の最近のブログ記事

二年前に録画してパソコンで再生できるようにフォーマットを変換したものの、なんとなくサーバのHDDの中にそのまま放置していた。Eee PCで動画を再生できる環境を構築したので、寝転がりながら見ている。面白いなぁ、このアニメ。アニメを見るのはかなり久しぶり。

原作は久米田康治が「週間少年マガジン」で連載している『さよなら絶望先生』である。
何事もネガティブに捉えてしまう高校教師「糸色望(いとしきのぞむ)」と、糸色望が担当する「2のへ組」の個性的な生徒達との何ともいえないやり取りがメイン。1話につき、生徒1人を深く紹介するように話は進んでいく。
話自体も面白いが、黒板や掲示板に張られている紙の落書きが何とも面白くて仕方が無い。さらに、深夜アニメなので微妙にエッチだったりする(原作はこんなものではすまないらしいが)。何だか原作も面白そうである。買ってしまおうかな~。アニメを全部見終わったら。

今、息子の中でものすごいブームな本。読め読めとせがんで来る。

私の実家では昔、シベリアンハスキーを飼っていた。この本を読むと、その犬のことを思い出さずにはいられない。

本の内容はハスキー犬の視点から、飼い主のゆうた君(本の中では「おまえ」と呼ばれる)と自分のことを比較するという内容である。
 「おまえ すぐ なく」
 「おれ がまん する」
というように語呂が似た文章で俺とお前を比べる。そしてそれぞれの様子が絵で文章の下に描かれている。

この絵本の最後は
 「おれとおまえ ぜんぜんちがう。
  だけどすき。だからともだち。」
という文で締めくくられるのだが、ハッとさせられる。
違うことを認め合うこと、そしてそれを許容すること。それが大切だね。(妖精の三信調になってしまった...)

シンプルだからこそ、心に響く。
絵本の良さをまた実感させられました。


恥の多い生涯を送って来ました。

人間失格 第一の手記より

あまりに難解で二度三度と読んだ本はいくつかある。哲学書などはそんな感じである。
しかし、内容が理解できているにもかかわらず三度読んだ本はあまりない。その中の一冊がこの人間失格である。

初めて読んだのは16か17歳の頃だった。私はこの最初の文章を読んで背筋が震える思いをし、そして全くもって「恥の多い生涯」そのものだと思った。あの頃、私の中の「恥」という言葉の定義は今の私の考えとは違っていたように思う。どちらかといえば客観的な、外面から見られ言われる「恥」ということに目を奪われていた。いろんなものをさらけ出して平気な顔をしていられる年長者に対する絶望的な意味合いと、自分自身が生きながら犯していった「恥」というものが入り混じり、嫌悪感を覚えた。私は太宰自身と言われているこの主人公を軽蔑した。歳をとるということ、それとその時間的経過に合わせて自分が経験していく「恥」というものの恐怖に大きく慄いたのである。

そして次に読んだのは25歳の頃。ちょうど入院していた時で、その病院の書棚にこの本があり再び手に取った。自分対する絶望に打ちひしがれていた頃で、半ばやけになって生きていた自分のことを、この本を読むことによって「ちょっと頼もしくなったのかねぇ」と感じた。多面的な感情を持ち、道化のように社会的役割を演じながら生きることに疑問を持ち、だけどその疑問に抗うこともできない。その無力さを嘲笑うことしかできなかった。その嘲笑う自分を認めてくれた本だった。本書の主人公よりはマシだと思った。そんな程度の低い思いもその頃の私には必要なものだった。

そして三度、私はこの本を手に取った。
虚無感にさいなまれて仕方が無いのが今の私である。何をしても自分の中にある客観的な視点が自分自身を監視しているようで、「恥」という概念もどちらかといえば内から湧き出してくる、つまり自分が恥だと思うことが恥であり、人が恥だと言おうと自分がそう思わないことは恥だと思わなくなってきた。ただその「恥」というもの基準が些か緩くなってきているようなのだ。ぶっちゃけていうと、どうでも良くなってきた。
ということを書いてみたものの、実際はいろんなことを気にしている。恥ずかしいと思っている。自分は随分と罪深いとも思っている。人に「あなたは恥ずかしい」と糾弾されるよりも、「自分は恥ずかしい」と気がついて悶えるほうが苦しいものだと思う。しかし、この虚無感...罪深いと思いながらも、そんなものは一瞬の出来事であり何の意味も持たないのではないか?気にするな。お前以外は誰も恥ずかしいなどとは思ってはいないと言い聞かせている自分がいる。そしてむしろ、この主人公のようなその場限りの後先追わぬ生き方というものに妙な憧れを感じてしまう。
つまり、葛藤の真っ最中なのである。

人間失格は、読む自分自身を写し出す鏡だと私は思う。
まだ生き続けていくのならば、この本を手に取る四度目というのがありそうな気がする。そのとき、私はこの鏡から何を見るのだろうか?

 人間の頭の半分はおおよそつねにニヒリズムに冒されていると知っておくことが大切であろう。というのも、自意識とは、「自分は何者か」と問う意識のことであり、仮にひとまずその問いに答えが与えられたとしても、その答えの意味をさらに問うというふうに、自意識は進むからである。この問答の過程は、論理的には無限に続きうる。つまり、自意識の歩みには安住できる終着点のようなものはないのであり、そしてその「不安」がすでにニヒリズムの温床なのである。正確にはその不安はイズム、つまり「固定観念」にはまだなってはいない。しかし、論理的には無限に続く「みずからへの問い」に終止符を打ってくれるのは、「みずからの死」のみである。このような人間存在の冷厳な真実から少しでも目を逸らすと、ニヒリズムが待っていたとばかりに自意識を襲う。その意味で人間の精神の玄関にはいつもニヒリズムと言う訪問者がいるということになる。
 そのことにニーチェがあれほど注意を促してくれたにもかかわらず、今世紀の特に後半、普通「ヒューマニズム」とよばれる人間性の礼賛がさかんに行われた。もう少し正確にいえば、それを礼賛する素振りが固定され、そのために、ニヒリズムを人間精神の奥座敷にまでひそかに案内することになってしまったのだ。もとより、それを追い払う力量が私にあるわけはない。しかし、ニヒリズムにたいして、貴殿には玄関先まで退却していただきたいと正面きって申し渡すこと、せめてそれくらいのことをやらなければ、自分の精神が生きながらにして錆びついてしまうのではないかと、自意識のあるものは、不安になるのである。

本書序章「虚無について」より


西部先生の本を読むのはずいぶんと久しぶりである。保守論者として知られる西部先生の本を読んでいると「右な人ですね?」というレッテルをいきなり張られたりするわけだが、彼は保守は保守でも反米保守派としての考えを持っていおり、その点においていわゆる親米保守派と袂を分かっている(右とか左とかそういうデジタルな切り方だけで思想は表現しきれるものではない)。またジェネラリストとして多岐に渡る知識から生み出される、多種多様な書物には少なからず影響を受けつつ生きてきていると思う。

先日のブログにも書いたのだが、私にとっていま最大の課題とはニヒリズムに関する問題である。この問題にぶつかるや否や、もうすべてのものがどうでもよくなってきてしまう。死に向かってこのような世界を生きていく中で、ニヒリズム・虚無感との対決は避けることができない問題である。人の一生は短い。その短い時間の中で私は一体何をするべきなのか?退屈に仕事をこなし、趣味に享楽的に生きる。それだけなのか?
心から人や社会を思い、それを何とかして表現・実現しようとしている人たちが少なからず存在している。彼らとて私とさほど違わない時間しか与えられていないというのに、なぜそのようなことに邁進できるのだろうか?私は西部邁という人にその意見を求めようとした。西部先生ほどに著作を残し、世に言いたい放題してきた人物がこの点について考えたことが無いとはとても思えなかったからである。それがまとめられているのがまさにこの本である。

このニヒリズムとの関連性が少なからずみられるものの一つに、物事の判断基準への曖昧性(本書内では存在に関する曖昧性を「真理相対主義」、当為に関するものを「価値相対主義」と称している)がある。生き続けていくというのは様々な判断の連続であるが、判断の根拠とされる考え方はその判断をする人の立場によって大いに違いがある。そのことを出来る限り理解し、他者の意見と自分の意見の中で判断を下さなければならない。しかし、その考慮・比較という行為を慎重に行っていくと判断のための唯一絶対的基準と言うものが存在しないことに気づく。その中で「もがきつつ」最大限の配慮を持って判断すべき努力を怠ってはならないと私は思うが(私ができるだけ実践しようと日々努力している「一歩引いて見る」というのもその一環である)、真理相対主義者や価値相対主義者は他者を「ニヒル」に切り捨て自己の意見のみを絶対視するという、不感症な態度をとる。そういう人が結果的に世の中を引っ張るような状況にあるのがまさに今であるように思えるが、どこまで「一歩引いて見てみる」ことをするべきなのか、そのバランス感覚(逆に真の自分の言葉を発せられなくなっては元も子もない)の難しさと言うものを日々感じている。その引くことに順応されすぎると、よくわからない世論と言う無責任なものを判断基準としなくてはならなくなってしまう。これは個人の思想を奪う危険なものでもある。

この本にはもっともっと多くの問題提起がされている。ある点においては具体的な解決策を提示しているものもあるが、結論は人の意見に頼るべきではないと私は考える。ただ、そのも提起された問題について考えるきっかけとして、そしてそれを構成する歴史的、社会的な構造を見るうえでは実に有用な本だと思う。
でも、そういうことに悩みたくない人には絶対にお勧めしません。私は本書のおかげで悩みが増えました(笑)


ところで、私は自分の生死についてあまりに明確な答えを返せる人をどうも信用できない。だが、西部先生の死生観というのは実に謙虚でユーモアにあふれている。最後にそれを紹介したい。

私の念じるのは、評論家として、次のように思いつつそして死ぬことだけである。
つまり、この人の世にあるのは言葉だけであり、自分という極微の存在は、過去のあまりにも巨大な言葉の集積のうちほんの局所を受け継ぎ、そしてそれにごく僅少の加工をほどこして、死とともに、それを何処の誰とも知れぬ人に手渡す(素振をする)、私の生死の意味はそのことに尽きると思っている。

Amazonより中島先生の新刊が出たとのメールが届いたので、amazonでは買わずに(だって送料高いんだもん)会社近くの本屋さんで購入。この面白そうなタイトルにつられて、中身をほとんど見ずに購入した。

で、読み始めて「あれ?どこかで読んだことがあるような...」と思ったら、所持している中島先生の『どうせ死んでしまう... 私は哲学病。』のタイトルと出版社を変えて出したものだった...。同じ本が我が家に二冊...でも、著者が今年書いた後書と解説が追加されている。安かったものだし、まぁいいか。

内容は表題のものだけではなく、中島先生が散文的に書いた短い作品の寄せ集め的なものになっている。個人的には徹底的にこの本の題名となっている内容について言及して欲しかったのだが。

amazonの本書紹介文を引用させてもらおう。

所詮人生は、理不尽で虚しい。いかなる人生を営もうと、その後には「死」が待っている。「どうせ死んでしまう」という絶対的な虚無を前にしながら、なぜ私たちは自ら死んではならないのか?生きることの虚しさを徹底的に見つめ、それをバネにたくましく豊かに生きる道を指南する、刮目の人生論。無気力感に苛まれる時、自分に絶望し苦悩する時の必携本。

今の私にとって、最大の問題といっても差し支えないほどの問題、それがニヒリズム、虚無感である。ある瞬間瞬間、何かに集中しているとき(そういう時間そのものも随分と最近は減ってしまったのだが)を除けば、過去を見直したり将来を思ったりしてもただひたすらむなしいだけに過ぎなく感じられてしまう。あっという間にやってくる死という誰にもかわすことが出来ない現実、そしてその人が存在したという事実すらほんの少しの時間しか残らず、それがどれほどの時間なのか自分で知ることすら出来ないのである。生きているというのはどういうことなのだろう?何のためなのだろう?それに意味を見出すことが出来ないのならば生きることを止めてしまうのも一つの選択肢であると私は思っている。
私のこの思いは、例えば人生の何らかの選択や実行に失敗したときにやってくるだけではなく、日々、笑っても酒を飲んでも何をしていても頭をよぎる。もう一過性の問題ではなく、ずっとこのことを意識しながら生きていかなくてはならないのだと、心の中で思っている。多くの過去の賢人達がこの問題に全力で取り組んだのできた。人間は唯一、自分の存在というものに対して疑うことができる生き物だからだ。ハイデガーは「現存在」や「実存」という言葉でこの認識について超越した意見を述べたが、私は未だにその自分の存在すら揺らぐような思いをすることがある。

今の私は、過去の賢人達と書物というものを通じて対話し、その思いと自分の思いをぶつけ、考えながら生きることを生きがいとしている。他の全ての作業は、振り返ってみてみれば全て「壮大なる暇つぶし」に過ぎない。しかし暇つぶしばかりしているわけにもいかないのだ。
悪い頭を振り絞って、自分なりに「生きる」ということを考えながら生き続けるしかないようである。

開口部を完璧に閉ざされたダッソー家で、厳重に施錠され、監視下にあった部屋で滞在客の死体が発見される。現場に遺されていたナチス親衛隊の短剣と死体の謎を追ううちに三十年前の三重密室殺人事件が浮かび上がる。現象学的本質直感によって密室ばかりか、その背後の「死の哲学」の謎をも解き明かしていく矢吹駆。二十世紀最高のミステリー。

amazon.co.jp 本書紹介文より


良くわからない超人的な日本人青年「矢吹駆」が活躍する推理小説の4作目。ちなみに私は他の作品を全く読んでいません(笑)。そういう関係上なのか、この矢吹駆という人物がどうも好きになれず。常人の理解を超えた推理をして一人納得するようなヒーローが活躍するよりも、読者と同じような視点で迷い、戸惑うようなキャラクターを愛してしまう私向きではなかったのかもしれない。矢吹駆をヒーロー的に扱うためか、他の登場人物による推理があまりに稚拙というか無理やりで何だか苦しくなってきてしまう。

そんな私がこの小説に興味を持ったのは、作品の登場人物の中に「マルティン・ハルバッハ」という人物が居ること。彼の主な著書は「実存と時間」(笑)。もうおわかりでしょう。ハルバッハのモデルは「マルティン・ハイデガー」。ハイデガーの代表的書籍といえば「存在と時間」。そしてこの本の中で「実存」というものに現象学の手法を使って近づいている。ハイデガーによる「存在への問い」は、私の「自己の存在」に対する考え方に非常に影響を与えてくれた。

もちろん、ハルバッハがハイデガーの主張と全く同じなわけではない。それは物語を読み進めるにつれて明らかになっていく。

人間を生存本能の奴隷以上のものたらしめるのは、避けることの出来ない死の可能性を凝視し、その運命を先取りし、あえて宿命に忠実であろうとする実存的な意志である。

第一次大戦の経験がもたらした死の無意味性から、何とか意味ある死を救出しようとして、ハルバッハは死の哲学を考案した。それなのに彼の哲学は、さらに大量な無意味な死に帰結したんだ。

ハルバッハは、死を先駆し意味あるものと見据えよと「死の哲学」を提唱する。この考えが物語全体に横たわっている。私は本書を読んだ後もこのハルバッハの考えには結構肯定的である。英雄的な死、特権的な死。しかしそれを望み叶えても、その知覚を最も望んでいるであろう本人はこの世に存在しない。それでも見極めたい、平凡なまま死にたくはないと夢想する。

画然とした死ではない曖昧な死。人生の意味を残らず、一瞬にして照らし出すような特権的な死ではない、たんに人間を廃棄物に転化するに過ぎないような死。だらしのない、惨めきわまりない死。それを見すえ、その事態を心から承認し、それを肯定できないとしたら、人間は自分を肯定することなんかできはしない。

そして第二次世界大戦。近代兵器による大量殺戮による死。ホロコーストによる大量の死。それらを目の当たりにし、ハルバッハ自身も死の哲学という考えから怯む。結果として本書では特権的な死というものを否定している。
しかし、何をしても空虚であるというニヒリズム漬け状態の私には中々響かない意見だ。人が生きられる時間は実にわずかなものであり、その人が存在したことが明らかになっている期間とて、わずかなものなのだ。私は死を先駆するということを考えると、三島由紀夫のことを思い出さずにはいられない。確かに三島由紀夫なる人物の存在を知る人は、他の名も知れぬ人の存在を知るものよりも多く、その時間も期間も長かろう。だがその長さとて、地球や宇宙という規模の時間の中ではわずかなものである。
それでも特権的な死を私は求めてしまう。平凡な世の中から離れたいと思い、自分の死がどのようにあるべきかを考えてしまう。考えたところで、それが実現できないのだが。

自殺者はその行為によって、最終的な自由に他ならない私の死を得ようとしながら、それに失敗する。死んだのはもはや私ではない。

そう...そうなんだけどね。


訴えかけるものが納得できるかどうかは別として、展開は非常に面白く、30年前の密室殺人との相似性などとても面白く読むことができた。あるときはモガール警視の視点で、あるときはナディアの視点で、そして30年前のヴェルナーの視点で...いろいろな視点から状況は語られる。立場が異なればその言葉も異なる。こうした書かれ方が私はとても好きだ。

この本において一番問題なのは本の厚さかも。4.5cmの厚さがあり、読み終えるまでに相当な時間を要した。持ち運びもわりと大変(笑)。まぁ、それだけの甲斐はあったと思うが。


写真はアウシュビッツ駅から800メートルのビルケナウに貨車で到着したユダヤ人たち。アウシュビッツの第二収容所いうべきビルケナウ収容所の中には「ランぺ」(荷役ホーム)お呼ばれる引き込み線の到着ホームがあった。


『夜』は、その恐ろしさで我々を戦慄させ、同時にその美しさで我々を打つ。これは15歳の少年の時にアウシュビッツを体験した著者の最初の自伝小説である。
東方の片田舎の小さな町、ナチスのユダヤ人狩りなど想像もつかぬ平和な町。だが、ある日悲劇が音もなく訪れる。やがて一夜にしてこの世は地獄と化し、少年の中で神が死んだ。格調高い文体と淡々とした語り口によって、人間の悲惨な崇高がみごとに織りなされる。刊行されるや、たちまち世界中に翻訳された比類ないドキュメンタリー小説。アメリカで1966年度ユダヤ人図書賞を受けた。
「この並外れた書物が私の心をとらえて放さなかったのは、すべての結果のうちでも最悪のもの...すなわち、一挙に絶対の悪を発見した子の幼い魂の中で神が死んだ、ということなのである。」(F.モーリヤック)

本書裏表紙より


この日本と言う国に生きる私は、特定の宗教を信仰しているわけではない。これは世界的に見ると比較的珍しいことのようで、人の行動規範や道徳性の基盤は宗教によって支えられているという場合が多数を占めている。となれば、私のような人間の道徳基盤がどこにあるのかと言うことになるが、それは周囲との関係や伝統、歴史というものが構成しているとでも答えるほかはない。実に微妙な状況の中で自分が生きてきたということにあらためて気付かせられる。

本書の主人公エリエゼルは多くのユダヤ人がそうであるように、敬虔なユダヤ教信者であった。彼はビルケナウへ強制移送されたときも、「男は左!女は右!」の一言で母や姉や妹がガス室送りとなり一生の別れとなった時も神を信じ続ける。しかし、我々を創造し、我々を苦難から救ってくれる神はどれだけ祈ろうともこの強制収容所には手をのばしてはくれない。そんな中、エリエゼルの心の中でじわじわと生まれる神への信頼の揺らぎ...それが何よりも私には印象に残った。
エリエゼルは焼却炉にトラック一台分の生きた子供たちが投げ込まれる様子を見たときの様子をこう書き表している。
「私の<信仰>を永久に焼き尽くしてしまったこれらの焔のことを、決して私は忘れないであろう。」

私は深い信仰と言うものを知らない。ただ、それが私が持っている社会を生きるための道徳基盤と置き換えて考えてみると...全てが、生まれてから疑うことのなかった全てが逆行していくような感覚?それは体験のない私には正直、表現いや、想像すらできない。


第一次世界大戦末期のドイツ革命によりドイツ帝国は皇帝カイザーの亡命・退位、崩壊する。後に興るヴァイマール共和国は敗戦からの復興を順調に進めることはできず、世界恐慌がさらなる経済危機をもたらした。そんな中、ヒトラーはヴァイマール憲法を全権委任法をもって事実上崩壊させ、独裁体制を引いた。ヒトラーはアーリア人の優秀さを強調、他民族の排斥を開始しユダヤ人の大量虐殺に至る。それが時系列の歴史である。
私は歴史を後の価値観で裁くことは大いなる過ちであると考えている。その当時の情勢を的確に把握した上で顧みるべきことであろう。顧みるにあたり、こうした「当時を生きた一人の人間の視点」と言うのは非常に重要な資料である。第一次世界大戦という試練の後のドイツも、そしてユダヤ人たちにとっても、私たちの祖先にしても、その時代をどう生きたのか、もっと知るべきことは多くあるように思う。

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑い転げ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追及したカミュの代表作。

本書裏表紙より



人が社会で生きていくためには、自分がある役割を演じることを強要される。その演じる内容は国や地方によって多少の違いはあるにせよ「演じる」という行為そのものはどの社会でも必要とされる。演じることとは自分に対して「嘘をつく」ということに同義だと思う。
この作品の主人公ムルソーはこうした「演じる」ことを拒否した。だから、社会は彼を同じ国の大衆として認めない。彼は大衆から見て「異邦人」なのである。そしてムルソーが「演じる」ことをしない限り、どの社会の大衆から見ても彼はずっと「異邦人」のままであろう。

その反面、彼は自分が好むものに対しては非常に積極的でもある。しかし、深刻な問題に対して「どうでもいい」という態度を崩さない。彼は自分自身というものに無関心なのである。ニーチェ風に言えば、ムルソーは典型的な「受動的ニヒリスト」というところだろうか。
ふとしたことからムルソーは人を殺すことになる。そしてこの国の宗教はキリスト教で、裁判は陪審員制だ。つまりキリスト教的な大衆規範によってムルソーは裁かれることとなる。弁護士はムルソーが有利となるために積極的に働きかけるが、それすらムルソー自身にとっては「どうでもいい」ことなのだ。半ば被告人不在のような状況で検事と弁護士は法廷で戦い、結果彼は死刑となる。斬首刑である。
死刑確定後、ムルソーの元に幾度となく司祭がやってくる。その司祭とのやり取りが私は本書の最大の読みどころであると思う。考えさせられることはたくさんある。

一つ、考えたことを明らかにしたい。それは「社会常識」というものについてである。私は「常識」という言葉を御旗のように掲げて話をされることをとても嫌っている。常識というものが非常に揺るぎやすい存在であるということを認識せず(国家、宗教、文化といった状況が変わればあっという間に変化するものである)、ただ思考を停止してそれを元に話すのは一種の暴力である。
さしあたり私もこの日本で生きていくため、大衆に迎合した存在にすぎない。しかし宗教的、国家的な思想の拘束が少なく、色々なことを(場所次第では)論ずることが出来る日本という国は比較的健全だと思う。ただ、その健全さを活かさないことが多すぎる点が少々もったいないと思う。

カントの著書『純粋理性批判』、『実践理論批判』、『判断力批判』などを読んで批判哲学(コペルクニス的転回)を生み出たイマヌエル・カントという人間とは一体どういう人なのか、本当に不思議になってくる。「人間の根本悪」、「道徳的とはどういうことか?」考えさせられるテーマは山のように提示しながら、彼自身はこれら学説とどのように向かっていったのか?私が哲学を離れたカントという人から聞く話は「毎日同じ時間に散歩に出かけるため、周囲のみんなの時計代わりになった」とか、「客人を自宅に招いてよく会食をした」とか、そういう話ばかりである。

まぁ、時間概念の確立に重要な役割をカントは果たしているので、この時計の代わりになったという逸話は自説とリンクしているのかもしれない。カントは人間の認識能力の基礎を追及し続けた哲学者で、時間と空間の主観的形式だけは絶対に不可欠であると考えた。これが「絶対時間」、「絶対空間」と呼ばれる考え方で、こう宣言している
『時間は一切の直感の根底に存する必然的現象である(純粋理性批判より)』
つまり、時間という先験的な直感がなければ、そのそも人間は、世界を認識することさえできないと考えたのである。

少し、細かな話に入りすぎてしまった。
勝手な私の願いなのだが、哲学者というものは実生活であっても狂人的であってほしいと思っている。自らが提唱する学説を実践しながら生きている(大体そういうことを本当にすると狂人になる)ものだと勝手に思っていたのだが、カントは80年も生きているのである。死因は身体衰弱と老人性痴呆。この時代としては大変恵まれている方ではないだろうか?キルケゴールはデンマーク教会の改革を求めた教会闘争最中に道ばたで倒れて、その後死んだ。ニーチェは発狂し、最後は肺炎で死んだ。こういうのが哲学者の理想的な死に方(勝手に言わせてもらってます。すいませんねぇ)だと思うのだが、カントは後に残した影響に対して、その人生があまりに淡々としているように思えてならないのである。

というわけで、カントという「人間」に迫った本が読みたくなった。私はカントの「道徳的とは何か?」という考えに大変感銘を受けて、実はこの生きにくい世の中を何とか生きていこうという気になったのである。そこで、私の書評ではおなじみの中島義道先生の「カントの人間学」を早速手にとってみることにした。すいませんねぇ、また中島先生で。他の人の本も読んでいるのだが、書評を書くという気にまではなかなかなれないのである。

さて、「根本悪」や「道徳的とは」ということに論じていると、きっと今日の記事はすさまじく長くなり、私の精神力が持たなくなってしまうし、読む人も辛くなってきてしまうのでその辺については後日詳しく意見を述べたいと考えているのだが、一気に総論を述べると、そうした哲学的理想と現実的考えをかなり内包した人物であるということが分かってきた。どうも私は「女性との接点が少なく一生独身であった」とか、「清貧に徹した人物であった」とか「小男ながらも思想は崇高で清潔な哲人」といったイメージを勝手に持っていたわけである。しかし、この本を読んで、逆にそのような人間では理想と現実(たとえば、形而上学の基礎付けや道徳法則の演繹を徹底的に行いながら、おむつはなぜ害があるのかを真剣に論じるなど)を非常にリアルに見ていた。またカントは地上の永久平和を論じながらも、永久平和は墓の中だけで実現されるとみなしていた。つまり、表面的な不整合性をものともしないような懐の深さをもつ人物であるということに、この本の中の数々の例を読むにつれて理解していくことができた。(とは言いつつも、持論に対する反論には徹底的に戦ったりと、意外と器量が小さい面もあるなぁと思わされるのが、カントを人間としてみなすうえでは救いである)

この本はどちらかというと「あまりに偉大なるイメージがある(イメージが作られてしまった?)」カントを少々人間臭くあつかい、貶めている感も否めないが、人は神ではなく、そして、その自分の持ちうる状況を最大限に生かし、考え、それを表現していったという現実の方が「人間のする哲学」らしいし、きっと私の心に届く何かもなかったのかもしれない。
惜しむらくは、死の床に際して著書となり得なかったカントの断片的メモ類である。彼に時間があれば、これらはどのような花を咲かせたのだろうか?

