という思いが人を後悔させるのだが、この思いは「そのとき私が自由だった」という思いとリンクしている。だが「あのときAを自由に選んだから、Aを選ばないこともできたはずだ」と推量するのではなく、私は「Aを選ばないこともできたはずだ」という信念を抱くからこそ、私はAを自由に選んだと了解しているのである。つまり自由とは自ら実現したある過去の意図的行為に対して「そうしないこともできたはずだ」(他行為可能)という信念のもとに生じてくる。この信念は根源的であり、ほかの何物にも由来するものではない。そしてこれを広義に「後悔」と本書では捉えている。
しかし、この後に「自由に選んだ」と思う自由とは一体何なのか?自由は「過去における自由」としてしか、つまり時間との連関によってしか認識できないのに、我々は往々にして時間を極小的現在に限定してとらえようとしてしまう。この意味での原型としての自由とは、あくまでも責任追及の到達点としての、禍を引き起こした原因としての過去における自由意思である。原型的自由は、過去において自分が選んだことに関して「それを選ばないこともできたはずだ」という後悔とともに現れる
AとBとの二つの選択肢のうち一つを選ぶという岐路に立たされているその時、どのようなメカニズムがはたらいて私がその一方を選ぶのか、正直全く分からない。このとき「自由」という言葉を使っても、「いかなる理由で」Aを選ぶのかに関して、いかなる説明もできない。そのわけは、自由という言葉は、その時の私の心に現に起こっている事実を説明する言葉ではなく、現在振り返って「どこまで」責任を追及するべきかという規範に属する言葉だからである。もし、その時まで私の責任が追及されるべきだと判定されるなら、私は「その時自由にAを選んだ」とみなされる。つまり、「そのとき私が自由にAを選んだ」ということは、そのとき現に私の心のうちで事実、何が起きているかとは独立なことなのである。そう冷静に考えると、正直救われるような後悔も私の場合は少なくはない。

ところで、上記は意図的行為に対する後悔であるが、「思わずしてしまった」という非意図的行為に対する後悔というものも存在する。どう見ても自分の意図的(目的論的)行為が直接かかわっていないことに対しても、「そういうこともできたはずだ」という後悔の念を募らせる。交通事故を起こしてしまった人が「その時違う道を走っていたら…」、「もう少し早い時間に家を出たら…」と考える、そのような後悔である。
本書では車に排気ガスを引き込んで自殺した父を持つ少年の例が紹介されている。その少年は「自殺直前の朝、学校に行くときそのすぐ傍を通ったのに気がつかなかった。気が付いていたら救えたかもしれない」と涙を詰まらせながら訴えていたそうだが、「気がつかなかった」ことを後悔するのは自分の意図的行為以外の後悔であったといっていいだろう。むしろこの場合は自分が一定の意図的行為を思い立たなかったことに対して後悔している。これは、具体的な行為以前の心の状態であって、心の状態において「気がつくこと」と「気がつかないこと」という新たな選択肢がここに形成されている。つまり後悔が先にあり、そして後悔するからこそ「気がつくこと」ができたような感覚になり、それに導かれて「気がつくこと」と「気がつかないこと」の両方を自分が対等に選べたような気がしてくる。
上記の少年の例は人間存在の根本的なあり方として、ハイデガーが提唱していることに非常に近いと思う。人は誰しも「生まれてきたい」という意志を持ち、この世に生まれてきたわけではない。日本人としてであるとか、男として、どの親のもとでといった条件の提示は全くなく、生まれてしまう。というか、生まれさせられてしまう。こうしたどうしようもない「事実性」つまり「投げ込まれてしまっていること」から人生はスタートしている。ハイデガーは「投げ込まれてしまっていること」の自覚から過去が発生していると考えているが、むしろ「投げ込まれてしまっていることに対して一定の態度をとること」つまり広い意味で「後悔すること」から、過去は発生している。人間は自分が投げ込まれてしまっている事実性を何の抵抗もなく素直に受け入れるわけではないからである。むしろ、各人の事実性は超えられない枠であって、絶えずその枠を超えようとする可能性を認めつつも、そのつど決して超えられない枠として立ちはだかっている。言い換えれば、人間は動物と違って未来へ絶えず可能性を投げかけるからこそ、そしてその可能性がほとんどかなえられないからこそ、さらに後悔を堆積させる。


