の最近のブログ記事

二年前に録画してパソコンで再生できるようにフォーマットを変換したものの、なんとなくサーバのHDDの中にそのまま放置していた。Eee PCで動画を再生できる環境を構築したので、寝転がりながら見ている。面白いなぁ、このアニメ。アニメを見るのはかなり久しぶり。

原作は久米田康治が「週間少年マガジン」で連載している『さよなら絶望先生』である。
何事もネガティブに捉えてしまう高校教師「糸色望(いとしきのぞむ)」と、糸色望が担当する「2のへ組」の個性的な生徒達との何ともいえないやり取りがメイン。1話につき、生徒1人を深く紹介するように話は進んでいく。
話自体も面白いが、黒板や掲示板に張られている紙の落書きが何とも面白くて仕方が無い。さらに、深夜アニメなので微妙にエッチだったりする(原作はこんなものではすまないらしいが)。何だか原作も面白そうである。買ってしまおうかな~。アニメを全部見終わったら。

今、息子の中でものすごいブームな本。読め読めとせがんで来る。

私の実家では昔、シベリアンハスキーを飼っていた。この本を読むと、その犬のことを思い出さずにはいられない。

本の内容はハスキー犬の視点から、飼い主のゆうた君(本の中では「おまえ」と呼ばれる)と自分のことを比較するという内容である。
 「おまえ すぐ なく」
 「おれ がまん する」
というように語呂が似た文章で俺とお前を比べる。そしてそれぞれの様子が絵で文章の下に描かれている。

この絵本の最後は
 「おれとおまえ ぜんぜんちがう。
  だけどすき。だからともだち。」
という文で締めくくられるのだが、ハッとさせられる。
違うことを認め合うこと、そしてそれを許容すること。それが大切だね。(妖精の三信調になってしまった...)

シンプルだからこそ、心に響く。
絵本の良さをまた実感させられました。


恥の多い生涯を送って来ました。

人間失格 第一の手記より

あまりに難解で二度三度と読んだ本はいくつかある。哲学書などはそんな感じである。
しかし、内容が理解できているにもかかわらず三度読んだ本はあまりない。その中の一冊がこの人間失格である。

初めて読んだのは16か17歳の頃だった。私はこの最初の文章を読んで背筋が震える思いをし、そして全くもって「恥の多い生涯」そのものだと思った。あの頃、私の中の「恥」という言葉の定義は今の私の考えとは違っていたように思う。どちらかといえば客観的な、外面から見られ言われる「恥」ということに目を奪われていた。いろんなものをさらけ出して平気な顔をしていられる年長者に対する絶望的な意味合いと、自分自身が生きながら犯していった「恥」というものが入り混じり、嫌悪感を覚えた。私は太宰自身と言われているこの主人公を軽蔑した。歳をとるということ、それとその時間的経過に合わせて自分が経験していく「恥」というものの恐怖に大きく慄いたのである。

そして次に読んだのは25歳の頃。ちょうど入院していた時で、その病院の書棚にこの本があり再び手に取った。自分対する絶望に打ちひしがれていた頃で、半ばやけになって生きていた自分のことを、この本を読むことによって「ちょっと頼もしくなったのかねぇ」と感じた。多面的な感情を持ち、道化のように社会的役割を演じながら生きることに疑問を持ち、だけどその疑問に抗うこともできない。その無力さを嘲笑うことしかできなかった。その嘲笑う自分を認めてくれた本だった。本書の主人公よりはマシだと思った。そんな程度の低い思いもその頃の私には必要なものだった。

そして三度、私はこの本を手に取った。
虚無感にさいなまれて仕方が無いのが今の私である。何をしても自分の中にある客観的な視点が自分自身を監視しているようで、「恥」という概念もどちらかといえば内から湧き出してくる、つまり自分が恥だと思うことが恥であり、人が恥だと言おうと自分がそう思わないことは恥だと思わなくなってきた。ただその「恥」というもの基準が些か緩くなってきているようなのだ。ぶっちゃけていうと、どうでも良くなってきた。
ということを書いてみたものの、実際はいろんなことを気にしている。恥ずかしいと思っている。自分は随分と罪深いとも思っている。人に「あなたは恥ずかしい」と糾弾されるよりも、「自分は恥ずかしい」と気がついて悶えるほうが苦しいものだと思う。しかし、この虚無感...罪深いと思いながらも、そんなものは一瞬の出来事であり何の意味も持たないのではないか?気にするな。お前以外は誰も恥ずかしいなどとは思ってはいないと言い聞かせている自分がいる。そしてむしろ、この主人公のようなその場限りの後先追わぬ生き方というものに妙な憧れを感じてしまう。
つまり、葛藤の真っ最中なのである。

人間失格は、読む自分自身を写し出す鏡だと私は思う。
まだ生き続けていくのならば、この本を手に取る四度目というのがありそうな気がする。そのとき、私はこの鏡から何を見るのだろうか?