カントの著書を読んでない方でも伝記のように楽しめるし、何らかの著作を読んでいれば、そのギャップというか、どういう生活の中から思想が生まれてきたのを考えることができ、より楽しめるのではないかと思う。それほど重い本ではないので、ぜひご一読をお勧めしたい。

なぜ日本人は「汚い街」と「地獄のような騒音」に鈍感なのか?
我々は美に敏感な国民である。欧米人に比べても、心づかいが細やかで洗練されている――。しかし、いや、だからこそ、この国には騒音が怖ろしいほど溢れかえり、都市や田舎の景観は限りなく醜悪なのだ!「心地よさ」や「気配り」「他人を思いやる心」など、日本人の美徳に潜むグロテスクな感情を暴き、おしつけがましい「優しさ」と戦う反・日本文化論。

本書 帯より


私の出身地は福島県福島市である。
高村光太郎の妻、千恵子は「東京には空がない。」と言っていた。彼女にとっての本当の空とは、生誕した福島県二本松町(現在の二本松市)の、安達太良山が見える空だという。二本松市は福島市の隣だ。二本松市まで行って、私は空を眺める。そして私は思う。
 「おい、電線だらけじゃないか!」

本書は以前書評を書いた『うるさい日本の私』と『「うるさい日本」を哲学する』の間の時期に発刊された本である。先に紹介した二作は日本中を取り巻く騒音に対する内容が中心であったが、本書では日本固有の都市景観や美的感覚、日本的サービスについて言及している。

中島義道先生は、間違いなく現代日本におけるマイノリティである。ありとあらゆる「普通の人」がなんとも思わないことに日々、苦しんでいる。しかし、ほかのマイノリティと明らかに違う点が一つある。それは、表現する手段を持っているということである。
中島先生が上記の本を含めて強く主張し続けていること、それは「この日本で生きているのはマジョリティだけではない。マジョリティがなんとも思わないことに悩み続けているマイノリティが少なからず存在することを忘れずに、安易に物事を決めてくれるな」ということである。色々な人がいる。だからそれぞれの人々の感覚を許容する...そう「感受性の共生ができる社会」を目指したいという思いが随所から読み取れる。
だから本書でも「日本のマジョリティはなんとも思わないこういう事態は、いったいなぜ起きるんだ?」という点を、日本と他国、現代と近代・古代といった様々な軸を持って説明している。だが、この本の本来の目的を見誤ると「変人大学先生の変人紀行」にしかならない。おそらくamazonあたりで星ひとつをつけている人たちは、そうした表層的な面しか読み取れなかったのではないかと思う。これらは真意を伝えるための例に過ぎない。


まずはその例たる、目次を紹介しよう。

  1. ゴミ溜めのような街
  2. 欲望自然主義
  3. 奴隷的サービス
  4. 言葉を信じない文化
  5. 醜と不快の哲学

1~2章は日本の都市景観を中心に語られている。
特に声高に主張されているのは、日本の空を覆い尽くす電線と電柱の存在である。こうした景観に対して何の疑問を持たない人(マジョリティ)と、「こんな景観おかしいでしょう?」と訴え続けてきた中島先生の行動が記載されている。

私はバウハウスにインスパイアされたような造形物が非常に好きで、とくにモダニズム建築の家にはいつか住んでみたいと思っている。あの開放的な空間(特に窓。日照時間が短いドイツならではの工夫なのだろうか?)、機能とデザインが調和した(いや、最も機能的なものはデザイン的にも優れている)という合理的な考え方がとても好きなのである。
都心の高級住宅街を歩いていると、そんな建物に出会うことがある。日本人の美的感覚も捨てたものではないと思う。庭もよく手入れされている家が多い(我が家は微妙だが...)。
そして、東京や横浜のウォーターフロントの景観の美しさといったらない。ベイブリッジの光を見ながらドライブしているときなどは、こうした美しい景観を作れる日本人のセンスの良さは驚くばかりである。

私は就職活動等のために上京してきた19才の頃、東京の繁華街という洗礼を受けた。新宿歌舞伎町の電飾と音と人とゴミだらけの道路に驚かされた。同様に、上野や神田や秋葉原でも同じような衝撃を受け、こういうゴミ溜めのような街には居たく無いし、住みたくないと思った。
なぜ、自分の家はあれほどこぎれいにでき、美しいウォーターフロントの景観を作れる人たちがたくさん居るというのに、ちょっと繁華街に出ただけでなんでこんな風になってしまうのだろうか?
店レベルでいえば、あまりに典型的なので挙げさせてもらうとドンキホーテである。統一性がなく、商品を探しにくい陳列。人と人がすれ違うことすら難しいほどに商品が店内を埋め尽くしている。あの店なら、火事で死人が出るのも良くわかるというものである。おいてある商品も低俗なものと、比較的高価のブランド物が混在している(といっても、本当に一流のものはこのような店に卸されないから、街でよく見かけるような商品が多い)。少なくとも、この店でブランド品を買いたいとは微塵も思わない。究極のカオス店だと思う。私はこの店に居ると具合が悪くなってくる。しかし、私の住む近くに店舗が増えたりしているのである。つまり、多くの人々はこういうカオス状態に嫌悪感を抱かないのだろう。
茶の湯の侘び寂び、東山文化の代表とされる銀閣寺のようなものを愛する感性をも持ち、自宅はこぎれいにすることができる日本人が、なぜあのような街や店で買い物が出来るのか、不思議でならない。

そこで筆者は、欲望自然主義という言葉でこの日本人の不思議な行動を説明している。その点を引用してみよう。


欲望自然主義とは、その欲望の歯止めのない大きさを意味するのではなく(その点にかけてなら、欧米列強の欲望の方が桁違いに大きい)、欲望の様態を特徴付けるのだ。日本人にとって「自然」とはある決まった領域ではなく、そこにはいかなる限界も無い。まさに人間のなすこと全てが自然なのである。(中略)欧米人は美を実現する際に徹底的に「醜」を排除しようとするが、日本人はそうではない。「美」のすぐそばに「醜」があっても、それほど気にしないのだ。「醜」が「美」と共存していても目障り・耳障りではないのである。こうして、京都に典型的であるように、清涼な寺院の庭園が原色の看板に埋もれ、電柱が林立し、頭上では電線がとぐろを巻き、それにスピーカーががなりたてているゴミ溜めのような街と自然に共存していることになる


つまり、(マジョリティ的)日本人の特殊性としてその景観に一貫性を持たない(そういう意味での自由)ことができると解釈している。まぁ、この辺は正直、私の疑問が解けたわけではないが、自分の事実認識とさほど異なってはいないので納得できる話である。


3章の「奴隷的サービス」と4章の「言葉を信じない文化」では、日本的サービスの特殊性について語っている。

私たちが店で何かを購入する場合、その商品と、商品に対する対価(お金)をもって取引をしているわけだから、この点において、売る側と買う側の力関係は同等な筈である。
しかし、日本と言う国において提供されるサービスは非常にお客に対して謙ったものであり、そしてサービスを受ける側の客もそれを当り前だと考えている。ちょっとにわかには信じられないような要求をする客もいるし、そうした客に対応すべく、恐ろしいほどの対応マニュアルを用意してサービスを提供する側は待ち構えていたりする(特に公共交通機関やホテルでは非常に徹底している)。
そして、この王様のような客と奴隷的なサービス提供者の関係が成り立つとき、王様(客)は個性や人間味をすっかり洗い流して思いっきり匿名的な存在に留まろうとする。
例えばタクシーでのやり取り。ほとんどの日本人客はタクシーに乗り込む時「九段坂下交差点」と目的地を言うだけである(ちなみに私はタクシーの運転手と話をするのが好きなので、一人で利用した時は、東京中の道路の話などをしている。お互いに最短ルートを考えあったりする)。降車するときに運転手から「ありがとうございます。お忘れ物ありませんように」と丁寧に挨拶されても、多くの方は全くの無言である。
近所の方に挨拶をされても返さないという人はまれだと思うが、いざ、サービスを受けるという立場になるとこのような態度を平気でとる。むしろ逆に「安全運転ありがとう。さようなら。」などと返事をすると、妙に勘ぐられてしまうのではないかと思うほどである。
このような現象は西欧型市民社会に共通にみられるものらしく、社会学的には「儀礼的無関心」と呼ばれるものらしい。これが日本では気持ち悪いくらい徹底している。

さらには、コンビニでの「いらっしゃいませ~~こんにちわ~」という、こちらを見ることもなく発せられるあいさつから、町を埋め尽くす標語、注意を促す放送へと矛先が向けられる。つまり「実効性が伴わないにもかかわらず、ただ存在するだけで、かつ、マイノリティ(中島先生)の美的感覚を著しく損なう」対象(役所など)へと突進しつつ、言語哲学者の加賀野井修一の言葉を借りつつひとつ面白い分析をしている。


言語哲学者の加賀野井修一は、こういう日本人の言語観を「言霊思想」と呼んでいる。日本人の言語使用にあたっては、言葉はその意味伝達機能を無限に希薄化され、ただ「語っていること」が異様に前景にでてくる。加賀野井が言っているように、その典型的例は「祝詞」であって、「交通安全」も、「駅前放置自転車クリーンキャンペーン」も祝詞なのである。実効を期待せず「いつか気づいてくれる」だけでいい。人々の心に残って「だんだん改善していく」だけでいい。短期にならずに、その時まで忍耐強く待たなければならない。
こういう考えだからこそ、掛声、標語、警句、お願い...という「言葉」が街にあふれることになる。しかも、それによって直ちに効果を求めているのではないから、一度決まったら、えんえん何十年でも続くことになるわけだ。


こうした実効性のない「祝詞」も、景観を愛する人々からすればとてつもなく不快なものなのだろう。そう、私などはこういうものがありふれているところで育ってしまったので、あまり感じなくなっていたが...。しかし、定型的な「祝詞」で迎えられるコンビニの客と言うのも、ずいぶんとなめられた存在だなぁと思わずにはいられない。


以上が多様な感受性が存在するということに対する数々の例の一部である。

多くの進歩的(に見える)人々は感受性の多様化を認めているようであるが、その実、どうかはわからない。「個性を伸ばそう」という学校では児童・生徒の平均化に躍起になっているし、マイノリティはコミュニティの中で排斥され、いじめに苦しみあえいでいる。感受性のファシズムがまかり通っている。
私はこの本に書かれている数々の例に共感しているわけではない(だって、私は中島先生じゃないですから)。だが、こういう例題で具体的に説明されないと、鈍感な我々はその苦しみと言うものを寸でも理解できないのである。

本書のタイトル「醜い日本の私」は、感受性のファシズムが猛威をふるい、異端者を排除する日本と言う構造の醜さ、そして、こんな滑稽なことまでしないと皆に理解してもらえないという、中島先生流の皮肉のこもった自身に対する醜さ、双方にかかっているのだということを、最後まで読んで理解できた。

妻が息子に絵本を読み聞かせているのを、私も一緒になって聞いていた。
「タンゲくん」は片目を失ったノラ猫で、この本の中の私(女の子)に飼われて、半ノラ猫になる。そんなタンゲ君と私の話だ。

話の内容は思いっきり省かせていただくが、大人になってから絵本を読むと、その中から意外な深い思いが読み取れ、驚く。絵本を読む大人が増えているという理由が良くわかった。

うちにも2匹ほど猫がいる。猫は何をするでもない。
うちの妻はそんな猫がいるだけでいいという。唯在る事を喜ぶという感覚を、私はどこかに忘れてきてしまったようだ。

我ながら、またミーハーな本を買ってしまったものである。

このブログ内で幾度と無く紹介しているちょっと変わった哲学者と、メディアへの露出度が高く、リベラルな女性心理学者との対談である。前回紹介した『「うるさい日本」を哲学する』のような往復書簡ではなく、座談会のような席を設け、その中で二人が交わした意見をそのまま本にしている。
メディア露出度が高い学者というのはあまり好きではないのだが、香山さんの意見(特に、働くということに対する考え方)については、結構、共感を覚えている。

目次を紹介しよう。

  1. 結婚しなくていい!
    やっぱりモテないといけませんか?
    結婚すると幸せになれますか?
  2. 就職なんかしなくていい!
    何のために働くのですか?
    夢がないといけませんか?
  3. 金持ちになんてならなくていい!
    格差って本当にありますか?
    お金が無くても生きていけますか?
  4. 常識なんてなくてもいい!
    今どき知識って必要ですか?
    人生の目的って何ですか?
  5. 生きがいなんてなくてもいい!
    生きていると面白いことがありますか?
    生きがいが無いといけませんか
  6. 生きがいなんて無くてもいい!
    人間関係がうまくいくコツはありますか?
    人間関係はどうあるべきですか?

もう、目次を見た瞬間から「ポスト・モダニズム的どうでもいい感」がプンプンしてくる。
総じて論じれば、この本は他人と自分とを比較して「何であの人があんなに恵まれているのに、私はこんなに惨めなの?」とか、「こんな私ですけど、生きていてもいいですよね?幸せになれますよね?」という、漂流気味な人がほしい言葉にあふれている。ルサンチマンの塊のような本である。「あなたはあなたでいいのよ」、「そんなに無理する必要は無いのよ」という優しい言葉であふれかえっている。

ここまで読んでいただいた方ならば「なんで中島義道がそんな意見にのっているわけ?あの人は幸福よりも真実を追い求めると宣言した哲学者でしょ?」と思われるのではないだろうか。
実は私も全く同じ意見で、中島先生は香山さんに飲み込まれている感じが否めない。この本における中島先生は、(今までの著作と比べれば)相当普通のおじさんになってしまっている。やはり、中島先生の思いは話し言葉というよりも、書き言葉という手段でしか表現が出来ないんじゃないかなぁと、この本を読んで思った次第である。

ちょっとイイねと思ったのは、働くということに対する考え方。
「やりたいことが何かということをとことん追求し、それを仕事にして自己実現を目指しましょう」
ということを企業も、就職を斡旋する会社も、社会人向けの各種スクールでもガンガン言っているが(そして私も過去にそう言ってきましたが)、実際に「やりたい」と思っていた仕事が確実にやれる保障など無い上に、仕事となると、趣味のレベルとは要求されるレベルが異なる。つまり、「やりたい仕事」に対して過剰に期待してしまうと、「そんなはずは無い」という思いと共にガックリ来て即転職のようなことにもなりえない。完全に嫌いなことを仕事にするのはつらいので、そこそこ好きな仕事を「飯のタネ」と割り切る程度に抑え、仕事に対しては取り組んだほうがいいと本書では提案している。
私も独身の頃は「自分の好きな仕事へ~好きな仕事へ~もっと自分の適性に合った仕事があるんじゃないか?」と思いながら、結構会社を移ってきた。飯を食えなくなって困るのは自分だけだし気楽に考えてきたのだが、結婚して子供が出来たりするとそうもいかない。幸い今の仕事がそこそこは好きだし、報酬もそんなに不満は無い。なので、私はこの会社に在籍し続け、本当にしたいことは自分の仕事以外の時間の中でするように、ここ最近は生活を変えてきた。会社に長時間いたり、仕事の延長で拘束されたりするのがたまらなく嫌なので、定時になるとあっという間に消えるのだが、私はそういう人として周囲に認識されている。そうなるとこれまた本当に気楽である。とは言え、定時内でクビにならない程度の仕事はもちろんしなくてはならないが。

その他の内容は、全体的に説教じみていてあまり面白い内容でもない。
立場が異なる人であれば「うんうん」と思えるのかもしれないが、私にとって『生きているだけでなぜ悪い?』という問いへの回答の片鱗すらも、本書から得ることは出来なかった。タイトルを変えるべきなのではないか?

目次をパラパラっとみて、なんとなく手に取ってしまった一冊。だって、

  1. 「なぜ人を殺してはならないのか?」だって? ー法と倫理
  2. 「<私>は特別な存在」なのか?ー私と他者
  3. 「脳が心を産み出す」!?―こころともの
  4. 人は「意味という病」に取り憑かれた存在か?―言語と映像
  5. 「社会はリアリティを失った」のか?―社会とメディア

って、大変面白そうな感じはしませんか?さっさと手にとってレジに向かってしまった私です。

ぶっちゃけ言って、本当に面白かったのは5章のみ。

1章では2chにある時期あった「なぜ人を殺してはいけないんですか?」というスレッドへのレスを、ハンス・ケルゼンの法実証主義(法に従わなければ罰されるがゆえに、人は法に従う)、ストア学派などに代表される自然法論(法には当然従うべき合理的な根拠があるからこそ、人は法に従うし、また従わなければならない)、H・A・ハートの分析法学(日常的言語使用の分析によって、帰納法的に法の概念を抽出し、経験に見合うような形に再構成していく...不文法なイギリス分析哲学的な方法)、道徳性・倫理性(道徳感覚論、義務感覚論、快楽主義)などにマッチングさせ、それぞれのエッセンスを簡単に紹介している。レス内容が様々な哲学的方法論に収束していく様子は面白いのだが、それぞれに対する解説が少し薄い。

2章では「私は実在するのか?」という、哲学的には基本的な内容に言及。「私」ではなく、<私>である。哲学者永井均氏流の表現で、デカルトの有名なことば"cogito ergo sum"(邦訳は「われ思う、故に我あり」だが、適切には「我推う、即ち我在り」であろうと筆者は指摘)の「cogito」に該当する。考える主体の私とでも申しましょうか。この言葉を原点とし「独我論・独在論」、「他我認識の問題」について検証している。

3章の対象は「脳死臓器移植」の哲学的含意について。本件における「脳死は人の死の基準となりえるか?」、「それが倫理的に許容されるか?」という二つの問題を、2章でも扱った"cogito ergo sum"を原点とし「唯物論・唯心論」、「心身・心脳問題」から考える。肉体と言う実態に対し、心とはどういった存在なのか、過去にこれほどの諸論があったとは...

4章は一番面白そうと思っていたのだが...「いかに、哲学とは映像表現が適さないか」という内容でした。何度かブログにも書いたように、哲学と言うのは微細にわたり適切な表現をしなくてはならないため「書き言葉」以外では表現しにくいということの検証である。

そして5章。冒頭に井上陽水の『傘がない(1972年)』と『最後のニュース(1990年)』の歌詞が書かれている。「傘がない」については以前ブログにて歌詞とともに「社会問題に対して現実には傍観者にしかなりえていない」という思いを書いた。『最後のニュース』はこの方のブログに詳細に記述されているので参考にしていただきたい。この二つの曲をつなぐキーワード、それは「社会に対するリアリティの喪失」である。しかし、20年の時を隔てている二つの曲には大きな断絶が存在している。『傘がない』が「政治や社会のリアリティをどこか信じていて、でもそれにはあえて背を向けている」に対し、『最後のニュース』では後ろめたさや言い訳のらしき文言は見当たらない...つまり「リアリティを完全に欠いたバーチャル・リアリティ」だと筆者は指摘している。
戦前・戦中の時代、リアリティの中心は「国家」にあったが、戦後それは「革命」やその実行者である「市民」(学生運動あたりを連想してください)に変わった。そして学生運動が下火になってきたのが1970年頃、『傘がない』は発表された。そして1990年前後は、『ベルリンの壁崩壊(1989年)』、『ソ連崩壊(1991年)』といった共産圏の失墜、『湾岸戦争(1990年)』による戦争の仮想化、さらに1995年ころから急速に広がりを見せた『インターネット』というインフラ...『最後のニュース』はまさにこうした時代背景を適切に読み取った歌詞であると思います。
このようにして時代とともにリアリティの所在は変遷していった。こうした社会的リアリティの拡散と相対化を、思想的に正当化するイデオロギーが「ポストモダニズム」である。「ポスト」という言葉が付いている通り、「モダニズム(近代主義)」の後という意味で、それに対する「プレモダニズム(前近代主義)」という時代もあり、これぞれを筆者はこう定義している。


複数の共同体や社会が並立していることを前提とした上で、それらコミュニティーが相互に接触することなく、それぞれが固有の伝統的価値を信奉している状態のことです。世界史的には封建主義の時代がこれにあたります。ですから「プレモダニズム」は伝統に最大の価値を置く態度、そう定義していいでしょう。


さらに「モダニズム」については


複数の共同体や社会が接触・交流することが機縁となって、共通の単一的価値―たとえば「神」「理性」「進歩」「平等」など―の存在が信じられ求められる状態です。世界史的には、大航海時代から冷戦体制の崩壊までの時期と考えていいでしょう。したがって「モダニズム」は普遍的な価値を信じ求める態度と定義できます。

「ポストモダニズム」は警句をこめて、このように述べています。


これはあらゆる共同体や社会を超越するような、あるいはすべての共同体や社会が共有できるような普遍的価値など存在しないことがわかったあとの、価値の相対主義に陥った状態です。歴史的には冷戦体制の終焉以降、現在までの時期がこれにあたります。つまり「ポストモダニズム」とはカッコ良さそうに聞こえますが、ようは、普遍の追及に挫折し、絶対への衝迫を放棄した、価値相対主義的な思想的「ひきこもり」のことです。(中略)でもそろそろポストモダニズムに便乗した悪乗り、根なし草的な馬鹿騒ぎは止めた方がいい。ポストモダニズムとは、主張されるような説ではなく、ましてや、そこに居直られるような主義や立場でもなく、あくまでも乗り越えられるべき過渡的な状況に過ぎないこと、重要なことは新たな価値の創出に向けての模索であること、つまりポストモダニズムをいかにして乗り越えるか、というポスト・ポストモダニズムの問題こそが、哲学が今取り組むべき課題である


ポストモダニズムに対する考え方は人により多種多様で、「成長すること」が至上命題のようになっている現在の市場では疑うべきもないことなのかもしれません。しかし、それが本当に何の意味を持つのかということは、私にはよくわからない。「無駄なことはやめましょう」、「生産性を高めましょう」、「効率よくお金を儲けましょう」ということが何よりも優先される。そういう世界においては、哲学などというものは最大の無駄だということになるでしょう。私はどうしてもこうした世界に虚しさが感じられて仕方がない。そして、世の中には何か普遍的な価値があると(幻想であっても)信じて邁進してきた頃の人々が猛烈にうらやましい。
一つ、ポストモダニズムを超えられると私が期待しているものがあります。それは環境問題。考えれば考えるほど、ポストモダニズムと環境問題は相反する。だが、人間は愚かなもの。どれだけの犠牲を払うことで「ポスト・ポストモダニズム」へ移行できるものだろう?