私はこんなことを考えたり、いろいろと後悔したり、時々は自責の念にかられたりもする。これはどう考えても不合理であることを知ってはいるのだが、それでもやめることがどうもできない。それどころか自分の実存のすべての重みをかけてしがみついてしまう。
こんな態度をとっていると、人は私の周りに駆けつけて「後悔はやめなさい」という。「後悔しても過去は変えることができない」と説得してくる。みんなが後悔や自責の念を熱心に叩きつぶしに来てくれる。なぜもこんなにみんな熱心なのか…それは、みんな私の「幸福」を望んでいるからだろう。そしてそれを通じて、自分も「幸福」になることを望んでいるからだと思う。だいたい、後悔や自責の念にばかり駆られている人間など見ていたくないのだろう。そしてそれが、社会で潤滑に生きていくための知恵なのだと思う。
しかし、いかんともごまかしがきかない大いなる後悔の前にはそうした企ては無力である。真実を知りたいがために、さらに古傷をえぐるような真似までしてしまう。
後悔や自責の度合いが私とは比べものにはならないだろうが、たとえば子供を殺人などで失った親が、その子供がいかにして死んでいったのかを知ろうとする…それを知ることによって不幸になることは分かっていても、周囲の慰めよりも真実を優先するようなその気持ちに近い。
これはもう、私の性質なのである。そして、その性質自体をもつにいたった自分に対して、後悔と自責の念が絶えない。

私は刑事ドラマが好きなものでよく視聴するのだが(最近、帰りが遅くて見られないことが多いけど)ドラマを見るたびに警察の科捜研、鑑識、監察医の優秀さをよく感じる。これらの組織に重点をおいた海外ドラマ「CSI 科学捜査班」では、さらに進んだ現代的犯罪捜査を見せられ、そのたびに関心してしまう。ちょっとした事件の特徴から犯人を特定する技術を見せられると、とてもじゃないが犯罪は隠し通せないものだという気になってくる。少なからず犯罪の抑止力になっていると私は思う。

本書は東京都の監察医を30年間務めた法医学者が書いた本である。日本には法医学を専門とする医者は非常に少ない。東京、大阪を初めとした五大都市以外には専門の監察医は存在せず臨床医が検死を行っているわけだが、出血の仕方、遺体の損傷、生活反応…等の情報から死因や死後経過時間の特定をするには法医学の知識や経験が必要になる。これらが適切に行われているとは言えないと警鐘している。

3章構成になっており、1章では過去に経験したちょっと特異な検死事例が紹介されている。個人的興味深かったのは、捨て児(遺棄死胎)の話。「出生」という定義が法によって異なっているとは初めて知った。刑法では「一部露出説」つまり、胎児が母体から一部でも露出認められる時出生とみなし、民法では「全部露出説」胎児が母体から完全に露出分離した時を出生とする。医学では「独立呼吸説」胎児が生活反応、つまり呼吸をしたときに出生とみなすのである。堕胎罪か殺人罪かは刑法をもって裁かれるため、母体の中で死にいたった場合には母親は堕胎罪となり、一部でも露出した場合は殺人罪となる。これを特定するのは非常に難しいが、前者に比べて後者は刑事罰も重いものとなるため、見極めが非常に重要である。
2章は監察医が主人公の短編小説で構成されている。筆者は監察医を退職後、観察時代に経験した事柄を元に小説を書いている。医者の書く本というとあまり面白いイメージは無いが、これが中々面白い。
3章では監察医の専門領域とその重要性について述べられている。めった差しの事件をメディアは「残忍」と表現するが、これらの刺し傷には生活反応が無い(つまり、死後に傷つけられた)ことが多く、これは犯人に止めを刺したにも関わらず、不安でならないという心理状態を表す。残忍というよりも恐怖感による行動である場合が多いと筆者は指摘する。