以前、中島氏が書いた「うるさい日本の私」という本を紹介した。日本の至るところで荒れ狂う「言葉を伴う音や管理放送を鎮める」ための戦闘記であったが、それらの戦闘の経験を踏まえ、コミュニケーション論的に人々の行動を分析した往復書簡が本書である。往復書簡の相手は過去に「拡張機騒音を考える会」で中島氏と一緒に活動をしていた加賀野井秀一氏。中島氏、加賀野井氏共に海外での生活経験があるが、中島氏はウィーン、加賀野井氏はフランス。このあたりがサブタイトルの「偏食哲学者と美食哲学者の会話」につながっている。二人とも哲学者という括りになっているもの、中島氏は「悲観的なドイツ哲学者」に対し、加賀野井氏は「楽観的なフランス哲学者」であるから、大きな違いがある。このギャップを乗り越えて、両者の往復書簡は成り立つのかとハラハラさせられる。

騒音問題について真摯に抗議し続けた両氏であるが、騒音を出している側に全く悪意が無く、事なかれ主義や曖昧さで真っ当に相手にされないという現実を突きつけられ、日本の街を変えることはとても出来ないことを体験している。

いきなりざっくり所感を述べさせてもらうと、日本における言語のやり取りというのは非常に表層的で感情的なものであり、欧米におけるそれは表層よりも内容をじっくりと重視しているという指摘に大いに納得させられた。具体的にいえば、エスカレーターでの注意を喚起する放送であれば「エスカレータでは遊ばないようにしましょう」というのがよくあるパターン。それが「エスカレーターで遊ぶな!」という放送になれば「何だその言い方は?」という具合になる。つまり、日本人は言葉の表層的な部分に対してまず感情が表れる。そしてその中身を理解しない。表層的に問題が無ければ、意識の外に行ってしまう。日本人が「エスカレーターの案内」のような公的な音には寛大であり、私人の発する音(携帯電話の着信音など)には不寛容であるという性質も無関係ではないと思う。

と、日本の場合...と連呼してしまったが、ウィーン&フランス絶賛で「日本はダメ」とか「欧米は優れている」という論点に終始しないことには大変好感が持てる。多くのヨーロッパ賛美者の著作物のように「理念としてのヨーロッパ」と「現実の日本」との比較がダラダラと流れるような本であれば、途中で読むのを止めたことだろう。「良い」とか「悪い」とか主観的な価値観で論じず、「文化の違いがある」という客観的視点で論じられている。両氏のコミュニケーションの方法論に関する分析は非常に面白い。

ところで、昨年「KY(空気が読めない)」という言葉が流行った(?)が、これなどはまさに「和をもって貴しとなす」価値観の現代版である。「一を聞いて十を知る」、「ツーカーの仲」、「腹芸」、「以心伝心」、「行間を読む」などなど...言葉で語るというよりも、むしろ言葉の余白で語る能力を日本人は発達させてきた。議論したり話し合ったりすることを逆に「屁理屈」だとか「大人げない」とか、「青臭い」と言われてしまう。だが、こうした察知力は同じ前提を持つ人々、つまり同じ文化の中で価値観を共有するようなマジョリティにしか通じず、マイノリティ的価値観を持つものを排斥するような動きを強める。こういう構造を見ていると、イジメなんてものはなくなりそうにないと切実に思う。

千代田区図書館の蔵書を見ていたら、面白い本を発見した。「やさしい時計学(2)」。昭和30年7月10日初版の書籍である。

この本は機械式時計の基本的な構造、メンテナンス手法、各種公式などが記載された書籍である。まだ職人の世界は師弟関係が構成されており、師匠の見よう見まねで技術を盗みつつ習得するというのが一般的だった時代。そのような時代の中で、時計技術者は待ったなしで必要にもかかわらず、しっかりとした時計の教科書といえる書籍は存在していなかったがために作られたという本書。(2)ということは(1)も存在するのだろうが、残念ながら千代田区図書館にはなかった。

ちょっと面白いと思ったのは定価の記載である。定価260円、地方定価265円とある。物流の関係で、中央と地方で書籍の値段が違う時代があったのだろう。こういうのを見ると、現代ってのは恵まれているものだなぁと思う。どんな書籍でもネット上で購入することができる。そうした点では、中央と地方の差というのは限りなく縮まっている。
ちなみに、昭和30年(1955年)の大卒の初任給は\11,000ほど。現在の1/20位だろうか?そうすると本書は…5,200円。結構な高級書だったのか?

昭和30年は時計と言えば、機械式である(クォーツはこの14年後に登場する)。そして驚くべきは、基本的な構造においては現在の機械式時計と全くと言っていいほど同じことである。もちろん、新素材が誕生したり、ベアリングの構造が変わったり、オイルも高性能なものが誕生したが、そうした点を除けば、香箱の構造も、輪列も、脱進機の構造も全て同じ。長い間培われてきた機械技術というものに驚きを隠せなかった。この本をもとに習得した技術も、機械式時計に対してであれば十分に通用する。

当時の機械式時計の価格と寿命はどれほどのものであったか?本書に下記のような記述がある。


1年に1度分解掃除の手入れをするものとして7年も使えたら3000円や5000円の時計なら十分にお役目を果たしてくれたことになります。
また実際にも5年から7年くらいが時計の性能もよく調子もよく動くのであります。
(中略)
もっとも上にのべた5年とか7年というのは並級の時計の話であります。数万円くらいの時計で10年くらい、拾数万円の時計で15年くらいに時計の寿命をおさえるのがいいところではないでしょうか。
これからの皆さんはもし時計に対し、それ相当の性能で使うものとすれば、ある程度つかったらまた新しくいい性能を発揮する時計に買い替えるくらいの心構えをしていただきたいと思います。時計だってそんなに長く酷使してはかわいそうです。だんだん弱りもいたみもします。時計も生き物です。

3000円~5000円と言うと、先ほどの初任給換算で言うと、現在の60,000~100,000円位になるだろうか?クォーツ化により腕時計はものすごく安く製造でき、高耐久性を得たが、機械式時計時計ならこのくらいの値段が妥当であろう。寿命に関しては…機械式時計とはいえ、7年で逝ってしまう時計というのは少なくなったが、これは製造技術の向上によるところが大きいだろう。
しかし、十数万円の時計時計でも15年位か…これを読んで、アンティーク時計には手を出せないなぁとしみじみ思わされた。

本書の最終章は、新型時計の技術紹介である。ここで挙げられているのは

  • 中三針時計
  • カレンダー時計
  • 自動巻時計
  • 耐振時計
である。写真のROLEXのDATEJUSTはこれらの機能をすべて有する時計である。当時としてはまさに夢の時計だったことだろう
私が生まれた時代の時計はほとんど中三針時計であったため、特に目新しいものとは思っていなかった。しかし、多くの懐中時計がスモールセコンドで秒表示をしているように、時分針と同軸に秒針を配置するのは結構手間であることが本書でよくわかった。現在は意図的にクラシカルな雰囲気を醸し出すためにスモールセコンドを採用している時計が多い。
自動巻機構についても比較的詳しく本書では述べられている。香箱のスリップ機構、両方向巻の原理など…ためになりました。

本書を読んで、機械式時計を分解したくなってきた。そしてうっかり、腕時計のメンテナンスキットを購入してしまった(笑)。
ジャンク品でもオークションで落札して、改めて構造を直に見てみたい。


カインは主に言った。
「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会うものはだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
主はカインに言われた。
「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに印をつけられた。

旧約聖書 「創世記」第四章第十三ー十五節


また中島先生の本を読んでしまった(ブログで紹介していないが、別に3冊ほど読んでいる…)。哲学書は内容を理解しきることが難しく(私にはハイブローすぎます)、レビューが全くと言っていいほど書けない。哲学は微細なことまでもはっきりと言語化するが故に非常に難しい言葉の羅列となり、読解するまでに時間がかかって眠気を誘う。本書はそうした口調ではなく、「T君」という仮想の人物(若き日の中島先生でしょう)との間で取り交わされる手紙という形式をとっている。しかしそれは往復書簡ではなく、中島先生→T君という一方向のみだ。それでもT君がどのような状況に置かれ、何を考えているかということをしっかりと理解することができる。

手紙ということでやさしい口調をとっていてるものの、内容はかなりの劇物である(笑)。目次からして

  • どんなことがあっても自殺してはならない
  • 親を捨てる
  • なるべく人の期待にそむく
  • 怒る技術を習得する
  • 人に「迷惑」をかける訓練をする
  • 自己中心主義を磨き上げる
  • 幸福を求めることを断念する
  • まもなく君は広大な宇宙のただ中で死ぬ
ときている。この段階で抵抗を感じる人は、まず読むべき本ではない。
中島先生の本は、毎回胸をえぐられるような気持ちで読んでいるのだが、今回のもなかなかのものであった。彼の思考の中ではまず「まもなく広大な宇宙の中で死んで無にかえってしまう」という考えが横たわっている。実に厭世的なのだが、それでいて「自殺によって生を放棄する」ことを完全に否定する。生きていることが辛くない人が生きても、そこにはとりたてて道徳的な価値はない。しかし、カントの言葉を借りつつ「生きるのが辛いからこそ、それにもかかわらず生きていることは道徳的」だと言う。さらに「生きることに価値や意味は与えられない。しかし、それを問い続けることこそ意味がある」、「死を選ぶことは怠惰である。たったこのまえ生まれてきて、たちまち死んでしまう自分という存在は何か?それを問い続けよ」と言う。これはとてつもなく酷な考えであるものの、考えたくなくともそのようなことばかりを考えてしまう人間(私…)にとっては常に与えられている命題のようなもの。「考えるな」と人に言われてもやめないし、やめられもしない。

本書のタイトルとなっている「カイン」は上で紹介したとおり、旧約聖書の創世記に出てくるカインの現代版のことである。それは現代を生きるさまざまな事象に鈍感になれないマイノリティのことを指し、とにかく不器用で生きにくいと考えている人を指し、孤独な人を指し、すべてのものの存在や意味を問い続けるしか道が無い人を指している。今となっては「戦う哲学者」の異名をとるほどの中島先生だが、ウィーンに私費留学する34才まではまさに「カイン」であった。ウィーンでの生死の境をさまようような生活を通じて怒る技術、戦う技術を習得して強く生きている(ように見える)が、やはり突き詰めて読んでいくとそうした繊細な面が見えてくる。

本書の中で、二つほど私の印象に残ったことを引用したい


怒りの教育においてぜひとも必要なのは、他人の怒りをしっかりと受け止める能力の開発である。たとえこちらが「正しい」注意を冷静にしても、相手から反感を買うのは当然でさえある。そこには正しいことをしているという傲慢さが臭う。だから、他人に注意するものは、それが正しい要求であると信じていればいるほど、覚悟しなければならない。自分はいまたいそう傲慢な行為に出ているのだから、無傷で相手を動かすことができるというおめでたい期待などしてはならないこと、を。
ぼくは心の底からそう確信してから、自然に注意できるようになった。怒鳴ることもできるようになったんだ。自分は正しいことを要求することによって、はげしく他人を傷つけることを知っているがゆえにーなぜなら、注意されたものもそれが正しいことを承認せざるを得ないからー自分は彼からいかなる仕返しを受けても仕方がないと居直るようになった。



私、なんで「正しいことを言っているのにこの人はなぜこんなにひねくれるのか?」と本気で思っておりました。理詰めで論破しても、そういう覚悟がないから何とももやもやした気分がして、どうしようもなかった。


それは「さしあたり食っていかねばならない」者の真実の叫びかもしれない。だが、最近ようやくわかったのだが、そのうちでもさらっと反感を持つのではなく、きみやぼくのような人間を執拗に迫害するものは、たぶん心の奥底では自分の自己欺瞞に気づいているのではないか。「食っていかねばならない!」と絶叫しながらも、それがじつは唯一崇高な生きる理由ではないことをうすうす感づいているのだ。生きていかねばならない。だが、なんのために?そうした疑惑がふっと湧き上がる。だが、たちまに心の中でハエを振り払うようにそれを必死に振り払うのだ。こんな「馬鹿げた」問いに振りまわれてはならない、と。

ようは世の中で「大人だな」といわれる人々のことである。生きていること、働くこと…一々、すべてにおいて考えて動きを止めてしまう私に対して「考えても仕方が無いじゃないか」、「大人になれよ」と自己欺瞞を積極的に薦めてくる。楽になれるからそういうのだろうが、残念ながら私にはそういうことが出来ないのである。


と比較的内容に共感して読むことが出来た私としても、中島先生の薦める「カイン」の生き方を絶対的に実行することははっきり言って不可能である(社会で生きていけなくなってしまう)。
「カイン」としての生き方は、とにかく不幸である。幸福を求めることを断念することで過剰に不幸を感じることはなくなるが、これはサルトルの言う「自己欺瞞」そのものでもある。もちろんこのことを認めたうえで、自分の価値観を変えずに私は今のまま生きていくことでしょう。

店頭で見かけて「あ、俺のこと?」と思い即買い。しかし読まずにしばらく寝せてしまっていた本。本書は4人の若者と中島氏との仮想対談のような形で進む。同じ中島氏の著書である『働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか』と同じような形をとっている。働くことが~と同じように、この本の中に出てくる4人とは若き頃の中島氏であったり、今の中島氏であったり…自分の分身である4人と対話をすることで意見が整理されている。そのため他の中島氏の哲学書よりは相当読みやすい。

「なぜ生きるんだろう?」とか「人生の意味って何?」ってことは、程度の大小はあれど人間として生きていれば考えてしまうことだは思う。しかしそうしたモラトリアムな状態は比較的若い頃に脱却(忘却?)し、一般的に言われている社会に「適応」できた人世の中を、うまいこと回していってくれている。だが、こうした脱却が出来ない人間も少なからず存在する。恐らくそういう人には「ビビッ」と来る様なタイトルである。そして中島氏はそうした人たちに「そうした考えから脱却するのではなく、徹底的に考え抜くべきだ」と説くわけである。このあたりで拒否反応が出る人は、まず読むべき本ではないと思う。

実のところ、私は今の生活が退屈でならない。決まった日常を退屈ながらも毎日同じようにこなし、常に休日のことばかり考えている。こうして何十年と年を重ねていくのかと思うと、ちょっと恐ろしい気分になってくる。
先日、頭痛が酷いので逓信病院の脳外科に行って来た。脳外科の待合室で記入したヒアリングシートの項目の一つに「脳腫瘍が発見された際、本人へ告知しますか?」という選択肢があり、私は迷うことなく「はい」に丸をつけた。その後診察まで随分と時間があったので「ここで脳腫瘍が見つかったら自分はどうするだろうか?」ということを考えてみた。私は腫瘍の摘出手術等の治療を受けるだろうか?自分の意思だけが通せるならば、私は受けないと思う。そうなれば、どこかへ一人で旅にでも出たいと思うだろう。そして切のいいところで終わりにしようと思えたら、あとは運命を受け入れるだろう。ただ、最近は自分の生き死にという判断も自分ひとりで下すことが出来ない。人との関係が介入してくる。私の場合もこうした判断が下せるのかどうか、その点については自信がなくなってきた。
結果として脳腫瘍のようなものは見つからず、良くわからない頭痛だけが残ったのだが。

既に生きているわけだから、何もしなければ「生きている」状態が継続されていく。死に転じるには能動的のアクションが必要なのだが、これは小さなアクションではない。私が考えた「脳腫瘍が発見されたら…?」というのは受動的なアクションである。「生きることも死ぬこともイヤ」という方にこうした受動的な条件を差し出したら、結構受け入れる人は居るのではないかと思う。能動的に死ぬというのが嫌なのである。正直、それは怖い。

少し話がずれた。
こうした退屈を解決するためなのかどうかわからないが、社会では暴力的ではないかと思えるほど人生の目的のようなものを見つけさせようとする。どんな社会が形成されようと、どんな教育が施されようと、各人がどんな積極的な生きる目的をもとうと、いずれすべての人は死んでしまい、いずれ宇宙から人類の成果はことごとく消滅する。このことを直視してしまうと人生が虚しいということは疑う余地がない。おそらく誰しもがこんなことにはうっすら気がついているのだろうが、現代の社会ではこうしたことを明るみにすることを大変忌み嫌う。企業の採用でも消極的なことばかり話して全体のトーンを下げるような人間はまず採られないし、そういうことを明るみにする人間は迫害されていく。
ハイデガーは自分が明日にでも死んでしまうかもしれないという真実を見ないようにして生きている、そうした人間存在のあり方を「非本来的」と呼んだ。それに対して直視することを「本来的」と呼んだのだが、本来的に生きるというのは確かに苦しいことである。今の社会は「効率よく非本来的に生きる」ゲームを集団でしているようなものである。

「生きる」という言葉の対義語が「死ぬ」であっても、人が採る選択肢が対義語になるわけではない。「生きたくない」という思いを持つ人間が皆能動的に「死にたい」と思うわけではなく、死に対しても恐怖を持っている。そうした宙ぶらりんの状態でずっと何かを求め、考えながら生きていくというのは、死のうという決心をする以上に辛いことなのかも知れない。そんな微妙な線で立ち止まっている人には、救いの手になるかも知れない…いや、それはちょっとむりかなぁ(笑)と思える一冊である。

私はどうも過去の出来事に対する後悔や自責の念を打ち消すことができない人間らしく、生まれて30年近くの間に起きた様々なつらい出来事(実際に記憶としてあるのはここ20年位のものだが)思い返したり、自分の意志とは関係なく思い返さされたりして、時に冷や汗をかき、時には呆然となりながら何とか生きている。こういう後悔や自責の念を積み重ねていくことが「生きていくこと」ならば、私は何年生きられるか分からないが、結構な辛い思いをこれからもしていかなくてはならないということになる。

人はなぜ後悔するのか?「あの時、何でこんなことをしてしまったのだろう」という後悔が生まれるには、少なくともその事柄に関与しているという自覚が必要である。自覚すること、それは意図的な行為になんらかの仕方で関与させることができることに気づくことで、その限り後悔が可能になる。この「後悔しうる範囲」には個人差があるようで、どうやら私はその範囲が比較的広いのではないかと感じている。

「そうしないこともできたはずだ」という思いが人を後悔させるのだが、この思いは「そのとき私が自由だった」という思いとリンクしている。だが「あのときAを自由に選んだから、Aを選ばないこともできたはずだ」と推量するのではなく、私は「Aを選ばないこともできたはずだ」という信念を抱くからこそ、私はAを自由に選んだと了解しているのである。つまり自由とは自ら実現したある過去の意図的行為に対して「そうしないこともできたはずだ」(他行為可能)という信念のもとに生じてくる。この信念は根源的であり、ほかの何物にも由来するものではない。そしてこれを広義に「後悔」と本書では捉えている。
しかし、この後に「自由に選んだ」と思う自由とは一体何なのか?自由は「過去における自由」としてしか、つまり時間との連関によってしか認識できないのに、我々は往々にして時間を極小的現在に限定してとらえようとしてしまう。この意味での原型としての自由とは、あくまでも責任追及の到達点としての、禍を引き起こした原因としての過去における自由意思である。原型的自由は、過去において自分が選んだことに関して「それを選ばないこともできたはずだ」という後悔とともに現れる
AとBとの二つの選択肢のうち一つを選ぶという岐路に立たされているその時、どのようなメカニズムがはたらいて私がその一方を選ぶのか、正直全く分からない。このとき「自由」という言葉を使っても、「いかなる理由で」Aを選ぶのかに関して、いかなる説明もできない。そのわけは、自由という言葉は、その時の私の心に現に起こっている事実を説明する言葉ではなく、現在振り返って「どこまで」責任を追及するべきかという規範に属する言葉だからである。もし、その時まで私の責任が追及されるべきだと判定されるなら、私は「その時自由にAを選んだ」とみなされる。つまり、「そのとき私が自由にAを選んだ」ということは、そのとき現に私の心のうちで事実、何が起きているかとは独立なことなのである。そう冷静に考えると、正直救われるような後悔も私の場合は少なくはない。

ところで、上記は意図的行為に対する後悔であるが、「思わずしてしまった」という非意図的行為に対する後悔というものも存在する。どう見ても自分の意図的(目的論的)行為が直接かかわっていないことに対しても、「そういうこともできたはずだ」という後悔の念を募らせる。交通事故を起こしてしまった人が「その時違う道を走っていたら…」、「もう少し早い時間に家を出たら…」と考える、そのような後悔である。
本書では車に排気ガスを引き込んで自殺した父を持つ少年の例が紹介されている。その少年は「自殺直前の朝、学校に行くときそのすぐ傍を通ったのに気がつかなかった。気が付いていたら救えたかもしれない」と涙を詰まらせながら訴えていたそうだが、「気がつかなかった」ことを後悔するのは自分の意図的行為以外の後悔であったといっていいだろう。むしろこの場合は自分が一定の意図的行為を思い立たなかったことに対して後悔している。これは、具体的な行為以前の心の状態であって、心の状態において「気がつくこと」と「気がつかないこと」という新たな選択肢がここに形成されている。つまり後悔が先にあり、そして後悔するからこそ「気がつくこと」ができたような感覚になり、それに導かれて「気がつくこと」と「気がつかないこと」の両方を自分が対等に選べたような気がしてくる。
上記の少年の例は人間存在の根本的なあり方として、ハイデガーが提唱していることに非常に近いと思う。人は誰しも「生まれてきたい」という意志を持ち、この世に生まれてきたわけではない。日本人としてであるとか、男として、どの親のもとでといった条件の提示は全くなく、生まれてしまう。というか、生まれさせられてしまう。こうしたどうしようもない「事実性」つまり「投げ込まれてしまっていること」から人生はスタートしている。ハイデガーは「投げ込まれてしまっていること」の自覚から過去が発生していると考えているが、むしろ「投げ込まれてしまっていることに対して一定の態度をとること」つまり広い意味で「後悔すること」から、過去は発生している。人間は自分が投げ込まれてしまっている事実性を何の抵抗もなく素直に受け入れるわけではないからである。むしろ、各人の事実性は超えられない枠であって、絶えずその枠を超えようとする可能性を認めつつも、そのつど決して超えられない枠として立ちはだかっている。言い換えれば、人間は動物と違って未来へ絶えず可能性を投げかけるからこそ、そしてその可能性がほとんどかなえられないからこそ、さらに後悔を堆積させる。


私はこんなことを考えたり、いろいろと後悔したり、時々は自責の念にかられたりもする。これはどう考えても不合理であることを知ってはいるのだが、それでもやめることがどうもできない。それどころか自分の実存のすべての重みをかけてしがみついてしまう。
こんな態度をとっていると、人は私の周りに駆けつけて「後悔はやめなさい」という。「後悔しても過去は変えることができない」と説得してくる。みんなが後悔や自責の念を熱心に叩きつぶしに来てくれる。なぜもこんなにみんな熱心なのか…それは、みんな私の「幸福」を望んでいるからだろう。そしてそれを通じて、自分も「幸福」になることを望んでいるからだと思う。だいたい、後悔や自責の念にばかり駆られている人間など見ていたくないのだろう。そしてそれが、社会で潤滑に生きていくための知恵なのだと思う。
しかし、いかんともごまかしがきかない大いなる後悔の前にはそうした企ては無力である。真実を知りたいがために、さらに古傷をえぐるような真似までしてしまう。
後悔や自責の度合いが私とは比べものにはならないだろうが、たとえば子供を殺人などで失った親が、その子供がいかにして死んでいったのかを知ろうとする…それを知ることによって不幸になることは分かっていても、周囲の慰めよりも真実を優先するようなその気持ちに近い。
これはもう、私の性質なのである。そして、その性質自体をもつにいたった自分に対して、後悔と自責の念が絶えない。

私は刑事ドラマが好きなものでよく視聴するのだが(最近、帰りが遅くて見られないことが多いけど)ドラマを見るたびに警察の科捜研、鑑識、監察医の優秀さをよく感じる。これらの組織に重点をおいた海外ドラマ「CSI 科学捜査班」では、さらに進んだ現代的犯罪捜査を見せられ、そのたびに関心してしまう。ちょっとした事件の特徴から犯人を特定する技術を見せられると、とてもじゃないが犯罪は隠し通せないものだという気になってくる。少なからず犯罪の抑止力になっていると私は思う。

本書は東京都の監察医を30年間務めた法医学者が書いた本である。日本には法医学を専門とする医者は非常に少ない。東京、大阪を初めとした五大都市以外には専門の監察医は存在せず臨床医が検死を行っているわけだが、出血の仕方、遺体の損傷、生活反応…等の情報から死因や死後経過時間の特定をするには法医学の知識や経験が必要になる。これらが適切に行われているとは言えないと警鐘している。

3章構成になっており、1章では過去に経験したちょっと特異な検死事例が紹介されている。個人的興味深かったのは、捨て児(遺棄死胎)の話。「出生」という定義が法によって異なっているとは初めて知った。刑法では「一部露出説」つまり、胎児が母体から一部でも露出認められる時出生とみなし、民法では「全部露出説」胎児が母体から完全に露出分離した時を出生とする。医学では「独立呼吸説」胎児が生活反応、つまり呼吸をしたときに出生とみなすのである。堕胎罪か殺人罪かは刑法をもって裁かれるため、母体の中で死にいたった場合には母親は堕胎罪となり、一部でも露出した場合は殺人罪となる。これを特定するのは非常に難しいが、前者に比べて後者は刑事罰も重いものとなるため、見極めが非常に重要である。
2章は監察医が主人公の短編小説で構成されている。筆者は監察医を退職後、観察時代に経験した事柄を元に小説を書いている。医者の書く本というとあまり面白いイメージは無いが、これが中々面白い。
3章では監察医の専門領域とその重要性について述べられている。めった差しの事件をメディアは「残忍」と表現するが、これらの刺し傷には生活反応が無い(つまり、死後に傷つけられた)ことが多く、これは犯人に止めを刺したにも関わらず、不安でならないという心理状態を表す。残忍というよりも恐怖感による行動である場合が多いと筆者は指摘する。

実に面白い内容なのだが、些か執筆から時間が経っているために(初版が1994年)現代でもそうなのだろうか?と思わせられる内容も見られた(バラバラ死体を殺人を隠蔽することを目的としていると記載しているが、最近では死体をわざと目立つような所に置くようなパターンが多発している)。
しかし、これだけ前の内容であっても、私は事件を起こしたら警察からは逃げられないような気持ちにさせられた。現代であれば特にDNA鑑定が飛躍的に進歩しているため、ほんのちょっとした証拠からも足がついてしまいそうである。悪いことは出来ないものである。

先日レビューを書いた「嫌われ松子の一生」の続編…ということになっているが、松子のことが頻繁に出てくるわけではない。思い出として時々登場するくらいであり、前編を読んでいなかった人でも、もちろん読んだ人ならなお楽しめる作品である。

川尻松子の死から4年後の話。松子の甥である川尻笙は大学を卒業したが就職できずに東京でフリーター生活をしていた。それに対し、前作の最後で「自分の夢のために」と大学を辞めて医大にを再受験することにした笙の彼女、明日香は見事佐賀県の大学に合格し、着実に自分の夢を実現するために歩み始めていた(映画版では青年海外協力隊に入ってウズベキスタンに行っているが、あれば映画版だけの設定)。

前作と同様に、笙の視点と明日香の視点で物語りは進む。前作は過去(松子)と現在(笙)からの視点ので物語は進んだが、本作では同じ時間をお互いがどのように生きているのかが対比させられている。輝かしいばかりの日々をすごす明日香に対して、笙は明日の暮らしもわからない、夢の無い時間を過ごす。しかし、劇団員のユリやミックとの偶然の出会いにより、笙の生活は変わっていく。ミックの「ロンドン公演」という壮大な夢を知り、演劇へのめりこむようになる。
そのころ、明日香は地元病院御曹司の同級生と付き合いっており、プロポーズを受ける。客観的に見ればとても恵まれた状況にある明日香だが、彼からの「子供を産んでほしい」、「麻酔科医として病院に来てほしい」等といった要求をうけ、自分の夢や可能性が急激に制限され、現実的になることに悩みを覚える。
明日香が大学に入学してから一切の連絡をとっていない笙。そんな二人がどこでクロスするのか?この二人がぶつかって今の状況を話したらどうなるのか?夢を追う笙、現実に折り合いをつけようとする明日香。若い時期を両極端に走る二人の対比が実に面白い。

結構厚みのある本であったが、あっという間に読了してしまった。
今、モラトリアムな状況にある人…または、そんな時期を経験した人には特に心に来るものがあると思う。

先日、本書が原作となる中谷美紀主演の同名映画を視聴した。松子の流転し続ける運命を実にコミカルかつテンポ良く表現しているのだが、細部まで考えると、人々の行動に何点か疑問が残った。主人公「川尻笙」の彼女「渡辺明日香」は何故急に主人公の前から姿を消したのか?(映画では青年海外協力隊に行くことになっているが、小説では異なる)、「龍洋一」は何故組の暴力団に追われるようになったのか?(組の金を使い込んだことになっているが…具体的ではない)、「龍洋一」は出所後に何のため殺人を犯したのか?…疑問は尽きない。
こうした謎を解くために、原作の小説も読んでみることにした。映画との設定の違いがいくつか見られるが、大筋の流れは同じである。

物語は松子の視点から見た過去の描写、笙の視点から見た現在の描写が繰り返される。初めは離れたところから始まるが、それが次第に交差するようになる。松子の視点から見た事実、そして笙が松子の過去を知るために生前の松子を知る人から聞かれる各人の視点からの事実。お互いの思いに少しの違いがあったために松子は幸せのチャンスを逃している。この描写にはとてももどかしい思いをさせられる。

世の中は理不尽なことであふれている。本書内でも「ちょっとした運命の悪戯」で、松子のような流転の人生を送る可能性は誰にでもあると書かれているが、全くそのとおりだと思う。理不尽であることを恨みながら過去ばかり振り返るのも一つの生き方だが、松子はその反対である。まさにその瞬間瞬間を生きている。それが短絡的な行動を生んでしまう一つの大きな要因であるから手放しに賛同することはできないが、人一倍愛に飢えていた松子にはこうした選択肢を選ばざる得なかったのだろう。
そんな松子に、フィクションながら客観的立場である読者は「そっちに行っちゃダメー」と声をかけながら、客観的には不幸に見える松子の人生を出歯亀根性で覗き見してしまう。そんな心理が本書をいっき読みさせるのだろうか?私はあっという間に読了してしまった。

しかし、最後は辛い。松子の死の核心に笙はたどり着くのだが…それはあまりにもひどい。
私が通勤の際に利用している満員電車。何人乗っているのかはわからないが、その人数だけ固有の歴史が存在している。人を殺すということはその歴史を終わらせることである。どんな人間にもそのような権利は無い。松子の人生を知った後だから、余計に怒りを感じてしまった。

経済に強い週刊誌といえば『週間ダイヤモンド』と『週間東洋経済』の二誌を挙げる方が少なくはないと思う。前者はミクロ経済に強く、後者はマクロ経済に強いとされているが、本書は東洋経済新報社から発売され、著者の風間氏も同社の第一編集局記者である。記載されている内容は、労働者の雇用問題といったミクロ経済的内容であり、東洋経済にしてはちょっと珍しいような気もする。

内容は三部構成になっている。
第一部は「製造業復活の裏側で」というタイトルで、主に現在問題となっている「偽装請負」や「地方若年者の雇用」、「外国人研修生」の問題を採り上げている。
中国の台頭におびえる日本の製造業を、かろうじて国内に踏みとどまらせている業務請負業の存在。この業界において、ものすごいシェアを持っているにも関わらず、謎に包まれていたグループがある。「クリスタル」という会社である。系列会社を多数持ち、売上高が100億円に満たない企業が乱立するこの業界において、同グループの2006年3月期決算は5,900億超と突出している。日本の名だたる企業がこの会社のスタッフを業務請負として工場に入れている。広く関係をもたれているにも関わらず、この会社を採り上げることは一種のタブーであったようだが、2003年3月に初めて『週間東洋経済』が「異形の定刻『クリスタル』の実像」と題する6ページの記事を掲載した。内容は若年労働者の自殺問題や偽装請負について。非常にセンセーショナルな情報であった。
2006年10月、厚生労働省大阪労働局は偽装請負を繰り返してきたとして、クリスタルの中核子会社「コラボレート」に対して事業停止命令と事業改善命令を出した。その直後の2006年11月28日、あの「グッドウィル」が投資ファンドを通じてクリスタル株の67%相当を取得。連結子会社化した。元々、人材派遣業を担ってきたグッドウィルは、同業を展開するクリスタルを買収することでシナジー効果が得られると発表していたが、その可能性は未知数である。両社の今までを見てくると、労働者にとってあまり良い効果は期待できそうにはない。
首都圏や一部の地方都市を除いて、地方の有効求人倍率は未だ1倍未満の状況が続いている。そんな中、東北や九州、沖縄では業務請負業者の進出が相次いでいる。「月収30万円以上可」等と書かれた求人情報で職の無い若者を釣り、実際にはそれに満たない劣悪な環境で彼らを使う。将来の見えない若者たちの実情が緻密に調査されている。

第二部は「『働き方の多様化』という”欺瞞”」との題で「フリーター」、「パートタイマー」、「個人請負」の問題点を挙げている。かつては輝きをまとって語られることすらあった「フリーター」たち。今では正社員との生涯収入格差に1億円もの開きが生まれ、働いても生活できない「ワーキングプア」の代名詞となってしまっている。”解雇”規制の枠外におかれる「登録型」派遣、急増する「日雇い派遣」の理不尽な現実について詳細にまとめられている。
第三部は「雇用融解」の題で、正社員を襲う”ホワイトカラー・エグゼプションの問題、医師・教師・介護師を蝕む労働環境を中心に語られている。ホワイトカラー・エグゼプションは多くの労働者に多大な影響を与える法案にも関わらず、その関心は非常に低い。導入によって考えられる我々に降りかかる不利益にどのようなものがあるかが論じられている。正社員として雇用されている方でも、この内容は必読だといえるだろう。


ホワイトカラー・エグゼプションの問題といい、今までの派遣法や労働法の規制緩和といい、経団連や経済財政諮問会議は人間らしい生活から労働者を乖離させるような法案ばかり矢継早に通している。全体の利益のためには一部の犠牲は厭わないという姿勢のようだが、それが政府の取るべき態度だろうか?社会保障の網から取り残され、死人すら出ているという現実をちゃんと見ているのだろうか…
この著者の風間氏、私と同い年なのである。全くもって驚きの力量である。緻密かつ、生ものである「今、まさに存在している雇用問題」がしっかりとまとめられているすばらしい書籍である。労働・雇用問題はどのような形態で働く人にとっても共通するテーマである。ぜひ一読されることをお勧めしたい。

また中島氏の本を熟読してしまった。
同氏の著書『私の嫌いな10の言葉』に続くような雰囲気を持つタイトル。根本は似ているのだが、著者がこの本で上げられている嫌いな10の人びととは下記のような人である。

  1. 笑顔の絶えない人
  2. 常に感謝の気持ちを忘れない人
  3. みんなの喜ぶ顔が見たい人
  4. いつも前向きに生きている人
  5. 自分の仕事に「誇り」を持っている人
  6. 「けじめ」を大切にする人
  7. 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
  8. 物事をはっきり言わない人
  9. 「おれ、バカだから」と言う人
  10. 「わが人生に悔いはない」と思っている人

書店で、この本の横にはまさに上で示した10の言葉に該当する人物に「なる」ための本が陳列されていたりして、ちょっと笑いがこみ上げてくる。それだけ日本のマジョリティが「こうなりたい!」と思っている人を嫌いだと言い切るわけだから、この本は人によっては精神変調を起こしかねないような内容であると言えよう(私も「嫌いな10の人びと」に該当するところがたくさんあるので、ハラハラした気持ちで本書は楽しめた)。また、こうしたいわゆる「日本のマジョリティ」はその価値観を(美徳と思っているが故に)人に強要するような行為に出る。それがマイノリティであると自負する筆者には随分と辛いことであるようである。
筆者は表層的には現代の日本では美徳と感じられるこうした人びとの心の裏側に存在する無神経な利己心(本人が意識しているかしていないかに関わらず)を実に敏感に読み取っている。例えば2の「常に感謝の気持ちを忘れない人」の行動を見ていくと、同時に「感謝の気持ちを(ずうずうしくも)他人に要求する」という面が見えてくる。そして、それが思い通りにならないと不安でならないので「お前のためを思って言っているんだ」というような台詞を言いながら、周りの人にもそれを強要していく。その実、自分の不安解消以外の何物でもないというのに…

しかし、潤滑な社会生活を企業に属してしている私には、筆者の言っていることを鵜呑みにして行動することは出来ない(そうしたいと思っても出来ないことが非常に多い)。精神変調をきたさないようにするためには、過剰に主観的に読まず、客観的に「こう言う視点もあるのだなぁ」というぐらいに読めば楽しめるのではないか。

現在、様々な事情によりテレビでの放送はもちろん、DVDやコミックの販売も不可となってしまっている作品が「封印」されてしまった理由についての詳細なルポである「封印作品の謎」の第二作である。
今回取り上げているのは『キャンディキャンディ』、『ジャングル黒べえ』、『オバケのQ太郎』、『サンダーマスク』の4作品。

キャンディ キャンディ』は1976年10月1日~79年2月2日までテレビアニメで放送され、雑誌「なかよし」にて1975年5月~79年3月まで連載された。原作者である「水木杏子」氏と作画を担当した「いがらしゆみこ」氏が法廷を舞台に争っている様子をメディアが取り上げているからご存知な方も多いと思う。いがらし氏が水木氏の許可無くキャンディのキャラクターを使ったビジネスを始めてしまったことがきっかけで、控訴、上告と進み、2001年10月に最高裁で「原作者と漫画家には同一の権利があり、合意が無いまま原画の作成や複製は出来ない」との判決が出ている。しかし、いがらし氏はアジアでのキャラクタービジネスを相変わらず続け、そして水木氏に謝罪や情報開示を全くしていない。このように権利がグレーな状態ではコミックスの再販、テレビの再放送やDVD化といった展開はできず、封印されたままになっている。
「”キャンディ・キャンディ”のストーリーって本当にすごいわよ。メロドラマの典型よね。記憶喪失になっちゃったり三角関係。男性たちが、1人の女性を好きになったり…。メロドラマに出てくる全てが”キャンディ・キャンディ”には集約されているのよ」(週刊新潮04年8月12日・19日合併号 新潮社)
これは『冬のソナタ』の脚本家の二人のインタビューである。キャンディ・キャンディを見ていた年齢層(私よりは5歳以上上だろう)が冬ソナにはまるのも理解できる。そして、こうした法廷での争いになるまでの間、幾度と無く再放送が繰り返され、私と同年代の女性やそれ以下であってもオープニングテーマを歌えるほどでは無いかと思う。つまり、それほどまでに普通に見ることが出来た作品が、今はみることが出来なくなっているのである。
本書の作者である安藤氏は大岡越前の「二人の母親」を例にとってこう説明している。
「原作者と作画担当の二人の母が子供の腕を引っ張って、子供を引き裂いてしまった」と。実にうまい例えである。

ジャングル黒べえ』は藤子・F・不二雄の作品であり、テレビアニメでは1973年3月2日~9月28日まで、漫画では1973年3月~74年1月まで連載された。
恐らく多くの方が「ちびくろさんぼ」が封印作品にされてしまったことはご存知かと思う。1988年の末「黒人差別をなくす会」なる組織が「黒人差別を助長する作品」として各出版社へ抗議をした。しかし2005年4月に瑞雲舎より再販されるようになり、かなりの部数が販売されている。
ジャングル黒べえも実は同じような経緯で封印に至ったのだが、実際はどうも直接抗議を受けたのではないらしい。後述する『オバケのQ太郎』の抗議を受け、出版社が自主的に発行を中止、回収したそうである。
ちびくろさんぼという名作を封印し、タカラやカルピス社のロゴを変えてしまうほどの影響力があることから「黒人差別をなくす会」という組織は非常に規模の大きな圧力団体なのかと思いきや、実は1家3人によって構成される組織であった。ちびくろさんぼ再販に際して行ったインタビューがここに掲載されているが、何だかトンチンカンな回答をしているような気がしてならない。

オバケのQ太郎』は藤子不二雄の作品で、テレビアニメで1965年8月29日~67年6月28日(オバケのQ太郎)、1971年9月1日~72年12月27日(新オバケのQ太郎)、1985年4月1日~87年3月29日(オバケのQ太郎(新))の3回に渡って放映され、様々な雑誌で1964年~73年にわたって掲載されている。テレビアニメがかなり長期にわたって放映されているため、かなり広い年齢層で身近に感じられるアニメでは無いかと思う。私もオバケのQ太郎(新)をリアルタイムで見ていた。私の妻もオバQを子供の頃見ていたというのでテーマ曲について聞いてみたのだが、私が知っているものとは違った。妻が見ていたのはどうも新オバケのQ太郎だったようである(笑)。
本作が封印された理由はいくつか噂が乱れ飛んでいる状況で、良くわからなかった。筆者が取材中に聞いた6つの理由を挙げると

  1. 黒人描写説
    「黒人差別をなくす会」が黒人描写について差別的だと抗議したため。具他的には「黒人のオバケが登場するため」、「人肉食を思わせる話がある」、「Q太郎の唇がぶ厚く黒人を連想させる」、「足が黒いため黒人が入っていると思わされる」など。
  2. 権利問題説A
    オバQは藤子不二雄の2人のアニメ会社「スタジオ・ゼロ」の合作。そのため漫画家の石ノ森章太郎などの複数人物が関わっているため、著作権に関して問題が発生した。
  3. 権利問題説B
    オバQは藤子・F・不二雄(藤本弘)と藤子不二雄A(我孫子素雄)の合作。1987年にコンビを解消して著作権に関する問題が発生した。
  4. 差別表現説
    連載当時は普通に使われていた「きちがい」、「こじき」など、現在では差別表現とされている言葉を含んでいるため。
  5. 教育問題説
    のび太の保護者的な「ドラえもん」と異なり、無芸大食で遊んでばかりいるのが教育上良くないため。
  6. ニーズ説
    1960~70年代に作られた古臭い作品で、今の時代にそぐわない。そのため出版しても需要が見込めず、出版社が出さない。
一つずつ潰していくと…
1の抗議は実際にあったが、そうであれば指摘があった話だけを封印すれば良いだけであり、オバQ全てを封印している理由にはならない。4,5は実際に抗議を受けた事実は無いようで、推測に過ぎないとのこと。6は、オバQ以上に古い作品が出版され続けている。知名度が高い本作が出版されない理由にはならない。有力視されたのは2と3の理由であった。
「スタジオ・ゼロ」とは藤子不二雄や石ノ森章太郎らが作ったアニメ制作会社である。組織として「動画部」と「雑誌部」を持ち、オバQがスタジオ・ゼロ雑誌部の初の仕事であった。所属する漫画家が特定のキャラクターを専任で描く分業体制をとっていたため、雑誌掲載時のクレジットも「藤子不二雄とスタジオ・ゼロ」とされた。だが、同じような体制をとって制作された藤子不二雄Aの「サンスケ」は封印されること無く今も販売されていること、そして単行本は藤子不二雄名義で問題なく過去に発売されてきたので、突然スタジオ・ゼロとの問題で発売禁止になったとは考えにくい。
そうすると残る説は3だけになる。オバQの増刷が中止されたのが1988年。つまり、コンビ解消直後である。また、オバQは藤子不二雄の最後の合作であった。藤子不二雄の名義は使っているものの、お互いの作風が変わってしまっていたためにコンビ解消のだいぶ前から「合作」形式での制作はやめていたのである。よってオバQの単行本を作成するには藤子・F・不二雄と藤子不二雄A双方のクレジットが必要となる。既に故人となっている藤子・F・不二雄サイドに問題が…?結果として封印の核心には迫れなかったものの、かなり近いところまで判明したその理由には一読の価値ありである。

サンダーマスク』はテレビ特撮として1972年10月3日~73年3月27日に放映され、テレビ放映後に手塚治虫が漫画を書いている(原作というわけではなく、話も違う)。比較的マイナーな特撮作品も今はDVD化されているものの、この作品は94年に3話だけされて以降、全く再放送されていない。放送用のポジフィルムの所在が一転二転としており、また映像権利の帰属先がどこかわからないという状況だという。この中にガンダムシリーズで有名な創通が関係しており、70年代の放映権管理のいい加減さが浮き彫りになっている。


子供の頃、空気のように馴染んだ存在…いつそれが居なくなったのかはわからないけれど、そのことを思い出しそしてもう出会えないと知る。すると急に寂しいような思いがしてくる。私にとってはオバケのQ太郎がまさにそんな作品だった(封印作品の謎1、2で採り上げられた作品で共にここまで思い入れがあったものは無かった)。Q太郎は消えるのが得意であったが、消えたまま姿を現すことが出来なくなってしまった。ドラえもんは声優も一新されて今もなお放送され続けているのに…
表現への批判に対して真っ向から考え抜かず、ただ発売禁止としてしまった出版社。そして、差別される対象でもない第三者が偽善的に行った表現への批判。双方に対して強い憤りを感じずには居られない。

先日、蘇る封印映像という本のレビューを書いたが、まぁ似たような本である。あちらは「放送禁止映像」に特化したものだが、こちらは映像だけではなく、発売禁止となった書籍も含まれている。また、何が表現上問題があったかという点や、封印作品となるに至った経緯はかなり詳細に記載されており、実に面白い。

本書で対象としている封印作品は「ウルトラセブン 第12話 遊星より愛をこめて」、「怪奇大作戦 第24話 狂鬼人間」、「ノストラダムスの大予言」、「ブラックジャック 第41話 植物人間・第58話 快楽の座」、「O-157ゲーム」である。前2作品は蘇る封印映像のレビューにも書いたので省き、他3つをざっと紹介。