実に面白い内容なのだが、些か執筆から時間が経っているために(初版が1994年)現代でもそうなのだろうか?と思わせられる内容も見られた(バラバラ死体を殺人を隠蔽することを目的としていると記載しているが、最近では死体をわざと目立つような所に置くようなパターンが多発している)。
しかし、これだけ前の内容であっても、私は事件を起こしたら警察からは逃げられないような気持ちにさせられた。現代であれば特にDNA鑑定が飛躍的に進歩しているため、ほんのちょっとした証拠からも足がついてしまいそうである。悪いことは出来ないものである。

先日レビューを書いた「嫌われ松子の一生」の続編…ということになっているが、松子のことが頻繁に出てくるわけではない。思い出として時々登場するくらいであり、前編を読んでいなかった人でも、もちろん読んだ人ならなお楽しめる作品である。

川尻松子の死から4年後の話。松子の甥である川尻笙は大学を卒業したが就職できずに東京でフリーター生活をしていた。それに対し、前作の最後で「自分の夢のために」と大学を辞めて医大にを再受験することにした笙の彼女、明日香は見事佐賀県の大学に合格し、着実に自分の夢を実現するために歩み始めていた(映画版では青年海外協力隊に入ってウズベキスタンに行っているが、あれば映画版だけの設定)。

前作と同様に、笙の視点と明日香の視点で物語りは進む。前作は過去(松子)と現在(笙)からの視点ので物語は進んだが、本作では同じ時間をお互いがどのように生きているのかが対比させられている。輝かしいばかりの日々をすごす明日香に対して、笙は明日の暮らしもわからない、夢の無い時間を過ごす。しかし、劇団員のユリやミックとの偶然の出会いにより、笙の生活は変わっていく。ミックの「ロンドン公演」という壮大な夢を知り、演劇へのめりこむようになる。
そのころ、明日香は地元病院御曹司の同級生と付き合いっており、プロポーズを受ける。客観的に見ればとても恵まれた状況にある明日香だが、彼からの「子供を産んでほしい」、「麻酔科医として病院に来てほしい」等といった要求をうけ、自分の夢や可能性が急激に制限され、現実的になることに悩みを覚える。
明日香が大学に入学してから一切の連絡をとっていない笙。そんな二人がどこでクロスするのか?この二人がぶつかって今の状況を話したらどうなるのか?夢を追う笙、現実に折り合いをつけようとする明日香。若い時期を両極端に走る二人の対比が実に面白い。

結構厚みのある本であったが、あっという間に読了してしまった。
今、モラトリアムな状況にある人…または、そんな時期を経験した人には特に心に来るものがあると思う。

先日、本書が原作となる中谷美紀主演の同名映画を視聴した。松子の流転し続ける運命を実にコミカルかつテンポ良く表現しているのだが、細部まで考えると、人々の行動に何点か疑問が残った。主人公「川尻笙」の彼女「渡辺明日香」は何故急に主人公の前から姿を消したのか?(映画では青年海外協力隊に行くことになっているが、小説では異なる)、「龍洋一」は何故組の暴力団に追われるようになったのか?(組の金を使い込んだことになっているが…具体的ではない)、「龍洋一」は出所後に何のため殺人を犯したのか?…疑問は尽きない。
こうした謎を解くために、原作の小説も読んでみることにした。映画との設定の違いがいくつか見られるが、大筋の流れは同じである。

物語は松子の視点から見た過去の描写、笙の視点から見た現在の描写が繰り返される。初めは離れたところから始まるが、それが次第に交差するようになる。松子の視点から見た事実、そして笙が松子の過去を知るために生前の松子を知る人から聞かれる各人の視点からの事実。お互いの思いに少しの違いがあったために松子は幸せのチャンスを逃している。この描写にはとてももどかしい思いをさせられる。