ノストラダムスの大予言は1974年に公開された映画で「(初代の)日本沈没」に続けとばかりに東宝が公開したパニックムービーである。当時の日本は高度経済成長にかげりが見え、公害やオイルショックという事件を通じて多くの人々が「このような文明社会を継続してよいのか?」という疑問を感じ始めた頃である。危機感を煽るパニックムービーが普及するような下地が出来ていたのだろう。丹波哲郎が主演で、ノストラダムスの予言等を使いながらあらゆる文明に対して警鐘を鳴らしまくる内容なのだが、その警鐘があまりにも現実的ではなく賛同が得られなかったのか、日本沈没ほどの動員数は稼げなかったようである。日本沈没はこの後もテレビにて幾度と無く放映されているのだが、その続編的に作られた本作は1度再放送されただけである。問題とされているのは、被爆したニューギニアの原住民が人を食うシーンと、核戦争後に生き残った人類という設定の生物が出現するシーンである。前者はそのまんま、後者は被爆者の「小頭症」を思わせるということで、被爆者差別につながると被爆者やその家族が構成する団体に抗議されたことが原因のようである。ウルトラセブンの第12話への抗議に比較的近いだろうか?この抗議を受け、上映中の映画フィルムがカットされ、ビデオ等の発売は公式には未だされていない。しかし、アンダーグラウンドなルートでこのビデオが流出しており(実は私もこれを見たのだが…)、その流出に関する顛末は実に面白く本書に記載されている。

ブラックジャックの封印作品は2話。今までコミックに収録されなかった作品はいくつかあったようだが、それらも熱心な読者からの働きかけでほぼ公開されてきているにも関わらず、この2話は全く掲載されていない。「第41話 植物人間」では脳切開を「ロボトミー」と記載してしまったことが原因である(ロボトミーの詳細はココを参照)。東大精科連から抗議を受け封印に至ったが、用語さえ間違わなければ問題になるような話しではない。医学博士号を持つ手塚治虫がこのようなミスをしてしまうとは、なんとも皮肉である。
「第58話 快楽の座」は、無気力な人間にやる気を起こさせるため、脳内に埋め込み微弱な電流を流す「スチモシーバー」という機械を少年に埋め込む話。少年はこの機械によって暴力性を持つようになり、笑いながら母親を殺そうとする。そのような描写が問題になったのだろう。ロボトミーもスチモシーバーも、現在の医学会では禁忌とされる人格操作的内容を孕んだものであり、封印されてしまうことがわからないでもない。
これら作品を封印に追い込んだといわれる組織について詳しく言及しており、この辺りは非常に面白いルポになっている。

「O-157ゲーム」は厳密には封印された作品ではなく、ちょっと蛇足的である。
埼玉県が監修しO-157感染予防を目的としたゲームのキャラクターに、開発元の「サーカス」社が18禁ゲームとしてリリースした作品のキャラクターが流用されたことで、新聞等メディアが騒ぎ立てて結果的に県が監修から降りることになったというもの。当初は小学校への配布も検討されていたが、このような騒ぎに発展してしまい、計画は頓挫した。しかし一般向けには発売されている。
何よりも驚いたのは、このゲーム開発会社が埼玉県蓮田市にあるということである。蓮田は私の住まいがある市である(笑)。そうした産業がこの市にあったとは…意外である。


放送禁止映像や封印作品についてより一歩踏み入れて知りたいという方の好奇心を満たす内容には十分になっていると思う。そんな気持ちが少しでもある方にはぜひお勧めしたい。

ここ1年くらい、私の中で「放送禁止映像」というのがブームである。
ここで言う放送禁止映像というのはち○○んを出しちゃったりしたハプニング映像のことを差すのではなく、いわゆる差別的な用語やグロテスクな描写が含まれたり、所有権が宙に浮いてしまい現在放映が不可能になってしまったものを差す。
本書の著者「天野ミチヒロ」氏は本作よりも前に「放送禁止映像大全」という書籍も発行しているのだが、作品を絞り、その内容についてさらに深く組み込んだものが本書である。

私は福島県という出身地のためなのか、ありとあらゆる世の中に存在する差別というものに非常に疎く、上京してから様々な地方から来た人と接する中で差別を知っていった。出身、病気や身体の障害が世の中の差別の原因となることなど全く知らなかったわけである。こうした差別対象のなった方々が団体を結成したりして特殊な権力を持つことにより、1980年代頃から「言葉狩り」とも言われる抗議運動が盛んになってきたわけだが、これ以前は差別的な用語が台詞はおろか作品のタイトルにつけられることすらあったのである。現在、盲目の人に対する「めくら」という表現は放送禁止用語として扱われているのだが、過去には「めくらのお市」という時代劇が存在した。このような作品は全く放映できなくなってしまっている。
差別されるものに対する過大な庇護という行為は、差別をさらに助長する。おそらく、差別の対象となった方もそのことに気がついてきているのではないかと思う。世論がそんな風潮である今こそ、放送禁止作品の封印を解く時期なのではないかと考えている。

さて、本書に掲載されている放送禁止作品の中で比較的有名なものを2作ほど紹介しよう。
1つはあの「ウルトラセブン」の第12話「遊星より愛をこめて」である。ウルトラセブンが再放送された場合、確実に第12話は欠番として扱われる。第12話には、スペリウム爆弾により自分の住んでいた惑星を核汚染し、自身も被爆したという設定の「スペル星人」という怪獣が出てくるのだが、これが白い肌にケロイド状の火傷を負って、目と口ばかりが浮き出ているような怪獣なのである。この辺りの表現が核による被爆者に非常に似ているため、被爆者家族などが構成する団体より圧力を受けてしまったのである(第12話のシナリオ等、詳しいことは本書を参照ください)。
もうひとつは、これも円谷プロの作品「怪奇大作戦」の第24話「狂鬼人間」である。本作は、警察では解決することが出来ない怪奇事件を、民間のSRI(科学捜査研究所)が解決するという内容のもので、再放送も少ないためか、一部の特撮ファン以外には中々知られていない作品である。内容も社会問題を扱ったものが多く、かつ複雑怪奇かつグロテスクな内容もしばしば見られる。1969年当時、ゴールデンタイムにこのような番組を子供向けとして放映していたものだと関心してしまう。第24話は刑法39条の「心神喪失者の行為は罰しない」という法律を逆手に取った話で、一時的に精神異常者にしてしまう「脳波変調機」を使い、犯罪を起こしても無罪になってしまうという法令に疑問をかけている。精神障害者の差別を助長するような表現が含まれている上に、笑いながら殺人を繰り返すシーンはちょっといただけない。また作品中で幾度と無くキチ○イという言葉を使っているために、間違いなく公共電波には乗せられない。
上記2作とも、放送が禁止されているだけではなく、円谷プロが作品の封印を決めているためにDVD等にも収録されない完全なお蔵入り作品である。

実は私は上記の2作は「封印されている」ものの、あるルートから入手して実際に見ている。怪奇大作戦はちょっと問題かもしれないが、ウルトラセブンについては「怪獣が被爆者であるように意識すれば見えないことも無い」というレベルのもので、放送禁止にするのは過剰防衛な作品である。
放送局はやプロダクションは未知の圧力を予見して、このように自主規制してしまうことも少なくは無い。惜しい限りだ。

本屋の新刊コーナーを見ると「幸福」の文字がタイトルについている本を必ず1冊は見つける。そして、その本は結構売れている。それだけ世の人々は幸福を求めている。
しかし、本書では一般に言われている「幸福」というものが、不幸や死といったものを「見ない」、「知らない」事によって支えられていると著者は言う。つまり、自己欺瞞の一種と考えているわけである。
世に存在する「幸福論」の多くは、相対比較対象のレベルを下げることで実現するように書かれているものが多い。例えば、おいしい食事にあり付く事が出来なくて不幸だというような場合、視点を日本ではなく全世界に広げる(レベルを下げる)ことで、「世界中には米の飯が食えない人もいる。私は米を食べられるだけでも幸せだ」という具合に幸福感を得させようとしているが、これなどは今まで比較対象としてきたものを意図的に「見ない」ことにより実現している。このような見てみぬふりをする態度を筆者は「怠惰である」と非難している。
また、死という絶対に回避不可能な「自分の存在が消滅するという大問題」を抱えている以上、人間に幸せというものは存在しないとまで言っている。確かに、幸福感を味わっている瞬間に死を意識していることは無く、そしてそれを意識した途端に「どうせしばらくしたら死んでしまうんだ…こんな満足などなんの役に立とうか?」という思いが怒涛のごとく押し寄せてくる。

著者は「幸福」とは下記の4つを満たすものであると定義してる。非常に適切な定義であったため、詳しく紹介したい。

1.自分の特定の欲望がかなえられていること。
幸福が成立するための根幹を成す条件。幸福とはある特定の欲望に関して満足を感じているのであって、客観的に決まるものではない。ある人は15万の月給で満足であるが、ある人は150万の月給でも満足しないようなこともある。

2.その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
当人の基本的信念に沿っていること。例えばドラッグ中毒者の場合、その瞬間に強烈な快感を味わっていても、その人の基本的信念に「ドラッグは自分の体のために良くない」という意識があれば、幸せになることは出来ない。

3.その欲望が世間から承認されていること。
世間という範囲は個人差があるが(家族に承認されればいいと思う方もいれば、数十万人の読者の承認を得られなければ満足できない人もるだろう)、ある程度の数の人々から承認されること。または評価されること。例えば、黒人解放のために立ち上がったマーチン・ルーサー・キングに対し、(黒人を含めて)あらゆる人が反対したとしたならば、たとえそのことによって黒人解放の信念は揺るがないにしても、彼は幸福ではないだろう。

4.その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない(傷つけない、苦しめない)こと。
妻子持ちの男性を離婚させ、やっと結婚できて幸せに酔いしている女性も、その男性の元妻が無理心中をしたと知れば、幸福感に浸ったままではいられないだろう。

これら4つの幸福の定義は見事に絡み合っている。
例えば「ホモセクシャルの男性」の場合、ホモセクシャルであるという自分の性向通りに生きることで1と2の条件は満たすが、マジョリティがヘテロセクシャルであれば3は満たさないし、それに家族が反対の立場をとれば4も満たさない。幸福であるとはいえない。
「戦前の共産主義者」も同様である。自分の主義通りに生きれば1と2は満たされるが、政治犯とみなされるため3は満たさないし、それによって特高に逮捕されて妹の縁談が破談に4も満たさない。主義を捨てれば1と2が満たされないということになる。

よくよく考えてみると、幸福の定義4の「他人」を「自分以外の全ての他人」とするならば、この定義を完全に満たす幸せなど存在しないということになる。例えば、最近はずいぶんと安価に衣料品が購入できるようになった。購入した側の立場で考えれば、安価に欲しい衣料品が手に入ったということで1と2の条件は満たされ、提示された金額を自分で稼いだ金で支払っているわけで3も満たされよう。しかし、海外に衣料品工場を移転したことで職を失った国内衣料品製造会社の方や、急激な工業化により過疎化した海外の農村部の人々、海外の工業化による公害にて悩む人々の事まで考え出すと、幸せな気分に浸っていられなくなる。
自分の幸福の実現が膨大な数の他人を傷つけながらも、その因果関係の網の目が見えないために、我々はさしあたりの幸福感に浸っていられるのである。それがすっかり見渡すことが出来たら、この世の幸福はありえないだろう。こうした点からも、幸福感は怠惰から発するものだと筆者は指摘するわけである。

では、筆者は何が言いたいのか…ということになるかと思うが、上記以外にも様々な考察がなされた結果、「どんな人生も不幸である」という結論にたどり着くわけである。そして、その不幸を見据え、覚悟して生きるほうがより豊かに生きられるのではないかと提言している。
私も好き好んで不幸を背負って生きたいとは思っていないのだが、どうも「考えたって幸福になるわけが無い」ような事ばかり考えてしまい、そのした自分に対して嫌気が差していた。が、本書を読んで同じようなことを考える人もいるものだなぁと思わされた。この著者の本は、客観的に読むと全く理解できない。主観的になれる方には受け入れられると思うが…ということで、私は比較的満足したが、人には薦められない一冊である。

全ての事を意識し、疑うことが哲学の初めだと言われている。哲学というと大学などで勉強をすることをまず考えがちだが、「哲学的に生きること」と「哲学を研究する」ことは異なる。
この筆者はどちら側の本も出している。筆者の専門である時間論や自我論、コミュニケーション論といった「哲学研究者」としての書籍は結構難解で、レビューするのもしんどいのである。大学教授といったポストを持っている人であればこういった書籍だけでも体面は立つと思うのだが、「哲学的に生きる」ことをまさに実践している筆者の普段の生活を記した書籍は、一人の不器用な人間の生き方をありのままに記しており大変面白い。


本著のタイトルはちょっと言葉がかけてあって「うるさい」の言葉が日本にかかる(つまり、日本中がうるさい)といったニュアンスと、「うるさい」の言葉が私にかかる(つまり、筆者がうるさい)の双方が含まれる。

バス・電車、デパートから駅の構内、物干し竿の宣伝まで、けたたましくスピーカーががなりたてるこの日本。いたるところ騒音だらけ。我慢できない筆者(本当に頭痛がしてきたり、仕事が出来なくなるようで…)は、その“製造元”に抗議に出かけ徹底的に議論する。本の半分くらいがこの戦闘記である。クレーム記録といったほうがいいかな…
筆者からすれば、私はこうした騒音に非常に鈍感な人間(書籍内では日本におけるマジョリティ)ということになるだろう。うるさいことはうるさいのだが、それを「意識した」ことは少ない(埼玉に引っ越してから初めて聞いた「防災無線」くらいかなぁ、私が本気で意識したのは)。意識せずに聞き流せてしまうのである。しかし、この書籍のおかげで(…良かったか悪かったかは別として)相当「意識する」ようになってしまった。そして、おそらくここでマジョリティの意識のまま少しも変わらない人にとって、この本は全く面白みの無いクレーマーの悪あがき本で終わるのではないかと思う。
戦闘記は読むのが疲れる。書くのはもっと疲れているだろうし、戦うのはもっと疲れるだろう。そう思い、苦行のようにして読んだ。コミュニケーション論を専門とする著者にとっては、クレームの内容をのらりくらりと「回避される」ことが最も辛いらしい(クレームを受ける側としては最も楽な対応である)。筆者は音を出している理由の明確な説明を求め、それを元に議論したいのである。

音の発信源は多くの場合においてサービスを提供する側である(例えば駅の乗り換え案内など)。ここ日本において、サービスのやり取りを「自己責任」で完結させることはどうも難しいらしいく、乗り換えに失敗した客が居れば「何故、乗り換えの案内をしないのだ?」とサービスの提供側は文句を言われてしまう。そして力の関係上、サービスを提供する側は「すいません」と謝ってしまうのである。筆者からすれば、これもクレームの回避という楽な対応である。さらに楽な対応は何かといえば、事前に放送等で情報を流すことである。クレームを受けても「放送させていただきましたが…」という、一種の予防線にもなりうる。
単純に騒音で苦しんでいる理由だけではなく、こうした予防線だらけでは自己責任を生まない「管理されたがり」ばかりの「幼稚園国家」になってしまうと筆者は危惧している。


後半は「察する」という、優しさを期待する日本独特のコミュニケーション文化への警鐘であった。私はこの「察する」というものが日本人の一種の美徳かなぁと思っていたのだが、察することに過度な期待を持つことでどのようなことが生まれるか…。前半のような音の氾濫も一種の察しすぎといえなくも無い。

ところで、筆者は「ヨーロッパ並みの静けさが実現されている街(ウィーンでの暮らしが長いので、こういう言葉が出るのでしょう…)」として「銀座(大銀座祭のときは除く)」と「鎌倉の小町通り」を挙げている。執筆時から時間が経っているので何ともいえないが、今度行く機会があればちょっと意識してみようと思う。

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かなりのスローペースで読み続けている「明るい悩み相談室」シリーズ。本書はシリーズ中3冊目と4冊目にあたる。世の中、変わった人は本当にたくさん居るものである。この悩みの回答内容が後の中島らもの作品の中に組み込まれていたりするので、氏のファンとしてはそうした発見もこの本を読む楽しみになっている。
多くの難問珍問のうち、個人的に気に入った質問を一つ「ますます明るい悩み相談室」から紹介したい。


悩み:傍観できぬ逆効果マラソンおじさん
クラブの朝錬で六時前に学校に行くと、学校の前の道路の車道の端を「後ろ向きで」マラソンするおじさんをいつも見かけます。彼は必ず某清涼飲料水を右手に握り、それをちびりちびりやりながら後ろ向きマラソンをしているのです。ところが最近、その某清涼飲料水は体に悪い、ということを聞きました。六時といえば外はまだ暗く寒いのです。そんな中での健康づくりが逆効果かもしれないと思うと胸が痛みます。私はこのまま傍観してよいのでしょうか。

(新潟・「う」だ。・20歳)

回答:
桂文珍さんに「健康のためなら死んでもいい!」という名言がありますが、このおじさんなどはまさにその典型なのではないでしょうか。清涼飲料水うんぬんよりも、むしろ「後ろ向きに走る」という点が「命知らずの健康中毒」という感じがします。後ろ向きに走るというのは反射神経や平衡感覚を鍛えるためのトレーニング方法なのだそうです。しかし、いくら早朝とはいえ、路上でこれをやるというのはやはり命知らずです。牛乳や新聞の配達車、ゴミ収集車などに衝突したらおじさんのせっかくの「健康」はどうなるのでしょうか。僕は今の日本の「健康神話」というのは一種のマスヒステリアだと思っています。この神話のせいで、人は「健康でない自分」に対してせっせとストレスを生産しているのです。「体に悪い」嗜好品を断つことによって起こるストレス、不健康に対する強迫観念がもたらすストレス、これらの方がよっぽど体に悪いのではないでしょうか。「絶対的健康状態」という幻想を追って、右往左往していると、それだけで一生が終わってしまいます。精神状態は疑心暗鬼の塊になるか、もしくは狂信状態になるかのどちらかです。
たとえばジョギングだって、やりすぎて心臓麻痺を起こすケースが問題になっています。また、「ランナーズ・ハイ」という現象があります。これは運動中に脳内でβエンドルフィンという麻薬物質が分泌され、これが神経を刺激するので恍惚となるのです。エンドルフィンは、モルヒネによく似た分子構造を持っています。外からの「不自然な」物質を拒絶しても、脳内では麻薬中毒者と同じような反応が起こっているわけです。「自然」とか「健康」を絶対的に追うならば人はもう「健康のために死ぬ」しかないのかもしれません。だからおじさんは後ろ向きに命がけで走っているのでしょう。


先日起きた「あるある大辞典 納豆ダイエット実験結果偽造」事件の前後のスーパーの様子を見たりすると、マスヒステリアであると大いに感じられる。私は健康のために食事をするということは全くしていない。食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んでいる。度が過ぎなければ、これが一番「心」と「体」に良いと思っている。
しかし「健康のためなら死んでもいい!」という言葉は、まさに名言である。

以前「働くことがイヤな人のための本~仕事とは何だろうか」という書籍を読んで大変感銘を受けた。「世の中は公平だ」と嘯く本はたくさんあれど「世の中とは理不尽」ということを真正面から言い、それを前提として書かれた書籍ははじめてだった。。実際にその理不尽を十分に体感し、考えつくした上で書かれた「働く理由」には説得力があったのである。「働くことがイヤな人のための本」は中島氏の著書で、本書はそれよりも前に書かれた本である。
哲学博士で電気通信大学教授である中島氏は、物事に対する見方に妥協が無い。面倒なことは出来るだけ避けてしまいがちな文化を持つ日本において、様々な事象について哲学的視点で徹底的に検証し、行動するそのエネルギーには驚かされるばかりである。

著者が挙げている「私の嫌いな10の言葉」とは、下記のような言葉である。

  1. 相手の気持ちを考えろよ!
  2. ひとりで生きてるんじゃないからな!
  3. おまえのためを思って言っているんだぞ!
  4. もっと素直になれよ!
  5. 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
  6. 謝れよ!
  7. 弁解するな!
  8. 胸にてをあててよく考えてみろ!
  9. みんなが厭な気分になるじゃないか!
  10. 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!

私は良く「人の気持ちがわかっていない」と言われる。そういう自分を毛嫌いして結構、自己嫌悪に陥ったりしてきた。しかし、よくよく考えると「人の気持ち(特に個人的な気持ち)を理解する」事など、今までの人生が違う人々の間で実現することはほぼ不可能である。気持ちは「正直な言葉」という具体的な伝達手段をもってしか恐らくわかりえないし、相手にそれを過度に期待したり、されたりしてもちょっと私には無理なようである(道徳や倫理観というものはある程度共有できるかもしれないが「最近の若い者達は…」と年寄りが言うように、年代を超えるとそれすらも難しいのかもしれない)。そして「相手の気持ちがわかっている」つもりになっている人というのがどうも信用できなくなってきた。「個人的」な付き合いでそれを望まれて辟易したことはあるが、仕事のような「社会的」場でそれを出されると私にはどうすることも出来ない。
著者が「嫌い」といっている言葉の多くは、「相手の事をわかっているつもり」という自信があるから生まれてくる言葉なのだと思う。1,3,4,6,8,9,10の言葉はそれを端的に表している。よく「京都の人は心の中で何を考えているかわからない」という事の例として「京都のぶぶづけ」が挙げられるが、これは比較的有名とは言え、そうした行動から心境を読み取れという態度に他ならない。言語によるコミュニケーション手段があるにも関わらず、こうした行動を見て判断せよというのは中々難しいことである。こうした風習には断固抗議するというのが本書のスタンスである。
2は微妙である。これは筆者の意見を一概に取り入れることはちょっと難しい。「みんなに迎合しろ」という意味で使われるならちょっと賛成しかねるが、誰かを尊重する意味では重要な言葉であると考える。ひとりひとりが色々な事を担うから社会が構成されているわけで、そうした行為は尊重すべきと考える。
5は「形だけでも取り繕え!」という実に日本的な考えであり、これで逃げられるから不祥事を起こした企業ではよく社長らが頭を下げているのを目にする。私はこうした不祥事に対し、責任者は頭を下げて謝ることを禁止したいくらい毛嫌いしている。具体的な対策を聞きたいとは思うが、謝るだけで終了するなら謝らない方がマシであるとすら思う。そして7へと続く。これも実に日本的で、私は何かが起きた「本当の理由」を知りたいから弁解は聞きたいと思っている。ただ、周りがそれを許すような雰囲気ではなく、それを話すことによって事態が解決の方向に行かない場合が多いという経験上、言うのを避けてしまっている事情がある。自分が弁解を聞くような立場になったときには、しっかり聞いてあげようと思う。

ところで「働く人がイヤな人のための本」にも記載されていたのだが、「成功者」の言葉というのは世の中に流れるが、「成功できなかった人」の言葉は世に出ることはない。そもそも、社会的成功者にならないと言葉を発する機会すら与えられないから仕方が無いといえば仕方が無いのだが、そればかりを聞かされていると自分の無能さに嫌気がさしてくる。世の中は不公平なのである。社会的成功者になるためには、本人の努力ももちろん必要だが、それ以上に運や環境が影響してくる。
まず好きなことが見つかるかどうかもわからない。見つかったとして、好きなことを仕事にできるというもわからない。仕事に出来ても、それで成功するとも限らない。しかし、様々なことに挑戦していかないと始めの「好きなことを見つける」という段階で止まってしまう。10のような言葉を頭ごなしに言い続けるのではなく、いろいろなものを見たり体験したりしていくことが重要なのではないかと思う。

残念ながら、私は中島氏のように「嫌いな言葉に徹底抗戦」という立場はとれないが、少なくとも自分はこうしたことを言うのは出来るだけ避けて生きたいように思う。

 

本書は朝日新聞大阪本社版の日曜「若い広場」欄に掲載された読者の「明るい悩み」を、中島らも氏が奇妙な方法を提示して解決していくというもので、昭和59年11月から始まったそうだ。これを集めて書籍にしたのが「明るい悩み相談室」であり、後に全国版に掲載されるようになってからのものを集めて書籍化したのが「もっと明るい悩み相談室」になる。
ちょうど一つの悩みがイラスト込みで3ページで完結している。先に紹介した「しりとりえっせい」や「ビジネスナンセンス辞典」と同様に非常に読みやすい。本当に奇人変人に関する悩みが多く、悩みの内容で笑い、回答内容でまた笑えるようになっている。

例によって、中島らも氏のによる回答なので、冗談を冗談と理解できる人でないと、理解することが難しい(いや、難しくは無いんだけど)。しかし朝日新聞の読者となるとお堅い人もたいそう多く、回答内容に対してあらぬ誤解を生んで大変になったようである。
大変な誤解を生んだのはこんな悩みであった。


悩み:
以前、祖母から「じゃがいもを焼いてみそをつけて食べると死ぬ」と聞いたことがあります。私が「そんなこと迷信にきまってる」というと、ばあちゃんは「本当やぞ。自分で食べてみろ」と真剣な顔でおどすのです。私は「よし食べてやる」といいながらなぜか食べることができませんでした。本当に死ぬのかどうか知らないまま私は死にたくありません。

(尼崎市・勇気のない母・29歳)

回答:
この場合、迷信というよりおばあちゃんのおっしゃることが正しい。「焼きジャガイモにみそをつけて食べると死ぬ」というのはほんとうです。詳しい統計は出ていませんが、「焼きジャガイモにみそをつけて食べた」ことによる死亡率が何割かに達しているという説もあります。
僕の友人の医者の話ですが、先日往診に行ったときにもやはりその実例をみたそうです。患者さんは今年九十八歳になるおじいさんなのですが、友人が診たときはすでにご臨終でした。亡くなる前にひとこと、「おのれ、あのとき、わしが十二のときに焼きジャガイモにみそをつけて食いさえせなんだら品図にすんだものを」と言い残して逝去されたそうです。
これを見ても「焼きジャガイモにみそをつけて食べると死ぬ」ということがよくわかりますね。
このほか「月夜ガニにマヨネーズをつけて食うと死ぬ」「らっきょうを六つ一度に口に入れると死ぬ」「豆腐にソースをかけるとまずい」などの言葉があって、どれもうなずけるものばかりです。とにかく気をつけてください。「健康のためなら死んでもいい」気で健康管理しましょう。


人間いつかは死ぬわけで、どう見ても冗談にしか思えないのだが、この記事が掲載された新聞が出たその日のうちに、朝日新聞社には何十件という電話がかかり、次の週には山のような問い合わせの手紙が来たそうである。中には「私は焼きジャガイモにみそをつけたのが米の飯より好きで、何十年来これを食べている。私は死ぬのでしょうか?」という全然死んでない人からの手紙や、「こんな大事なことは一新聞だけでなく、国会で国民に知らせるべきだ」というものもあったと言う。
うーん、固い。固すぎる。大阪だけなら冗談で通じたのかもしれないが、全国紙になり、冗談をあまり言わないような気がする東北の人なんかが鵜呑みにしてしまったのではないかと勝手に想像したりしている。

ビジネス・ナンセンス辞典よりも前に発売された、2ページで一つの内容について言及していくエッセイ集である。その内容がしりとりになっており、始めの言葉「しりとり」→「リトマス試験紙」→「白雪姫」→「メタモルフォーゼ」…のように続いていく。全105篇のエッセイが掲載されている。

とにかく2ページで一つのエッセイになっているので、電車に乗っているときや病院の待ち時間など、ちょっとした時間に読むことができる。だが、書かれている内容が例によって中島らも節炸裂なので、顔がにやけてしまったりして、笑いを噛み殺すのが非常に難しい。外で読むには「変人」と呼ばれることを覚悟しなくてはならないかもしれない…
テーマとなる言葉があまり一般的ではない言葉の場合、まずその言葉の解説から始まるのだが、一通り言葉の成り立ちや意味を説明した後に「嘘である。」と、全言撤回することが何回かある。意外とこの解説が理にかなっていて「へぇ~」と思わされるのだが「嘘である。」の一言で全身が脱力してしまう。まぁ、よくもそんな話をでっち上げで考えられるなぁと感心してしまう。
忙しい生活の中でも、笑いの潤いが欲しい方にはぜひともお勧めの一冊である。

最近、中島らもの作品ばかり読んでいるが、どれも秀逸で本当に亡くなられたことが惜しまれてならない。
この本は、彼の死後に発売された、短編集である。中には今まで発売された短編集に既に掲載されている作品も重複してあるのだが、私はほとんど始めて読むものばかりであった。

細かい書評は別として、作品を読むにつれて思うようになったのは、中島らもと言う人は完璧主義な人なのではないかということだ。ネタや結末に妥協が無いのである。彼は躁鬱病であったため、躁状態(私は経験がないのでわからないが)の時に作品を書くと、このようになるのだろうか?
それが一番表に出ているのが「バッド・チューニング」という作品である。ピアノの調律師と、強迫神経症で二度入院したことがある、少し壊れた女性との恋愛の話だ。「人間は自分自身や性格を変えることが出来る唯一の動物である」と話す調律師の彼と、「変える必要は無い」と考える女性と意見がぶつかり、二人の関係は終末を迎えそうな状況から話はスタートする。
彼女の笑顔はシンメトリーではない。笑うと少し口が曲がってしまう。そんな笑顔すら彼は許すことが出来ない。全てのものを調律しようとするが、それが出来たからといって結果としてどうにもならないということに気づく。漢字の「正」の字ですら、シンメトリーではない。
確かに人間は自分自身の性格を変えることが出来るのかもしれないが、私の数少ない経験から言えば、外的要因で人間を変えることはほとんど不可能に近い。その必要性を認めるという行為が伴って、初めて人は変わったりする。それも成功するのは非常に低い確率だ。
人間、ちゃんとコードがAに揃っていなくてもいいのである。世の中は不協和音ばかりであるからこそ面白いし、そこを許したいと思う心が、この作品を書かせたのではないかと私は感じている。

他にも秀逸な作品がたくさん。おすすめの一冊です。

私はつい数年前まで役者をしている筒井康隆氏と作家の筒井康隆氏を別人と思っていた。役者の時は、非常に威厳がありそうな役柄が多いのに対し、(もちろん、真剣な作品もあるが)冗談のきつい、実に笑える作品を書いていたため、どうしても私の頭の中で同一人物視出来なかったのである。

「夜を走る」というタクシー運転手の話を含めた、ドタバタ短編が複数作品収録されている。気に入った作品をピックアップして紹介する。

一番初めの作品「経理課長の放送」は、ラジオ放送局の局員(労働組合に加入している、非幹部社員。通常は、ラジオ放送の一切を担当している)が集団ストに入ってしまい、ラジオ局には勤めながらも普段は経理課長をしている中間管理職が無理やりDJにさせられ、めちゃくちゃな放送をしてしまうという話である。音響やミキサーは役員が担当しており、中間管理職という実に辛い立場の経理課長は役員に無理難題を言いつけられたり、役員達の失敗を取り繕ったりと、放送事故連発である。実際にこんな状況になっている放送局があったら耳を離せないな。こうした放送事故がよく思いつくなぁと感心しながら、大笑いした。放送の進行と共に、労働組合のストも過激化し、最終的には放送室まで組合員に乗り込まれてめちゃくちゃにされてしまうのだが、同時に中間管理職の悲哀も感じられる秀作である。

三作目で、この本のタイトルになっている「夜を走る」は大阪のタクシー運転手の話。自分自身がタクシーを利用する際は、非常にビジネスライクで(おそらく他の皆さんもそうだと思うのですが)目的地を継げた後、タクシー運転手と話しをすることはあまり無い。彼らも人間だから、乗せた客について何か思ってはいるのだろうが、そうした心理描写を読み取ろうとは私はしない。その「タクシー運転手の心理描写」がたっぷりこの作品には掲載されている。このタクシー運転手は元アル中で、禁酒を条件に仕事を続けているという、ちょっといわく付きな人物。だからこそますます面白い。いい女が乗り込めば「やりたい」と正直に思いを心の中で反芻するし、インテリ学者を乗せれば、心の中で(今なら全部検閲の上、修正となりそうな)罵詈雑言を浴びせる。色々な客を乗せていくうちに、どうしても酒を飲まずに居られなくなり、酒を飲む。その上、強姦までする。こんなタクシー運転手の車に乗ったらいやだなぁ。

「巷談アポロ芸者」はアポロ11号発射があった頃のSF作家の話。各テレビ局から引っ張りだこになるSF作家が、疲労の限界を超えたときにどのようになってしまうかを書いた作品。私は知らない時代の話だが、戦争や新兵器が開発されると呼び出される「江畑さん」のような人は、待ったなしでこのような状況に追い込まれているのかもしれない。現実に居そうだな…と、その苦労を想像してしまった。

これ以外にも秀作はたくさんあるのだが、紹介はここまでに留めておきたい。短編集の上、テンポ良く記述されているため、結構読みやすい本だと思う。かなり笑わせていただきました。

中島らもという人は経歴が非常に変わっている。フーテンであったり、もちろん作家でもあるわけだが、彼は12年間サラリーマンを実際にしている。しかも、サラリーマンの中における王道の「営業」の経験があるのである。
本書で著者自身も言っているが、サラリーマンという「組織に属しているときの顔」と「プライベートの顔」を使い分けることができる。それを見事に使い分け、かつギャップが凄い人に出会うと私は関心してしまう。

私が初めて入った会社での出来事なのだが、同じチームに私より年齢が10才位年上のKという男性の先輩がいた。私も仕事を全く知らない状況で、その先輩の下についていわゆる「OJT」という形で少しずつ仕事を覚えていき、二ヶ月ほどで仕事を任されるようになり、一応ひとり立ちした。
しばらくしてK先輩は異動となったのだが、実はそのK先輩はハードゲイで、自身のWebサイトで「こんな兄貴に抱かれてみたい!」等と赤裸々に自らの性癖をカミングアウトしていたのである。
仕事をしているとき、そのような危険性を私は全く感じられず(単に私が好みじゃなかっただけかもしれないけど)実に親切に指導いただいたわけで、その二面性というものにとても驚かされた。ハードゲイであることを知ったときは、まさに「おぞぞが走る」という気分であった。

サラリーマンの中でも、営業は特に持っている仮面が多いと思う。向かう会社ごと、担当ごとにそれぞれの仮面を使い分ける。その二重性、三重性を演じきるというのは、サラリーマンという仕事をしていく上で一つの楽しみに転化できるのではないかと思う。著者もサラリーマンを演じるということを「一種のゲームなのだ」と考えることで、仕事が随分と楽しくなったと書いている。胃に穴を開けてまで仕事をするより、この位の余裕は常に持っていたいと強く思う。

本書は辞典の様にあいうえお順にビジネス用語の解説や、関連した体験が記載されており、ちょっとした時間が出来たときに、さくっと読むには非常に適した本である。ぜひとも皆様にお勧めしたい。

中島らもが様々な著名人とあった際の会話を記録したものである。会話の相手は野坂昭如、チチ松村、山田風太郎、松尾貴史、ツイ・ハーク、井上陽水、山田詠美、筒井康隆と、文壇の方からミュージシャンまで、実に多彩である。
話は全て口語にて記述され、数時間で読了した。実に読みやすく面白い本である。

傑作だったのは野坂昭如との対談というか、果たし状である。酔った勢い(まぁ、いつも酔ってましたけど)で、中島らもは野坂昭如に果たし状をFAXにて送ったらしい。小説30枚で読者投票にて面白いと判断された方が勝利、敗者は以降、小説の筆を折るものとするとのこと。野坂昭如の奥さんは、あまりのバカバカしさに野坂さんに見せることなく処分したそうで、対談の際にいきなりこの「果たし状」を見せ付けられたらしい。
対談の場所は野坂さん宅近くの寿司屋。この二人が揃って、酒が入らないわけが無い。当然のごとく酩酊状態に突入し「らっきょう」をテーマに30枚の原稿用紙に2人は向かったのだが…当然、書けるわけが無い。結局勝負はつかず、お互い今後とも作品を発表し続けてくれた。

松尾貴史との対談では、30年近く前の阪神優勝時の大阪のバカ騒ぎの件が語られていた。ケンタッキーのカーネルサンダースを道頓堀へ投げ込んだのは、松尾貴史の父の友達、ワタナベさんという方だったそうだ。この一件は今も伝説として語り継がれているが、放り込まれたはずのカーネルサンダースは浮かび上がっていないという。プラスチック製で中が空洞のため沈むはずは無いのだが、浮かび上がってこなかったそうだ。そう思うと、都市伝説なのかもしれないな…また、同じ渡辺さんの逸話だが、阪神が優勝した日に天王寺動物園に行って、トラの檻の前で飼育係に\5,000つかませて「ええもん食わしたってくれ」と言ったらしい。それから、「日本シリーズがあるからライオンには食わすなよ」と付け加えて言ったらしい。全くもって面白い話である。

井上陽水とは「趣味を仕事にする事に関する苦しさについて」、筒井康隆とは「言語狩りによる断筆の件」が語られている。双方共に対談者の意見が忌憚無く発せられており、実に興味深かった。
肩の力を短時間で抜くには、最適の1冊である。

車検の請求額を聞いてすっかり気が滅入ってしまっていたが、この本を読むことでかなり元気づけられた。あまりのバカバカしさと「中島らも」の発想というか、笑いのセンスと言うか、まぁそういったものに脱帽である。気が滅入っているときにはてきめんの本だ。

この本の主役は菅原法斎という老人で、16年前に発狂してから瘋てん(てんの字が変換できない…または△チガイ)道一筋でキメている。彼の名刺には「瘋てん 菅原法斎」と書いている。そんな名刺、貰ってみたいものだ(笑)。話をしていると突然「おむつおむつおむつ…」と言い出す、かなり本物のぴちがい(本書の△チガイのもう一つの表記法)だ。
そんな老人の趣味はカポエラ。カポエラはブラジルの格闘技で、手を拘束されていても使えるように足技が主体である。逆立ちして足を風車のように回して蹴ったりする。今のところ、カポエラで負けたことは無いらしい。珍しい格闘技なので誰もやろうとしない。だから負けることのないのだ。(と言いつつも、法斎先生は他の格闘家とも戦っているが、かなり強い。)

そんな法斎先生の元に、様々なライバルが立ちはだかる。説得のプロフェッショナル説得の太助、「御意見無用」と刺青を入れるはずが「御意見御用」と間違えてしまったがためにヤクザに命を狙われている刺青師のジロちゃん。全寮制の女子高を校則にてがんじがらめにして喜ぶ変態校長の小田切。そして、インドの武術カラリパヤットをで法斎先生を狙う宿敵、ダラ・シン(弟はターガー・バーム・シン…笑。元ネタはタイガー・ジェット・シン…だよなぁ?懐かしいなぁ)。彼らとの1戦1戦が主に法斎先生やその弟子「ハリー」、または法斎先生のところに転がり込んだジロちゃんの娘「小筆」の口語体で記載されている。おむつおむつおむつ。口語体であるが故に、法斎先生のおむつの連呼も幾度と無く続く。

脱力しながら読むには最適な本。私の心の中のもやもやを見事に晴らしてくれた。
この本、本当に面白すぎる。私は布団の上で大笑いしながら読んでいたが、公共の場でこの本を読むのはやめておいた方が良いだろう。ニヤニヤしてしまい、不気味な人と思われるのは必至である。

しかし、中島らもという人は実に多才である。このように笑える作品も書ければ、比較的まじめな作品も書ける。貴重な人を若くしながら亡くしてしまったものだな…と、大変悔やまれる。

鎌倉末期から室町初期に活躍した近江守護「佐々木道誉」と「足利尊氏」を初めとした同時代の英雄達の活躍を描いた歴史小説である。北方謙三の作品は先日、「楠木正成」を読んだが、本作はそれより前の作品のようだ。
変わったいでたち、行動から「ばさら者」と呼ばれた「佐々木道誉」。鎌倉末期、建武、南北朝という時代は、帝の乱立、足利一門を初めとした内紛の多発から歴史を理解することが非常に難しい。「楠木正成」を読んでも思ったのだが、北方謙三は意図的に年号を記して歴史をトレースすることを避け、物語としての面白さ最優先にしている。そのため、この時代の歴史に詳しくない方がこの本を読んでも十分に楽しめると思う。この時代の「歴史」を読みたいと思うのであれば、吉川英治の「私本太平記」あたりを読んだ方が良いかもしれない。

佐々木道誉という男はこの時代を語る上で避けることが出来ないほど尊氏、義詮の政に密接に影響を与えている。ばさら者としての破天荒な彼の生き方には実に爽快感があるが、私はどちらかというと人間らしいが故に色々と思い悩み、塞ぎこみ、策を巡らし、そして時には奇跡とも思えないような行動に出る「足利尊氏」という男の魅力を本書により再認識した。

そして…京という町を基盤とする脆弱性について、この本で非常によく知らされた。下巻にはこのような記載がある。

京の奪回が勝敗の帰趨を決するのではない。京を維持するのは、京に居る軍勢の力ではないということだ。いくら京に大軍をおいても、食糧はすぐに止められる。無駄なことなのだ。京を維持できるかどうかは、全国にどれほどの力を持っているかによる。つまり、総合力の勝負だった。

京への糧道は淀川、琵琶湖、北近江、南近江が該当する。佐々木氏は近江守護であるが故に京に対して非常に大きい影響力を持っていたことは確かだが、佐々木氏の頭領がこの時代に目立った活躍をしているわけではないところを見ただけでも、道誉という男が只者ではないことを少なからず物語っていると思う。

詐欺師の話なのだが、大変面白かった。特に主人公(といっても、一人称が章ごとに変わるので、主人公の一人というべきか?)が電算写植機のオペレーターであったり、印刷を受注するためのプレゼンテーションがあったり、出版、印刷に関わりある仕事、知識をお持ちの方にはニヤリとさせられるポイントが少なくない。例えば「20級ナールE正体ツメ」といった指示が思いっきり書いてあったりする(私は世代的にはDTPの世代で、電算写植のことは知識としてしか知らないのだが)。また、詐欺師が造本家を名乗るシーンもあるため、本の装丁の話、文字組みの時代による変遷なんかがわかる。私も初めて知ることがたくさんだった。
この本時代も見事な活版印刷である。文字の上を指でなぞると、文字の部分が凹んでいることがわかる。

どうも中島らもさんの本を読んでいると、酒が飲みたくなってくる。そういうシチュエーションが多いことと、彼自身の酒飲みとしての思念のようなものがでていて、毒されてしまうのかもしれない。

今までY看護師と書いてきたが、彼女の名字は「山田」さんという。
私は医師や薬剤師とばかり接しているため、あまり看護師の名前を気にしていなかったのだが、どうもこの病棟のナースステーションには3人も山田さんと言う方がいるようなのだ。ナースステーション内の看護師は10名前後。いくらなんでも同姓が多すぎないか?

決して少ない名字ではないと思うのだが、偶然にしても多すぎである。私は人の名前を覚えることが苦手であり、この3人の山田さんを区別して呼ぶことは出来ないだろう。退院まで覚えられるだろうか?しかし区別して表現したいため、年齢が若い順に「山田A」、「山田B」、「山田C」と区別する。

今日の日勤は山田B看護師と山田C看護師。いつもは眼鏡をかけている山田B看護師が今日はコンタクトのようだ。彼女は眼鏡よりもコンタクトの方が魅力的だ。
「コンタクトの方が素敵ですよね」
と彼女に話すと、素直に顔を赤くする。そんな正直な反応がとても楽しくて、思わず彼女に声をかけてしまう。

今晩の夜勤は山田A看護師。例の学生を兼ねている方だ。彼女は学校との兼ね合いなのか、どうも夜勤が多いように思う。山田B看護師と反対に、今日は山田A看護師が眼鏡をかけている。後で少しからかってみようと思う。

今日は筒井康隆の「壊れ方入門」読了。短編集なのだが、彼の作品は長編よりも短編の、しかもバカバカしいものが好きだ。病室に一人であることをいいことに、思いっきり笑いながら読んだ。

私は歴史が好きである。西洋史はあまり詳しくは無いが、日本史、中国史はそこそこ知識があると思う。

日本史の中でも特に好きなの時期は院政の時代から江戸時代初期まで。特に鎌倉幕府の滅亡から南北朝の統一あたりには非常に興味がある。いわゆる「太平記」の時代である。鎌倉前期あたりは文献が比較的しっかりしているのに対し、太平記はしっかりとまとまっているわけではなく、例えば吉川英治も「私本太平記」として、自分の脚色を入れた上で物語をまとめている。誰もがそうせざる得ないほど、太平記は資料としての抜けが多いのだろう。

この時代には非常に魅力的な人物が多い。幕府から積極的に朝廷へ政治権力を戻そうと腐心した後醍醐天皇。源氏の血を引き武家の棟梁といっていい名家でありながらも何か煮え切らない、しかし機を見る事には誰よりも長けたな英雄、足利尊氏。公家でありながら鎮守府将軍として奥州から猛烈な勢いで行軍し、足利軍を突破した北畠顕家。朝廷の軍の必要性を誰よりも強く思い、悪党と共に父、後醍醐帝のために挙兵したがその気持ちを全く理解されなかった不遇の親王、大塔宮護良。そして500の兵で数万の鎌倉幕府軍を千早城に釘付けにした悪党、楠木正成。

本書は悪党、楠木正成が自らと一族を生きながらえさせるために鎌倉幕府に挑み、そして悪党としての楠木正成の終わりまでを記している。後に楠木正成は息子と共に北朝に破れ命を散らすのだが、そこまでは描かれていない。あくまで「悪党」としての楠木正成の終わりまでを記している。
「悪党」それは武士とは異なり、土着するものを持たない。そのため、物流で銭を稼いだり、独自に農耕したり、武装して荘園領主から兵糧を巻き上げたりして郎党を養っている。正成の主な勢力地は河内である。場所柄、派手にやりすぎると京の六波羅探題から睨まれてしまう。悪党とは非常に危うい立場にあると言える。そのため郎党の訓練を怠らず、常に危険と隣り合わせながら生き延びることを考え続けている。
鎌倉幕府における幕府と御家人の主従関係は所領の安堵にある。しかし朝廷にそれは出来ない。そこで、土地を持たず自らの考えで生き延びてきた悪党が朝廷の兵として武士よりもふさわしいと正成は考える。しかし、悪党は利が一致しないと共闘するようなことはない。本書の前半で正成は「悪党の連合」そのことに腐心する。そしてまず楠木の名を隠し、和泉の国で自らの郎党を蜂起させる。六波羅の軍が武士とは異なる戦い方をする悪党に苦戦することを他の悪党に見せつける。それは大塔宮護良親王の元に悪党を集結させるための賭けであった。それにより播磨の赤松円心を立ち上がる。円心は六波羅へ向けて攻撃を開始するが、中々六波羅は落ちない。
その頃、後醍醐帝も名和長高の手により配流された隠岐を脱した。しかしこれは正成や大塔宮にしては早すぎた誤算であった。後醍醐帝は力あるものを全て利用しようとする。それは武士であろうと何であろうと。ここで武士の力を借りてしまえば鎌倉幕府の二の舞で、帝による親政、朝廷の軍という夢は潰える。そして、後醍醐帝はそれをさせてしまう。赤松円心が落せなかった六波羅を足利尊氏がいとも簡単に落してしまった。
その後鎌倉幕府は滅ぶが、「武家の後ろ盾が無いと成り立たない朝廷」をまた生み出してしまう。後醍醐帝にとっては、自らが帝の地位に着ければそんなことはどうでも良かったのだろう。何よりも朝廷のことを、父である帝のことをあんじてきた大塔宮は疎んじられ、朝廷に反するものとして逆賊の汚名を着せられたまま死んでいく。そして悪党、楠木正成も悪党では居られなくなっていく。

楠木正成は時代の流れでこのような立場になってしまったが、「悪党」である自分が生きるための活路を必死に求めただけであり、結果として得られた官位も領地も関心が無かった。戦を見れば名将であることは間違いないのだが、そうありたかったわけではないだろう。全ては時代が彼を追い立てたに過ぎない。だが、私はそんな彼がどうにも好きでならない。

消灯時間は9時で起床時間は6時。普段はこんな早い時間に寝るわけが無いので、眠りにつくためには睡眠薬がいる。それでも3時頃に目が醒める。起きる意思がある・無いに関わらず、このところ私は睡眠6時間後に目が醒めるようになっていた。これは病院に来る前からそうだった。

朝7時ちょっと前に看護師のYさん(女性)が私の部屋にやってきた。これから血圧測定と採血するそうである。このところ直近1週間で私は3度も採血されている。寝覚めで頭がボーっとする中、ナースステーションの中に連れて行かれる。血圧は前日は上が153もあった。まぁ、環境が変わって緊張したことが原因ではないかと思う。今朝測定した値は、120-97。下はもっと低かったのだが…血圧って、幅が少ないのも良くないんでしょ?
そして採血。左手をゴムチューブでぎっちりと縛られる。ものすごく痛い。Yさん、何となく不慣れなんじゃないかと不安になる。採血用の針は太い。これを間違った位置に刺されると相当痛い。刺さったことには刺さって血が出てきたのだが、どうも勢いが無い。血液検査用の容器3つ分とるのに5分以上の時間を要した。これをされている間、急に眩暈がしてきた。私にしては非常に珍しいのだが、どうやら貧血のようである。ヘナヘナと椅子に座り込んで動けなくなった。
落ち着くためにYさんに紅茶を淹れてもらい、少し休む。ナースステーションに彼女1人しかいないので「深夜勤は1人なんですか?」と聞くと「そうなんです」とのこと。2階にもナースステーションがあるそうだから、担当するのはこの階だけなのだろうが、1人と言うのは心細くないだろうかと思って聞くと「眠いのが一番辛い」とのこと。んー、余計な心配だったかな?