世の中は理不尽なことであふれている。本書内でも「ちょっとした運命の悪戯」で、松子のような流転の人生を送る可能性は誰にでもあると書かれているが、全くそのとおりだと思う。理不尽であることを恨みながら過去ばかり振り返るのも一つの生き方だが、松子はその反対である。まさにその瞬間瞬間を生きている。それが短絡的な行動を生んでしまう一つの大きな要因であるから手放しに賛同することはできないが、人一倍愛に飢えていた松子にはこうした選択肢を選ばざる得なかったのだろう。
そんな松子に、フィクションながら客観的立場である読者は「そっちに行っちゃダメー」と声をかけながら、客観的には不幸に見える松子の人生を出歯亀根性で覗き見してしまう。そんな心理が本書をいっき読みさせるのだろうか?私はあっという間に読了してしまった。

しかし、最後は辛い。松子の死の核心に笙はたどり着くのだが…それはあまりにもひどい。
私が通勤の際に利用している満員電車。何人乗っているのかはわからないが、その人数だけ固有の歴史が存在している。人を殺すということはその歴史を終わらせることである。どんな人間にもそのような権利は無い。松子の人生を知った後だから、余計に怒りを感じてしまった。

経済に強い週刊誌といえば『週間ダイヤモンド』と『週間東洋経済』の二誌を挙げる方が少なくはないと思う。前者はミクロ経済に強く、後者はマクロ経済に強いとされているが、本書は東洋経済新報社から発売され、著者の風間氏も同社の第一編集局記者である。記載されている内容は、労働者の雇用問題といったミクロ経済的内容であり、東洋経済にしてはちょっと珍しいような気もする。

内容は三部構成になっている。
第一部は「製造業復活の裏側で」というタイトルで、主に現在問題となっている「偽装請負」や「地方若年者の雇用」、「外国人研修生」の問題を採り上げている。
中国の台頭におびえる日本の製造業を、かろうじて国内に踏みとどまらせている業務請負業の存在。この業界において、ものすごいシェアを持っているにも関わらず、謎に包まれていたグループがある。「クリスタル」という会社である。系列会社を多数持ち、売上高が100億円に満たない企業が乱立するこの業界において、同グループの2006年3月期決算は5,900億超と突出している。日本の名だたる企業がこの会社のスタッフを業務請負として工場に入れている。広く関係をもたれているにも関わらず、この会社を採り上げることは一種のタブーであったようだが、2003年3月に初めて『週間東洋経済』が「異形の定刻『クリスタル』の実像」と題する6ページの記事を掲載した。内容は若年労働者の自殺問題や偽装請負について。非常にセンセーショナルな情報であった。
2006年10月、厚生労働省大阪労働局は偽装請負を繰り返してきたとして、クリスタルの中核子会社「コラボレート」に対して事業停止命令と事業改善命令を出した。その直後の2006年11月28日、あの「グッドウィル」が投資ファンドを通じてクリスタル株の67%相当を取得。連結子会社化した。元々、人材派遣業を担ってきたグッドウィルは、同業を展開するクリスタルを買収することでシナジー効果が得られると発表していたが、その可能性は未知数である。両社の今までを見てくると、労働者にとってあまり良い効果は期待できそうにはない。
首都圏や一部の地方都市を除いて、地方の有効求人倍率は未だ1倍未満の状況が続いている。そんな中、東北や九州、沖縄では業務請負業者の進出が相次いでいる。「月収30万円以上可」等と書かれた求人情報で職の無い若者を釣り、実際にはそれに満たない劣悪な環境で彼らを使う。将来の見えない若者たちの実情が緻密に調査されている。

第二部は「『働き方の多様化』という”欺瞞”」との題で「フリーター」、「パートタイマー」、「個人請負」の問題点を挙げている。かつては輝きをまとって語られることすらあった「フリーター」たち。今では正社員との生涯収入格差に1億円もの開きが生まれ、働いても生活できない「ワーキングプア」の代名詞となってしまっている。”解雇”規制の枠外におかれる「登録型」派遣、急増する「日雇い派遣」の理不尽な現実について詳細にまとめられている。
第三部は「雇用融解」の題で、正社員を襲う”ホワイトカラー・エグゼプションの問題、医師・教師・介護師を蝕む労働環境を中心に語られている。ホワイトカラー・エグゼプションは多くの労働者に多大な影響を与える法案にも関わらず、その関心は非常に低い。導入によって考えられる我々に降りかかる不利益にどのようなものがあるかが論じられている。正社員として雇用されている方でも、この内容は必読だといえるだろう。


ホワイトカラー・エグゼプションの問題といい、今までの派遣法や労働法の規制緩和といい、経団連や経済財政諮問会議は人間らしい生活から労働者を乖離させるような法案ばかり矢継早に通している。全体の利益のためには一部の犠牲は厭わないという姿勢のようだが、それが政府の取るべき態度だろうか?社会保障の網から取り残され、死人すら出ているという現実をちゃんと見ているのだろうか…
この著者の風間氏、私と同い年なのである。全くもって驚きの力量である。緻密かつ、生ものである「今、まさに存在している雇用問題」がしっかりとまとめられているすばらしい書籍である。労働・雇用問題はどのような形態で働く人にとっても共通するテーマである。ぜひ一読されることをお勧めしたい。

また中島氏の本を熟読してしまった。
同氏の著書『私の嫌いな10の言葉』に続くような雰囲気を持つタイトル。根本は似ているのだが、著者がこの本で上げられている嫌いな10の人びととは下記のような人である。

  1. 笑顔の絶えない人
  2. 常に感謝の気持ちを忘れない人
  3. みんなの喜ぶ顔が見たい人
  4. いつも前向きに生きている人
  5. 自分の仕事に「誇り」を持っている人
  6. 「けじめ」を大切にする人
  7. 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
  8. 物事をはっきり言わない人
  9. 「おれ、バカだから」と言う人
  10. 「わが人生に悔いはない」と思っている人

書店で、この本の横にはまさに上で示した10の言葉に該当する人物に「なる」ための本が陳列されていたりして、ちょっと笑いがこみ上げてくる。それだけ日本のマジョリティが「こうなりたい!」と思っている人を嫌いだと言い切るわけだから、この本は人によっては精神変調を起こしかねないような内容であると言えよう(私も「嫌いな10の人びと」に該当するところがたくさんあるので、ハラハラした気持ちで本書は楽しめた)。また、こうしたいわゆる「日本のマジョリティ」はその価値観を(美徳と思っているが故に)人に強要するような行為に出る。それがマイノリティであると自負する筆者には随分と辛いことであるようである。
筆者は表層的には現代の日本では美徳と感じられるこうした人びとの心の裏側に存在する無神経な利己心(本人が意識しているかしていないかに関わらず)を実に敏感に読み取っている。例えば2の「常に感謝の気持ちを忘れない人」の行動を見ていくと、同時に「感謝の気持ちを(ずうずうしくも)他人に要求する」という面が見えてくる。そして、それが思い通りにならないと不安でならないので「お前のためを思って言っているんだ」というような台詞を言いながら、周りの人にもそれを強要していく。その実、自分の不安解消以外の何物でもないというのに…

しかし、潤滑な社会生活を企業に属してしている私には、筆者の言っていることを鵜呑みにして行動することは出来ない(そうしたいと思っても出来ないことが非常に多い)。精神変調をきたさないようにするためには、過剰に主観的に読まず、客観的に「こう言う視点もあるのだなぁ」というぐらいに読めば楽しめるのではないか。

現在、様々な事情によりテレビでの放送はもちろん、DVDやコミックの販売も不可となってしまっている作品が「封印」されてしまった理由についての詳細なルポである「封印作品の謎」の第二作である。
今回取り上げているのは『キャンディキャンディ』、『ジャングル黒べえ』、『オバケのQ太郎』、『サンダーマスク』の4作品。