しばらく動けなかったので15分ほど彼女と話をする。この病院に勤めてもう5年になるらしい。そして病院で仕事をしながらも、彼女は学生さん(!)だそうだ。准看護士の資格は持っており、現在、高等看護学校に通っているとのこと。正看の資格を取得することが目的で、現在3年生と言う。きっと若いんだろうなぁと、失礼を覚悟の上年齢を聞くと、23才とのこと。うあー、7つも違うんだなぁ。驚く。
夜勤を含めて仕事をしながら、学校の勉強するのはかなり大変だろうと彼女に聞くと「もう、学校では寝てばかりで…」と。んー、そうなってしまうのもわからないでもないが、正看の資格を取るためにここはバシッと若いうちに勉強して明るい将来につなげた方がいいと思う。思わず老婆心で「絶対、正看の資格を取っておいたほうが有利だから、今のうちにしっかり頑張ってください」などと話してしまった。正看の国家試験は簡単なものではない。その時期は病院を休んででも、勉強に専念した方がいいと思う。あまり時間をかけるべきではないだろう。
彼女は夜勤を終えて、9時過ぎに帰っていった。この病院の看護師は三交代制だそうだ。看護師の二交代制はとてもきついと思うのだが、そのようなスケジュールになっている病院は少なくない。

朝飯は8時からである。病院にしては比較的遅い。起床時間から2時間もあるのは、早くから目が覚めてしまう老人には辛いのではないだろうか?メニューはバターロール3つと苺ジャム、あとは粉ふき芋。相変わらず質素だ。あまりに質素すぎて昼飯はなんだったか忘れてしまった(笑)
特に変わったイベントは今日は無い。午前中は猛烈な眠気に襲われていたためベットで眠る。午後は読書に専念。萱野葵の「段ボールハウスガール」と「ダイナマイトビンボー」を一気に読む。前者は若い女性がホームレスになって生活する話。「んー、こんなことありえない展開」と思いつつも、よくホームレスのことを調べているなぁと関心する。どうやって取材したんだろう?後者は生活保護で生きるために精神福祉の仕組みを悪用する話。結末が明確ではなく、ちょっとモヤモヤした感じが残る。実際、こういう人もいるんだろうなぁ…と思いながらも、生活保護を受けることに対するリスクを重く知ることができた。よほどの事情が無い限り生活保護という選択はとるべきではないなと思うのだが、実際にはものすごい数の受給者が居ると言うから不思議でならない。
夕食は肉じゃが。あまり体を動かさないせいか、量が程よくなってきた。この病院の食事にはデザートと言うものは存在しないのであろうか?ブドウ糖以外の糖分が摂りたい。



また先日紹介した「うつうつひでお日記」、「失踪日記」と同じ吾妻ひでおの作品である。これは失踪日記に対する補足説明(実際に失踪した場所を再度たずねたり、漫画に描ききれなかった細かい点や生い立ちをインタビューしたもの)というか、完全に便乗商売の本である。したがって、失踪日記を手にとなら買った人はおそらく買っても意味がわからないのではないかと思う。

失踪日記に初めに「この漫画は人生をポジティブに見つめ、なるべくリアリズムを排除して描いています」とあるとおり、娯楽として受け入れられないような非常に辛いところは抜けている。締め切りを持つ漫画家であり、また一家の大黒柱が突然失踪するわけだから、決してその家族、仕事の関係者としては笑ってられないようなこともかなりあったと思う。その辺の裏事情を知りたい私としては、便乗商売覚悟の上でこの本を購入した。

中盤から最後にかけての、吾妻ひでおの生い立ち~デビューあたりはちょっと退屈であったが、失踪日記に興味がある立場として、失踪、アル中病棟、失踪日記発売後の内容については大変興味深く読むことが出来た。失踪日記のアル中病棟は途中までで終了しているので、依存症と戦っていく姿をぜひとも漫画として読みたい。次回作を期待しております。




以前レビューを書いた「失踪日記」の作者である吾妻ひでお氏が、失踪日記発売前の生活を描いた日記がこの本である。私もブログで日記のようなことを書いているが、絵を描く才能と気力があれば、このような形で日々の出来事をまとめてみたいものである。
ちょうど時期的には2004年7月~2005年2月まで掲載されており(現在、日記は書いていないそうだ)ちょうど時期的には「失踪日記」の発売前にあたる。収入、精神(鬱、アルコール依存治療)、体力とがすべて低下している状況で、失踪日記がこれほど売れるとは考えていなかったためか、生活が結構荒廃している。

私は吾妻ひでおという人の作品を「失踪日記」ではじめて見た超ビギナーだったのだが、この本を読んでいくうちにどのような趣向で、どのような作品を残してきた方なのかが大まかにわかってきた。読了書籍の寸評がよく書かれているのだが、1日2冊くらいのペースで本を読んでおり、その「読む力」には脱帽である。日々、本屋と図書館を往復している。また、アルコール病棟への強制入院(失踪日記より)を経て、一度もスリップすることなく酒を飲まずにいられるということには大変関心している。お酒と言うのは様々なところで売られており、身近に危険が潜んでいるだけあって非常に強い意志を必要とする。立派である。

出来れば失踪日記を見たうえで読んでいただいたほうが話が理解しやすいと思う。私はそうでした。

今週火曜日に発売された週間アスキー 2月20日号。雑誌の中がおでんネタだらけである。
ほぼ全ての特集の一部からかならずおでんの匂いがしてくる。文字中心の特集でも、筆者プロフィールの中におでんのことが触れられ、マンガがある特集であれば、マンガの一コマにおでんや、おでん缶のイラストが…
これは秋葉原で有名なおでん缶のアスキーバージョンである「ゲイツちゃん おでん缶」が発売されたためだろうか?
アスキー社の出版物は、昔からこうした遊びがあって非常に面白い。この週間アスキー(昔は隔週発売でアイコンという名前だったが)も15年近く買い続けている。ハードゲーマーだったころはログインという雑誌を買っていたが、これは廃刊になったのだろうか?知らない間に消えてしまった。他にもこうしたPC系の情報誌はたくさんあったが、売り上げが急落して廃刊に追い込まれたのは少なくは無い。月間アスキーの方向転換もこうした状況があったのだろう。週間アスキーは今後ともこうした楽しい企画を続けながら生き延びて欲しいものである。

雑誌「宣伝会議」の1/15日号の特集である。

ラジオ広告の市場規模をインターネット広告が抜いたことに関して、以前ブログに書いたような書いていないような…。そんな話を聞いていたのでラジオ広告は下火になっているものかと思ったのだが、決してそんなことは無かったようだ。
テレビは視覚で多くの情報を脳に直接的に送り込む。しかしラジオは耳で聴くメディアで、受け手が想像力を膨らませることが出来るという特性を持っている。また、単純な広告だけではなく番組とタイアップした広告をテレビに比べて安価に制作、配信できる。番組にブランディングのエッセンスを加えることで、視聴者により会社や商品を知ってもらえる。
宣伝会議の特集に挙げられていたのは、「エルメス・ジャポン」提供で毎週土曜20時からJ-Waveにて放送されている「HERMES LAIR DE PARIS」の例であった。エルメスは番組提供を通じて商品の告知をするよりも「パリの空気に浸ってもらう番組」に重きをおいてこの番組を作成した。日常生活品ではなく嗜好性の高い商品(もしくは高価な日常生活品)にはそのイメージやバックグラウンドが非常に重要である。
また、ラジオというメディアへのチャネルが多様化し、視聴時間も変わってきた。既存のラジオチューナーを利用するリスナーの場合、視聴率は朝を基点とし、だんだんと上がり、昼が最も高くなる。そして夜に向けて徐々に落ちていく山型のカーブを描いていた。以前務めていた広告代理店では一日中J-WAVEが流れていたが、この会社と同じようにオフィスで聴いたり、車中で聴くというのが一般的であったからだろう。最近増えたチャネルとは、携帯電話のことである。auでは携帯電話にFMラジオ視聴機能があるもを1000万台以上販売している。これら携帯はFM番組と連動した楽曲検索機能が搭載されているが、この機能、一ヶ月あたり250万件の利用があるという。そして、FM機能付き携帯からの視聴率は、夜に向けて急激に増加するようなカーブを描くという。携帯は情報受信だけではなく、情報発信にも使えるガジェットである。今後のラジオ放送に大きな影響を与えていくことだろう。

テレビに比べて局ごとの特性がはっきりと分かれるラジオ局。タクシーを運転するおじちゃんに人気がありそうなTBSラジオ、ちょっとおしゃれな雰囲気が漂うJ-Wave、働く女性が聞いていそうなTOKYO-FMと、なんとなくリスナーモデルが頭に浮かぶが、これを明確にリサーチした資料が本誌に掲載されていた。ちょっと引用させてもらうと…

<文化放送>
プレイスポットは神田や御茶ノ水など。よく読む雑誌は「大人の隠れ家」や「散歩の達人」など。時計はカシオ、靴はGTホーキンスを愛用。

<ニッポン放送>
横浜や鎌倉、浅草などに良く行く人が多く、またトヨタマーク2を所有している人が全体平均の2.2倍存在する。よく読む雑誌は「MEN'S NONNO」、「SMART」など。歴史のあるものを好む正統派タイプのリスナーが多い。

<J-WAVE>
リスナーの男女比率がほぼ同じ。時計はカルティエ(平均の1.7倍)、服ではアルマーニ、車ではBMW 3シリーズの所有率が高い。プレイスポットは青山や六本木、恵比寿など華やかな街が多い。雑誌は「PEN」、「BRIO」、「FIGARO」を愛読し、本物志向的な面が伺える。

<TOKYO-FM>
リスナーの男女比率がほぼ同じ。時計はシチズン(1.7倍)、TAG HEUER(1.5倍)、新橋や自由が丘に遊びに行く割合が平均と比べて高く、男性誌は「POP EYE」(3.5倍)、女性誌では「CLASSY」の愛読者。話題性がありつつ、品の良いものに惹かれる傾向がある。

<TBSラジオ>
男性の視聴率が高い。彼らは池袋や上野、吉祥寺に足を運んでいる。全体に対してテレビ東京(3倍)やTBS(2.8倍)を良く見ている人が多く、雑誌は「週刊文春」や「AERA」を愛読している。薀蓄が好きな、知的好奇心が高そうな人が多い。

自分自身を省みて、このリサーチ結果はどう思われますか?

比較的売れている本なのでご存知の方も多いかと思う。筆者は城繁幸氏。『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』というベストセラー本を書いた一躍有名になった方だ。私も過去、富士通に在籍していた時期もあり、実に興味深く読めた。

本書は「日本企業の成長を支えてきた」といっても過言ではない企業の「年功序列」というシステムが、現在の若者たちにどのような影響を与えているか、またその反動としてどのようなことが起きているか、起こさなくてはいけないかが述べられている。

多くの企業が「成果主義」というシステムを取り入れている。しかし、同じ成果主義でも会社が変わればその影響の度合いも大きく変わる。表面的には成果主義を謳っても、内面は年功序列といった企業もあるだろう。かつて、本当に企業が年功序列で賃金を保証していた頃があった。上司たちを見ているとだいたい、何歳でどういった職についていればどの程度の年収になるかが予想できたという。そして自分も同じレールを順番どおりに上がっていくことが保障されていた。だから、若いうちに特定のスキルが付くわけでもない、単純で面白みの無い作業であっても従事することが出来た。将来が保障されているから。だが、そのような将来は既に約束できない。狡猾に、あたかもそれがあるよう、会社や政治を動かしている50代以上が若者に見せる幻想に過ぎない。ずっと続いているはずである「出世と昇給のレール」は、いつ途絶えてもおかしくは無い。しかし、人はそれが永遠に続いているように思ってしまう。だから、マイホームのローンを30年間かけることができるのである。ローン、結婚、子供をはじめとした扶養家族の増加と、収入が保証されないとどうにもならないことが世の中にはたくさんある。それを、定期昇給があるレールの上に乗せて考えることは、非常に大きなリスクであると筆者は論じている。

私は、はじめに就職した企業で4年間働き、結構勝手気ままさせてもらったにも関わらず、転職した。まだ「第二新卒」という言葉が無かった頃である。私はその当時、どうしてもやりたい仕事があり、退職した。入社前の学生の頃、ここまで当時の会社でいろいろなことを経験できるとは思わなかった位で、非常に感謝している。しかし、多くの大企業において私のように興味のある仕事に就けることは非常に稀なようである。今はインターネットの普及で就職活動も非常にオープンになっており、応募する学生も「自分の持つ専門性をこの職場なら活かせるのではないか?」と、企業に対して期待している面が非常に強くなっているように思われる。しかし、企業側がその熱意にこたえることが出来ないことで、両者のミスマッチが起こる。そのため、より専門性が活かせるような企業へ転職するような人材が非常に多いという。企業の人事側から見れば「最近の若者は我慢できず、根性が無い」というように見られてしまう。しかし、我慢や根性が出来るというのは、明確な将来への希望がある場合であればそうかもしれないが、将来どうなるかわからないという状況下では、この人事の意見を受け入れることは私には出来ない。
ところで「労働組合が強い国は若者が失業する」という話が本書にて述べられている。一見すると全く逆なのではないかと思われるのだが、理由はこういうわけらしい。労働者の雇用や賃金が保護されるのは良いことだが、それと同時に「先に企業に入社した人の既得権の保護」が最優先される。つまり、若者が保護されるのは順番からすると最後で、実際に保護の対象となりえない場合があるということである。なるほどと思ったが、若い労働力が必要な仕事(第一線の仕事だが、大して面白いものではない)というのも確実に存在しており、若者を見捨てた企業はそうした仕事を誰にさせているのかという点が気になってくる。誰が電話番をしたりするのか?そこで登場するのが、派遣社員である。1999年の派遣法改正で一般的な企業現場のどこにでも派遣できるようになった(さらに2002年の法改正では製造現場への派遣も許され、事実上、業種による派遣の不可というのはなくなったと考えてよい)。これは経済界からの圧力があったと見て良いだろう。そしてものすごいスピードで人材派遣会社は増加し、派遣労働者数は1998年には50万人であったが、2003年には200万人を超えている。彼らの平均年収は300万円前後で(子供が産めないのも納得できる)、同世代の収入に対して70%程度である。ここで浮いた30%は、最終的には上の世代の退職金にでも消えていくのだろう。こうして若者たちにツケを回し続けているのが、現在の産業界の実情である。しかし、2007年問題のように若手を派遣で補ったために「技術継承をする相手が居ない」という問題に直面し、多少考えは変わってきているようである。

しかし、私たちはなぜ働くのだろうか?生活するのにお金は必要である。しかし、そのお金を稼ぐだけのために貴重な時間を切り売りしているのだろうか?常々考えているこの疑問が、本書を読んで強く湧き上がってきた。何十年も同じようなことを繰り返すことが出来るその忍耐力の強さには実に頭が下がる。今、自分がしている仕事としたい仕事とがベストマッチしているかといえば、残念ながらそうではない。だが「自分の成長のために会社を如何様にも使ってくれ」という、社長をはじめとした上司たちの考えに対しては強い共感を覚える。「やりたい事業がまだ無いなら、会社でやればいい」という感じである。いつか、自分の会社の中で実現させたいものである。
企業の上層部も、経団連も、マスメディアをコントロールする者も、そして政治家も50才を過ぎた方たちばかりである。特に政治家は、若者の投票率の少なさのためか、年寄りに有利になるような公約以外掲げようとはしない。こうなってしまった現実には、私たちが政治や経済、自分のみの処し方についてあまりにも無頓着であったことが無関係ではない。私たちの世代には様々なリスクが存在している。これらを叡智をもって対処しながら「生きていくのが辛い」ような世の中を改めるよう、少しずつ変えていくしかない。せめて投票くらいは行かないとね。

最近本をかなりの勢いで買っているせいか、自室に本の置き場がなくなってきた。整理していたら、ふと手にしてしまった一冊、それが原秀則の「冬物語」だった。
この本を読んだのは…そう、主人公である「森川光」よりも自分が若い頃であった。大学入試を控えた(または浪人中の)人々の恋愛物である。東京の地名が何箇所も登場するが、この本を読んだ頃は東京の地理に全く詳しくなく、それがどこだったのかを理解せずに読んでいた。今読むと、「あぁ…」と思わされる。優柔不断な性格の主人公にえらく共感したことを覚えている…まぁ、今も優柔不断なことには変わりが無いけど…いろいろとやることをそっちのけで、全巻読破してしまった。
恋愛ねぇ…妻子持ちの私は妻以外を対象にそういうことはもう出来ないしな。私は過去に妻子ある男性に自分の付き合った人を奪われた経験があり、その時彼女をひどく軽蔑した。もちろん、相手の男性のことも。そんな過去があるからというわけではないが、やはりその言葉どおり、倫理的にいけないことなであると思う。ここ数年、とても純粋でステレオタイプな恋愛物が熟年層を中心にヒットしているというのは、自分がすることができないことに対する代償行為なのだろうか?
私たち結婚して4年目、付き合って5年近く経つ。お互いの存在が当たり前になりすぎて、関係が弛緩しきっている。いけないなぁ…と、出っ張った自分のお腹を見ながら思った。

ふらっと立ち寄った書店でこの本を購入してしまった。市ヶ谷駅付近の文教堂書店の本のレイアウトは見事である。レジにたどり着く前に山積みされている新刊本を、ふと手にとってしまう。

本書は近年の若者が持つ「仮想的有能感」という「実績、実体を伴わない有能感で人を見下し、対照して、自身の社会的存在価値を見出す」潜在的意識を取り上げている。「本当の自分はこんなものではない。こいつらよりも勝っている」と根拠が無い(というか、希望に近い)思い込みをする若者がとても多く、自己愛ばかりが助長され、他人を尊重することができない。それが、安易に人を殺めたりする事件を引き起こしているのではないかという。ただ、こうした風潮は世の大人たちが子供たちに語り続けた「お前には何か人と違った天性の何かがある。それを見つけよ!」という考え(ゆとり教育も共犯かな?)に大きな影響を受けていると思う。村上龍の「13才のハローワーク」という本があれほど売れたことも、そのような風潮を如実に現しているように見える。「いつまでも自分探しをして年をとってしまう若者」はその被害者なのかもしれない。

近年、人を見下す傾向が強くなったことには、情報化が大きく関わってきていると考える。自分のデスクトップから世界中のありとあらゆる情報を瞬時に閲覧でき、またそれらについて客観的に意見することもできる。私も自ら情報をコントロールしているかのような錯覚に陥ることがある。また、パソコンやソフトウェアの高性能化により、本来であればかなりの専門性を要するようなことを簡単に行えるようになった。私が日常的に行っている写真の修正は、従来であれば暗室下で薬品や専門機器を使わないと行うことができなかったことだが、今はそれをパソコン上であっという間に行うことができる。他にも、機械図面を描くにも用いられるCAD等も同様に言えるだろう。かなり高度な図面を描くためにはそれなりの時間を経て技術を習得する必要があったが、今はそれに比べて圧倒的に少ない時間で同等の図面を描くことができる。専門性を有するまでにかかる時間が、昔から見るとずいぶんと減ったものである。新しい技術を習得するには、脳が若い方が有利である。それも他人(とくに年配者)を見下すことを助長するのではないか?
「仮想的有能感」の話に戻る。「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があるが、「仮想的有能感」に浸っている者はこの井の中の蛙のような状態にあるのではないだろうか?多くのことについて知らないために、自分が有能であるかのように思える。何らかの専門分野に実際に関わると、いかに自分が未熟であったかを痛感させられる。しかし、現実世界でそうした関わりを持つことがとても億劫なのである。億劫というだけではなく、虚飾である自分を見透かされることにも恐怖を感じるのだろう。

ちょっと本の話からずれてしまった。本書は「若者たちが他人を見下す」という行動の背景を捕らえようとしており、その中の「仮想的有能感」という感覚が影響している。そしてそれはどのように生まれ、どのように社会に影響しているのかを統計的に論じようとしているのだが、これは現実に進行している社会現象であること、そして法則性を導き出すための統計対象や母数が適切な量ではないこと、断定・推論が交じり合っていること、さらに引用される文献が一部偏っていることから、人によっては評価が著しく低く見られるのではないかと思う。十数年前から言われている「ピーターパンシンドローム」にも非常に似通っている。だが、現在進行している社会現象を現時点で切って論ずれば、このようにならざる得ないのではないかとも思う。そこそこ楽しむことはできた。

最近、市ヶ谷駅前には本書の販売をしているおじさんが毎日立っている。市ヶ谷は販売員常駐の駅になったのだろうか?この駅前で日々、実際どのくらいの売り上げがあるのだろう?
先日、限界効用逓減の法則のブログにおいても依存症の事について触れたが、BIG ISSUE Vol.59でも依存症の特集がされている。潜在的にはわからないが、表面化している依存対象としてはアルコール依存症が最も多いように思う。アルコール依存症の定義だが
アルコールを繰り返して飲むことによって、アルコールがいつも体内にある状態に慣れてしまい、アルコールが体内から消えるとき手指が震えたり発汗したりなどの「アルコール身体依存」が見られたり、病的な飲酒行動
 1.飲みだすと止まらなくなる
 2.今日は飲むまいと思っていても結局飲んでしまう
 3.飲酒で人間関係にひびが入っているのにやめられない
 4.飲酒によって体調悪化しているのにやめられない
があるとき。なおアルコール中毒とアルコール依存症は異なり、前者はアルコールが体内に取り込まれたことで、アルコールの毒にあたることを指す。
もちろん医者にかかって治療する必要があるのだが、この習慣を断ち切るためには通院だけでは不十分である。よくあるのが、夫がアルコール依存症で、妻がそれを支えるために必死に夫を助けるという関係。しかし妻の支えがあるという甘えから、夫はアルコール依存をやめることが出来ない。依存症から回復した人々の話を聞くと「底づき状態」に達しない限り、依存症脱出からの一歩は踏み出せないと言う。この底づき状態というのは、依存症の当人に対する助けの手を全て離し、「このままでは生きていられない」と本気で感じる始める状態を指す。しかしこれが中々難しい。依存症の当人がアルコールから抜け出せないのと同じように、それを支えようとする妻も夫の手を離すことが出来ない。「私が居なければこの人は…」という、依存者に対して依存するという「共依存」という状態にある場合が多いからだ。
アルコール依存症から抜け出すきっかけとして多く聞かれるのが、アルコホリックアノニマス(Alcohoilcs Anonymous 略してAA)という自助グループの存在である。AAは直訳すると「無名のアルコール依存者たち」といった意味になろうか。お互いの名前や素性を知らない不特定な存在で自助グループが構成されるのは、支配者的な人物が生まれたりすることを避けているのだろう。このAAではミーティングと呼ばれる経験や希望の分かち合いの場と、AAの12ステップと呼ばれるプログラムに基づいた、日々の生活の助けなどをしている。12ステップを見ていると「神」やら「ハイヤーパワー」といった宗教的印象を受ける単語が見受けられるが(日本人はこうした言葉に対して比較的敏感であり、嫌悪感を感じやすいですよね。私もそうですが)、これはキリスト教社会であるアメリカから来た考え方であるためこうした言葉が残っているのだろう。私なりに日本語に置換すれば、神やハイヤーパワーという言葉は「自分の意思でどうにかすることができないような大きな存在や力」といったところであろうか?意外と「辞める気になればすぐに辞められる」なんて事を言っている人に限って、酒もタバコもやめられなかったりする。こうした「自分の力は無力だ」ということを認め、人やグループに助けを求めるという素直な気持ちが大事なのだろう(しかし、この段階に達するまでがとても大変であろうと思う)。そして「今日一日、酒を飲まない」という一日、一日の積み重ねがとても大事であり、同じ悩みを共有する人たちが本気で助け合うから、依存症克服に大きな効果があるのだろう。
私もこの本を読み、少々調べてAAという組織のことを知った。実にすばらしい運動であると思う。もう少し、メディアでの紹介があれば、救われる人も出てくるのではないだろうか?