キャンディ キャンディ』は1976年10月1日~79年2月2日までテレビアニメで放送され、雑誌「なかよし」にて1975年5月~79年3月まで連載された。原作者である「水木杏子」氏と作画を担当した「いがらしゆみこ」氏が法廷を舞台に争っている様子をメディアが取り上げているからご存知な方も多いと思う。いがらし氏が水木氏の許可無くキャンディのキャラクターを使ったビジネスを始めてしまったことがきっかけで、控訴、上告と進み、2001年10月に最高裁で「原作者と漫画家には同一の権利があり、合意が無いまま原画の作成や複製は出来ない」との判決が出ている。しかし、いがらし氏はアジアでのキャラクタービジネスを相変わらず続け、そして水木氏に謝罪や情報開示を全くしていない。このように権利がグレーな状態ではコミックスの再販、テレビの再放送やDVD化といった展開はできず、封印されたままになっている。
「”キャンディ・キャンディ”のストーリーって本当にすごいわよ。メロドラマの典型よね。記憶喪失になっちゃったり三角関係。男性たちが、1人の女性を好きになったり…。メロドラマに出てくる全てが”キャンディ・キャンディ”には集約されているのよ」(週刊新潮04年8月12日・19日合併号 新潮社)
これは『冬のソナタ』の脚本家の二人のインタビューである。キャンディ・キャンディを見ていた年齢層(私よりは5歳以上上だろう)が冬ソナにはまるのも理解できる。そして、こうした法廷での争いになるまでの間、幾度と無く再放送が繰り返され、私と同年代の女性やそれ以下であってもオープニングテーマを歌えるほどでは無いかと思う。つまり、それほどまでに普通に見ることが出来た作品が、今はみることが出来なくなっているのである。
本書の作者である安藤氏は大岡越前の「二人の母親」を例にとってこう説明している。
「原作者と作画担当の二人の母が子供の腕を引っ張って、子供を引き裂いてしまった」と。実にうまい例えである。

ジャングル黒べえ』は藤子・F・不二雄の作品であり、テレビアニメでは1973年3月2日~9月28日まで、漫画では1973年3月~74年1月まで連載された。
恐らく多くの方が「ちびくろさんぼ」が封印作品にされてしまったことはご存知かと思う。1988年の末「黒人差別をなくす会」なる組織が「黒人差別を助長する作品」として各出版社へ抗議をした。しかし2005年4月に瑞雲舎より再販されるようになり、かなりの部数が販売されている。
ジャングル黒べえも実は同じような経緯で封印に至ったのだが、実際はどうも直接抗議を受けたのではないらしい。後述する『オバケのQ太郎』の抗議を受け、出版社が自主的に発行を中止、回収したそうである。
ちびくろさんぼという名作を封印し、タカラやカルピス社のロゴを変えてしまうほどの影響力があることから「黒人差別をなくす会」という組織は非常に規模の大きな圧力団体なのかと思いきや、実は1家3人によって構成される組織であった。ちびくろさんぼ再販に際して行ったインタビューがここに掲載されているが、何だかトンチンカンな回答をしているような気がしてならない。

オバケのQ太郎』は藤子不二雄の作品で、テレビアニメで1965年8月29日~67年6月28日(オバケのQ太郎)、1971年9月1日~72年12月27日(新オバケのQ太郎)、1985年4月1日~87年3月29日(オバケのQ太郎(新))の3回に渡って放映され、様々な雑誌で1964年~73年にわたって掲載されている。テレビアニメがかなり長期にわたって放映されているため、かなり広い年齢層で身近に感じられるアニメでは無いかと思う。私もオバケのQ太郎(新)をリアルタイムで見ていた。私の妻もオバQを子供の頃見ていたというのでテーマ曲について聞いてみたのだが、私が知っているものとは違った。妻が見ていたのはどうも新オバケのQ太郎だったようである(笑)。
本作が封印された理由はいくつか噂が乱れ飛んでいる状況で、良くわからなかった。筆者が取材中に聞いた6つの理由を挙げると

  1. 黒人描写説
    「黒人差別をなくす会」が黒人描写について差別的だと抗議したため。具他的には「黒人のオバケが登場するため」、「人肉食を思わせる話がある」、「Q太郎の唇がぶ厚く黒人を連想させる」、「足が黒いため黒人が入っていると思わされる」など。
  2. 権利問題説A
    オバQは藤子不二雄の2人のアニメ会社「スタジオ・ゼロ」の合作。そのため漫画家の石ノ森章太郎などの複数人物が関わっているため、著作権に関して問題が発生した。
  3. 権利問題説B
    オバQは藤子・F・不二雄(藤本弘)と藤子不二雄A(我孫子素雄)の合作。1987年にコンビを解消して著作権に関する問題が発生した。
  4. 差別表現説
    連載当時は普通に使われていた「きちがい」、「こじき」など、現在では差別表現とされている言葉を含んでいるため。
  5. 教育問題説
    のび太の保護者的な「ドラえもん」と異なり、無芸大食で遊んでばかりいるのが教育上良くないため。
  6. ニーズ説
    1960~70年代に作られた古臭い作品で、今の時代にそぐわない。そのため出版しても需要が見込めず、出版社が出さない。
一つずつ潰していくと…
1の抗議は実際にあったが、そうであれば指摘があった話だけを封印すれば良いだけであり、オバQ全てを封印している理由にはならない。4,5は実際に抗議を受けた事実は無いようで、推測に過ぎないとのこと。6は、オバQ以上に古い作品が出版され続けている。知名度が高い本作が出版されない理由にはならない。有力視されたのは2と3の理由であった。
「スタジオ・ゼロ」とは藤子不二雄や石ノ森章太郎らが作ったアニメ制作会社である。組織として「動画部」と「雑誌部」を持ち、オバQがスタジオ・ゼロ雑誌部の初の仕事であった。所属する漫画家が特定のキャラクターを専任で描く分業体制をとっていたため、雑誌掲載時のクレジットも「藤子不二雄とスタジオ・ゼロ」とされた。だが、同じような体制をとって制作された藤子不二雄Aの「サンスケ」は封印されること無く今も販売されていること、そして単行本は藤子不二雄名義で問題なく過去に発売されてきたので、突然スタジオ・ゼロとの問題で発売禁止になったとは考えにくい。
そうすると残る説は3だけになる。オバQの増刷が中止されたのが1988年。つまり、コンビ解消直後である。また、オバQは藤子不二雄の最後の合作であった。藤子不二雄の名義は使っているものの、お互いの作風が変わってしまっていたためにコンビ解消のだいぶ前から「合作」形式での制作はやめていたのである。よってオバQの単行本を作成するには藤子・F・不二雄と藤子不二雄A双方のクレジットが必要となる。既に故人となっている藤子・F・不二雄サイドに問題が…?結果として封印の核心には迫れなかったものの、かなり近いところまで判明したその理由には一読の価値ありである。

サンダーマスク』はテレビ特撮として1972年10月3日~73年3月27日に放映され、テレビ放映後に手塚治虫が漫画を書いている(原作というわけではなく、話も違う)。比較的マイナーな特撮作品も今はDVD化されているものの、この作品は94年に3話だけされて以降、全く再放送されていない。放送用のポジフィルムの所在が一転二転としており、また映像権利の帰属先がどこかわからないという状況だという。この中にガンダムシリーズで有名な創通が関係しており、70年代の放映権管理のいい加減さが浮き彫りになっている。


子供の頃、空気のように馴染んだ存在…いつそれが居なくなったのかはわからないけれど、そのことを思い出しそしてもう出会えないと知る。すると急に寂しいような思いがしてくる。私にとってはオバケのQ太郎がまさにそんな作品だった(封印作品の謎1、2で採り上げられた作品で共にここまで思い入れがあったものは無かった)。Q太郎は消えるのが得意であったが、消えたまま姿を現すことが出来なくなってしまった。ドラえもんは声優も一新されて今もなお放送され続けているのに…
表現への批判に対して真っ向から考え抜かず、ただ発売禁止としてしまった出版社。そして、差別される対象でもない第三者が偽善的に行った表現への批判。双方に対して強い憤りを感じずには居られない。

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