実際に読んでいる人がどれほどいるかはわからないが、ゴルゴ13という漫画が存在はたいていの人が知っていると思う。
私はこの作品のファンで、全巻持っている。作者は「さいとうたかを」氏。1968年10月から連載され、現在も連載中である。ちなみに最新刊は142巻、9/5に発売されたばかりだ。
超人的な狙撃技術と肉体、頭脳を兼ね備える男、デューク東郷が本作の主役である。自分の主義に反さなければ、どのような困難な仕事でも引き受け、完璧に遂行する。まぁ劇画とは言え、漫画の世界のことで、実際にこのような人物がいるわけがない(いて欲しいと思うことはあるが…)。
彼が受けつける仕事は非常に社会性が強く、漫画とは言えどその話の裏づけや設定の的確さにはいつも関心させられる。国際問題、経済問題、民族問題など、かなり深く内容が調べられており、この漫画を通じて知った社会情勢も少なくは無い。また、兵器や車両、風景の描写も非常に的確で、その各方面のマニア(私は車には結構うるさいのだが)をもうならせるほどである。こうした漫画を描けるさいとうたかを氏もすごいが、資料を用意したりする編集者やアシスタントも優秀なのだろう。
これからも面白い作品を楽しみにしております。

もう大ヒットの漫画である。私は妻の友達の家に行った際に見せていただいた。そしてはまった。
鉛筆書きでわら半紙を少しマシにしたような紙。やる気ないのかと思いそうだが、読み続けていくとかなり面白い。特に私のように猫を飼っている人にはとても楽しめる作品である。\1,200と少々高いのが難点だが、私も1巻だけではなく、最近出た2巻も持っている(お風呂セット付きは買えなかった…)。
ほんとうにうちの猫どもも猫村さんのようになってくれたら…と思いながら読んでいる。猫を飼っている方がこの本を読めば、私と同じような心境になるだろう。うちでも「まずは二本足で立ってみよう」計画を実行してみたが、猫がヘルニアになりそうなのでやめた。猫というものはほんとうに気まぐれなもので、まさに猫村さんとは正反対。あんな猫がいたらなぁ。水洗トイレで自分のしたものを流すという猫を外国のテレビ番組で見たことがあるが、せめてそれだけでも大変助かるのだが。
この本の作者は絶対に猫を飼っていると思う。猫村さんの描写や仕草を見ていると、猫を飼ったことがないとわからないものがとても多い。疲れると「ちょっと休みますよ」と言って、猫らしく寝たりする。
猫村さん以外にもキャラクターが強烈で面白い。派遣先の犬神家の家族も面白いし、尾仁子のヤンキーの友達のせりふもかなり笑わせてくれる。
この漫画、ネット上では1日1ページのペースで掲載しているとの事である。今回のページ数が何ページまであったかは覚えていないが、恐らく次の号が出るのは十ヶ月位先ではないだろうか。楽しみに待っているぞ。

実はもう既に51号が販売されている。結構前に買ったのだが、ようやく今日読み終えた。50号の特集は「今、日本という社会で生きること」と、ちょっとハードなテーマ。しかし、この本を売る人も読む人も当然、今を日本で生きているわけだから興味が無いテーマとはいえない。特にこのような雑誌に興味を持つ人の中には真剣に考えている人も少なくないだろう。
『自分は、何を頼りに生きればいいのか? この生きている実感の無さは何なのか? 今の若者はどんな苦境に立ち、何を苦悩しているのか?』と、大分大げさに構えられた特集だったが、読了して「そういう考え方もあるかなぁ?」という位の印象というのが正直なところ。生きている実感の無さ、わかりますよそれは。「自分って何?何のためにこんなことしているわけ?」そんなことは毎日(特に仕事に行く途中)考えていますもの。本当は仕事なんて苦手なんだよな。でもまぁ、妻もある身としてある程度は格好つけておかないとという建前と、衣食住の確保を原動力に動いているようなものですから。
社会に出てから、親類やら色々と人と会う際に「今どのような仕事をなんと言う会社でしているのか?」といったようなことをよく聞かれる。なんだかそこで自分が値踏みされているような感じでたまらなくなる。そして、そこで偏見を生まないように慎重に話をしている自分を省みて、なんかねぇと思う。滑稽である。しかしここで「いや、バイト暮らしで…」、「今は家事手伝いで(男は使わないか…)」なんて言ってみると相手の方は「はぁ、今流行のニートってやつかぁ?ダメだこりゃ。」みたいな感じのステレオタイプで見られてしまう。まともな会社に属してなければ?いい学校を出ていなければクズのように扱われてしまったりする。
本当にそれがクズなのか?
こうしたことを聞いて値踏みをするような方の多くは、満員電車でもみくちゃにされながらも会社のためにがんばって夜遅くまで働き続けた方、または続けている方に多いように思う。それをしない若者を見ると今まで必死にしてきたことを否定されたような気持ちになるのだろう。同世代の暗黙の了解なのか、ここ最近ではマスコミまで動員して「最近の若者問題」を日々発生する事件に照らしながら報じてる。(ついでにアレだ。堀江とか村上ファンドの村上さんも自分たちが経てきたような金のもうけ方をしてないから認められないのだろうな。という私もこの2人は好きになれないが。)
人が社会と接するということは、こうした仕事のような経済を介したものだけなのだろうか?金が動けば全て解決。そうした社会を作り上げ、その波(よく言われる「勝ち組」ってやつですかね?私はこの言葉が大嫌い。負け組だからかも。ふっ)にうまく乗れない人間を非難する。私はそこが一番おかしいのではないかと思う。最近の波はかなりでかい。ビッグウェ~ブである。その大波に乗ろうと必死にもがけば、体や心を壊してしまうこともある。そして、大波に乗ることを諦めた人、諦めるしかなかった人はクズのように扱われる。乗れる、乗れないのデジタル思考で人を判断するような短絡的なものではないと思う。本当に引きこもっている人、ニートになってしまっている人、それは本当は人いちばいおかしな社会に敏感な人なのかもしれない。だが、大波に立ち向かうだけが社会での生き方ではない。経済以外の社会との接点はボランティアをはじめとして、いくらでもある。大人が作った現代日本の成功者のイメージ。自殺者を3万人以上も出しながらこんなものが常識として通用するのは日本だけであろう。
といいつつこの社会から出られない、情けない私。だから長生きしたいと思わないのだろうな。

母親というのは無欲なものです
我が子がどんなに偉くなるよりも
どんなにお金持ちになるよりも
毎日元気でいてくれる事を
心の底から願います
どんなに高価な贈り物より
我が子の優しいひとことで
十分過ぎるほど倖せになれる
母親というものは
実に本当に無欲なものです
だから母親を泣かすのは
この世で一番いけないことなのです

(葉祥明 母親というものは)

皆さん、母親を泣かせてしまったことはありますか?
私は過去に3回、泣かせています。
1度は中学生のとき。確か1年生の頃だったか、私の素行の悪さのために泣かせたことがあります。中学生って、親に対してちょっと気恥ずかしい感覚があり、素直にそのことについてちゃんと謝ることは出来ませんでした。もう、今となってはそのような話をすることも無いでしょうが、私の心の中にも、母の心の中にも小さな棘として残っています。これは死ぬまでもち続けていくことでしょう。
そしてもう1度は、私が19才の頃に3Fの屋根から落ちて入院したとき。高さ8mからコンクリートの床に落下したわけだから下半身不随、悪ければ死んでいてもおかしくは無いのだが、40日の入院の末私は何事も無いかのごとく普通に退院し、学校を卒業し、就職した。結局なんと言うことは無かった。私はストレッチャーに乗せられ、救急救命室送りとなった。私が横たわるそばで母は泣いた。ちょうど車の運転免許を取りたての頃で、母はことあるごとに車で外出する際に「気をつけろ~」といつも行って心配していた。私が救急車で入院したと聞いたとき、母は交通事故だと勝手に思い込んでいたようだ。体は動かないが声だけは出る。さすがに「良かった」とは言わないが、何とか助かって話すことが出来る私の姿を見て、安堵したのだろう。
最後は3年位前。このことはあまり話をしたくはない。まだ私の心の中でくすぶっていて結論が出ない。その気になったとき、話をしたい。
最大の親不孝は親より子供が先に死んでしまうことだと人は言う。私の祖母は、自身が亡くなる前に息子を亡くした。亡くなった息子は私にとっては伯父にあたる。長い闘病の上、亡くなった。そのとき祖母は何を考えていたのか、今となってはわからない。ただ、心痛は大きかっただろう。ほとんどのことでは「へこたれない」根性を持つ祖母。戦争に行った夫を見送り、戦時中、戦後の苦しい生活を潜り抜けたとても強い人だった。祖母は元々病気持ちであったが、その後から容態は次第に悪くなっていった。
その姿を見て、私は母よりは生きねばと思った。今の私には4つの死ねない理由がある。その4つのために根性無しの私も何とか生きていられる。色々とつらいことが多いですけれどね。

「たわむれに母を背負いてそのあまり軽さに泣きて三歩あゆまず」

石川啄木が目を潤ませて立ち止まったように、誰しもがかつて大きかったはずの母親の存在を、小さく感じてしまう瞬間が来る。
大きくて、柔らかくて、あたたかだったものが、ちっちゃく、かさついて、ひんやり映る時がくる。
それは、母親が老いたからでも、子供が成長したからでもない。きっとそれは、子供のために愛情を吐き出し続けて、風船のようにしぼんでしまった女の人の姿だ。
五月にある人は言った。
どれだけ親孝行をしてあげたとしても、いずれ、きっと後悔するでしょう。あぁ、あれも、これも、してあげればよかったと。

(リリー・フランキー 東京タワー P.321より)

私が小学生の頃、母と一緒に風呂に入り「お母さんの胸って小さいね」と言った記憶がある。母は「お前たちにいっぱいお乳をあげたから、小さくなったんだよ」といい、私は「そっかー。」と言った。この一節を読みながら、そのことを思い出した。目が潤んだ。
私の母は家事に長けた人で、特に料理の腕はとてもいい。そして、やさしい人だ。いつも私や妹のことを何より気にかけていてくれる。もう、母のほうがいい年齢なのだから、もう少し自分のことを気にとめて欲しい。
いつのときだったか、私が東京に出た後の話だ。帰郷しているときに母は手術のために入院した。東京に戻る前に元気付けようと思ってお見舞いに行った。そのときも私のことばかりを心配する。車に気をつけてとか、ちゃんと食べなさいよとか。これじゃぁ、どっちの見舞いかわからない。少し話をして「手術、しんぱいしないでね。がんばってね」といい、私は病院を出ることにしたが、振り返るとずっと母は私に向かって手を振りながらこっちを見ている。私がエレベーターに乗り、見えなくなるまでずっと手を振っている。私は少しはずかしかった。だが、うれしかった。それほど大変な手術ではなかったのだが、母にとっては初めてのこと。不安はあっただろう。せめて退院するまでの期間くらい、私も母の支えになりたいと強く思った。東京の仕事はそれを許してくれない。仕事というのは厄介なものである。
私の叔母は言った。「夫と別れることができても、子供と別れることはできない」と。バカだって何だっていい。元気で居てくれることを何よりも望む。その気持ちが少しずつわかってきた。私は男だから、母にはなれない。でも、私の妻はそういう気持ちを持つことができる人である。それを家族として支えていきたいと思います。

まぁまず「読んでおけ」といいたいほど、私の心にはじ~んと来ました。この本。
あらすじを書くのはやめます。でも何も書かないと何の本なのかわからないので一行で
「とんでもない父親から離れ離れになって暮らす母と息子(作者である、リリーフランキー)。その3人と親戚、友達が織り成す母の死までの体験や思いが綴られた作品。」
一行と言うわりには長くなってしまったが、まぁそういう本なのです。少しでも興味を持ったら買ってください。損はしないと思います。
私にも両親がいます。私の地元である福島に、父母と妹の3人で暮らしています。私がその家を出て東京近辺に住むようになってから、かれこれ9年が経ちます。一人になってから、色々なことがありました。決してまじめに過ごしたわけでもなく、時々どうしようもないバカな遊びをしていたり、また時には死ぬほど悩んだりもしてました。今では正月、GW,お盆位に実家に帰り、久しぶりに話をします。実家に帰れば両親がいる。それが当たり前になっています。
私は金遣いが荒いほうで、本当にいつもお金がありません。あったらあっただけ使ってしまうんですね。そんなこともあり、中々親孝行らしいことができません。親孝行はお金だけではありませんが、色々としてあげたいと思うことはあり、それにはやはりお金を伴うことが多い。どうにかしなくては…そんなことを思いつつ、もう9年も経ってしまいました。今年の夏には子供が生まれる予定です。それが家を出た私からの最大の親孝行になるかなと思っています。
まだ子供は生まれていませんが、生まれる前から子供を育てるのは大変だという漠然とした感覚はあります。そう思うと、自分自身の両親はもちろん、世のお父さん、お母さんがとても偉大に思えます。
正直言うと、子供のことは私自身とても迷いました。生きることを放棄したいと思ったことがある私は「この世に生まれてるということにいったい何の意味があるのか?」という疑問をずっと持ち続けていました。厳密には今も良くわかりません。人によってまちまちでしょうが、今の私が過ごす時のうち、75%位は苦しい時間です。そういう思いをずっと繰り返していけばおかしくなってしまうでしょうし、実際におかしくなりました。ただ父母、妻を悲しませるようなことはとても嫌なので、今は自分の出来る範囲で生活をしています。
母は私が子供の頃からずっと同じようなことを言い続けています。いろいろなことに心配してくれます。「また言ってる」と自分の中では思っています。少しうざったいこともありますが、いつまでも心配していてくれているその思いから出る言葉なんだなと最近は思えるようになりました。
子を思う親の気持ちというのはどれほどのものなのでしょうか?私の母がずっと私のことを心配してくれているように。それを知るには子を育てるしかないのかなと思い、子供のことを決心しました。私はよい父になれるのでしょうか。正直言えば、少し心配です。

今日は「リスク化」について。
この本の大命題は「二極化」と「リスク化」のふたつにある。何が二極化とリスク化って?例えば仕事。いつ、首を切られるかわからない。仕事の不安があるとすると所得が不安定になる。所得の変動が大きくなれば生活にも影響するし、教育に対する投資額も、飲食物による健康被害も。「二極化」と「リスク化」が進んだ原因は非常にさまざまなな要素(社会環境、会社、学校、家庭生活…)にあり、まぁ詳細は勘弁して。
例えば、戦前のこと(江戸時代が最適かな?)。自分がどんな親から生まれてきたかということで、自分の一生がほぼ決まる。武士の長男ならば家を継ぎ、農家であれば土地を受け継いで農業に従事する。商人であれば店を継ぐ。つまり、自分がどうなるのか決まっており、ほぼそのとおりになった。他の仕事に就くなど考えられなかった。そもそもそういう発送が無かったのであろう。女性であればどこかに嫁ぎ、夫の生活を助ける。家を飛び出して異なる仕事をした人もいただろうが、そういうものは異端者として扱われ、それなりの苦労が待っていた。身分が違うということは、絶対的な差で、羨ましがったところで、士農工商の垣根を越えるということはできない。
反対に、戦後は実力があれば自分の好きな仕事に従事できるし、基本的に超えられない垣根は(理論上は)ない。従業員の教育から始まり次第にスキルが身についてくる。そうすると会社にとって大事な従業員ということで終身雇用は約束され、年功序列的に賃金が上がった。「私の人生はおそらくこうなるであろう」という予測ができた。これが高度成長化社会の雇用。万一、失業したとしても比較的受け入れる窓口も多かった。しかし、現在はリストラや会社の倒産をはじめとした要因で終身雇用は保証されない。実力を持つものが採用される。そうでないものは淘汰(表現が悪いけど)されていく。つまり、自身の生活における常にリスクを考えなければならない。そして、そのリスクヘッジが出来ないと救いようが無いところまで落ちる可能性も含んでいる。一度ホームレスに身を落とすことは簡単だろうが、ホームレスが社会復帰することはとても難しい。極端な例だが、納得いただけると思う。
リスクというものをずっと意識して仕事を続けるというのは、精神的に大きな負担である。家族がいる。子供がいる。それはリスクに対する重みとなってくる。失業したらどうしよう?家族を養えない…だから結婚しない。子供は作らない。独身者の増加と少子化問題は、全く持って理解できる話である。
昔の話は昔のこと。元に戻ることは無い。誰にでもチャンスがあるすばらしい世界だと感じる方もいるかと思うが、そういう考えを持てる強い人や有能な人はうらやましいなぁ。私のように平凡もしくはそれ以下の人はとても大変な世の中である。しかも、一度リスクとして想定される事を被ってしまうと、再起できるチャンスが非常に少なくなる。再起できない事実がわかった人が自暴自棄になったり、死にたいと思う気持ちは良くわかる。無差別殺人が起こることも私には理解可能だ。
誰が悪いと言えば、社会が悪い。しかし、社会を構成するのは我々だ。といって、個人が努力したところでどうにもなら無い社会問題。現実を知って慎重に行動するしかないのかしら?

一昨年に出た本で、いまさらという感じがしないでも無いが読んでみた。著者は山田昌弘氏。あの「パラサイトシングル」という言葉を作った社会学者である。読んだ感想があまりに大量なので、何回かに分けてレビュー。
変な本のタイトルだが、これは「人が生きていく上で持つ(持てる)希望の大きさに、これからはかなり格差ができますよ」というように解釈していただきたい。ざっくり読んだ上での印象は「最近のニュースを見ていて、なにかおかしい?何でこんなことがおきるの?と漠然と不安に感じているものを一気に活字にしてまとめてみました。」といったところ。なにかとりとめが無い…というかつかみようが無い感情があるとき、その感情に至った様々な要因を書いて関係するものの集合を作り、整理する。これをすると何が問題なのかということがだんだんとわかってくる。そこまでくれば、自分でどうするべきかということが次第にわかってくるし、第三者にも伝えやすくなるから相談もしやすい。だが、問題に対してあまりに自身が無力であったりすると、がっくりと来る。そういう意味でこの本、かなりがっくりとさせられる。読む前からうっすら感じてはいたのだけどね。
マイナスイメージを持つものに対して中々目を瞑れない損な性格(良く言えば好奇心旺盛)なもので、こういうものを読んでしまうのである。知らないほうが幸せなことってあるじゃないですか。何か根が暗いせいかなぁ?わかっていても突っ込んでしまう。全く困った性格である。

先日読んだ「失踪日記」にインスパイアされ、失踪ということにただならぬ興味を持ってしまい、ついでに購入してしまった本。1994/10に出版された本で、内容的には古さが否めない。インターネットもまだまだ一般化されていない時期の本である。時代を経たものだが、実際に探偵の生業のひとつとして失踪支援を行っていた作者の解説は実に面白かった。失踪期間に応じたその失踪プランというものがあり、そのために必要なものは何か、何をしてはいけないか、どのようなリスクがあるかということが非常にわかりやすく説明している。特にリスクについては勉強になった。失踪期間が長くなるにつれ、元の社会へ復帰することが困難になってくる。もちろん長期の失踪をする方は、そうした過去の社会への復帰を望まない人が多いわけだが、長期の失踪で最も堪えることは「寂しさ」らしい。借金取りに追われているとか、暴力や苦痛な日常から逃れた人であっても、自分を生んだ両親に合いたいという気持ちはどこかのこってしまわないか?
本の中にこんな事例があった。十数年失踪したが、死ぬ前にどうしても父母に会いたくなり実家に帰ったところ、家に鍵がかけられていて入ることができない。どこかに出かけているのだろうと思い玄関の前にござを敷いて一晩待ったが、冬のあまりに寒い日であったため、その人は凍死してしまった。せっかく戻ってきた家であったが、既に両親は他界されており合うことはできなかったのである。その上、本人まで凍死とは全く泣ける話である。
長期失踪の解説には違法行為が含まれているため(こうした書籍が出版されたこと、時代が過ぎたことにより、これらと同じ方法で失踪するのは現在では難しいと思うが)内容的に抵抗を感じるものの、意外と簡単に失踪できることがわかった。ケーススタディが豊富で、失踪する気が無い人でも楽しめる本である。
この本より少し前に「完全自殺マニュアル」という本が出ていたが、失踪は自殺に比べればまだポジティブな判断であるように思う。何かに行き詰まったときを、打破するひとつの方法としてこういったものがあるということを知るということは、実際に失踪しないにしてもなんとなく安心感を感じる。行き詰ったときの人生のやり直しとしての失踪は、決して後ろ向きなことではないと思う。でも、そういう羽目になる前にどうにかできればよいにこしたことはない。

最近、失踪ということに強い興味を覚えている。全く知らない世界にふらっと行ってしまう。すべてを捨てて。失踪は死ぬよりはだいぶマシだと思う。生きていくわけだから色々と大変だろうが、本当の意味でやり直すことができるかもしれない。
といって私が失踪するかというと、しない。ちょっと憧れもあるけど家族や周りの人に多大な迷惑を与えてしまう。私の場合、結婚しているし子供ができるからなおさらそうだ。とてもできない。
そんなことを考えていたら、この本に出会った。失踪日記。吾妻ひでおという漫画家が実際に失踪したり(二度も…)アル中で精神病院に入れられたときの話が書かれている。漫画で丸いタッチの絵が多いせいかそれほど悲惨そうには見えないのだが、実際結構つらい(さいとうたかをのような劇画タッチでシリアスに書かれていたらつらいなぁ)。だからというわけではないが、失踪したい気分のときに読むと「あ~、もう少しやってみますか」という気分になる。現在かなり精神的につらい状態に陥っているが、この本のおかげもあってか平常を保っている。完全自殺マニュアルもそうなんだけど、ある程度知るということは予防効果があるように感じる。完全失踪マニュアルという本も自殺マニュアルがはやっていた頃に出ていたように記憶している。読んでみようかな。

2009年6月

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