 人間の頭の半分はおおよそつねにニヒリズムに冒されていると知っておくことが大切であろう。というのも、自意識とは、「自分は何者か」と問う意識のことであり、仮にひとまずその問いに答えが与えられたとしても、その答えの意味をさらに問うというふうに、自意識は進むからである。この問答の過程は、論理的には無限に続きうる。つまり、自意識の歩みには安住できる終着点のようなものはないのであり、そしてその「不安」がすでにニヒリズムの温床なのである。正確にはその不安はイズム、つまり「固定観念」にはまだなってはいない。しかし、論理的には無限に続く「みずからへの問い」に終止符を打ってくれるのは、「みずからの死」のみである。このような人間存在の冷厳な真実から少しでも目を逸らすと、ニヒリズムが待っていたとばかりに自意識を襲う。その意味で人間の精神の玄関にはいつもニヒリズムと言う訪問者がいるということになる。
 そのことにニーチェがあれほど注意を促してくれたにもかかわらず、今世紀の特に後半、普通「ヒューマニズム」とよばれる人間性の礼賛がさかんに行われた。もう少し正確にいえば、それを礼賛する素振りが固定され、そのために、ニヒリズムを人間精神の奥座敷にまでひそかに案内することになってしまったのだ。もとより、それを追い払う力量が私にあるわけはない。しかし、ニヒリズムにたいして、貴殿には玄関先まで退却していただきたいと正面きって申し渡すこと、せめてそれくらいのことをやらなければ、自分の精神が生きながらにして錆びついてしまうのではないかと、自意識のあるものは、不安になるのである。

本書序章「虚無について」より


西部先生の本を読むのはずいぶんと久しぶりである。保守論者として知られる西部先生の本を読んでいると「右な人ですね?」というレッテルをいきなり張られたりするわけだが、彼は保守は保守でも反米保守派としての考えを持っていおり、その点においていわゆる親米保守派と袂を分かっている(右とか左とかそういうデジタルな切り方だけで思想は表現しきれるものではない)。またジェネラリストとして多岐に渡る知識から生み出される、多種多様な書物には少なからず影響を受けつつ生きてきていると思う。

先日のブログにも書いたのだが、私にとっていま最大の課題とはニヒリズムに関する問題である。この問題にぶつかるや否や、もうすべてのものがどうでもよくなってきてしまう。死に向かってこのような世界を生きていく中で、ニヒリズム・虚無感との対決は避けることができない問題である。人の一生は短い。その短い時間の中で私は一体何をするべきなのか?退屈に仕事をこなし、趣味に享楽的に生きる。それだけなのか?
心から人や社会を思い、それを何とかして表現・実現しようとしている人たちが少なからず存在している。彼らとて私とさほど違わない時間しか与えられていないというのに、なぜそのようなことに邁進できるのだろうか?私は西部邁という人にその意見を求めようとした。西部先生ほどに著作を残し、世に言いたい放題してきた人物がこの点について考えたことが無いとはとても思えなかったからである。それがまとめられているのがまさにこの本である。

このニヒリズムとの関連性が少なからずみられるものの一つに、物事の判断基準への曖昧性(本書内では存在に関する曖昧性を「真理相対主義」、当為に関するものを「価値相対主義」と称している)がある。生き続けていくというのは様々な判断の連続であるが、判断の根拠とされる考え方はその判断をする人の立場によって大いに違いがある。そのことを出来る限り理解し、他者の意見と自分の意見の中で判断を下さなければならない。しかし、その考慮・比較という行為を慎重に行っていくと判断のための唯一絶対的基準と言うものが存在しないことに気づく。その中で「もがきつつ」最大限の配慮を持って判断すべき努力を怠ってはならないと私は思うが(私ができるだけ実践しようと日々努力している「一歩引いて見る」というのもその一環である)、真理相対主義者や価値相対主義者は他者を「ニヒル」に切り捨て自己の意見のみを絶対視するという、不感症な態度をとる。そういう人が結果的に世の中を引っ張るような状況にあるのがまさに今であるように思えるが、どこまで「一歩引いて見てみる」ことをするべきなのか、そのバランス感覚(逆に真の自分の言葉を発せられなくなっては元も子もない)の難しさと言うものを日々感じている。その引くことに順応されすぎると、よくわからない世論と言う無責任なものを判断基準としなくてはならなくなってしまう。これは個人の思想を奪う危険なものでもある。

この本にはもっともっと多くの問題提起がされている。ある点においては具体的な解決策を提示しているものもあるが、結論は人の意見に頼るべきではないと私は考える。ただ、そのも提起された問題について考えるきっかけとして、そしてそれを構成する歴史的、社会的な構造を見るうえでは実に有用な本だと思う。
でも、そういうことに悩みたくない人には絶対にお勧めしません。私は本書のおかげで悩みが増えました(笑)


ところで、私は自分の生死についてあまりに明確な答えを返せる人をどうも信用できない。だが、西部先生の死生観というのは実に謙虚でユーモアにあふれている。最後にそれを紹介したい。

私の念じるのは、評論家として、次のように思いつつそして死ぬことだけである。
つまり、この人の世にあるのは言葉だけであり、自分という極微の存在は、過去のあまりにも巨大な言葉の集積のうちほんの局所を受け継ぎ、そしてそれにごく僅少の加工をほどこして、死とともに、それを何処の誰とも知れぬ人に手渡す(素振をする)、私の生死の意味はそのことに尽きると思っている。

Amazonより中島先生の新刊が出たとのメールが届いたので、amazonでは買わずに(だって送料高いんだもん)会社近くの本屋さんで購入。この面白そうなタイトルにつられて、中身をほとんど見ずに購入した。

で、読み始めて「あれ?どこかで読んだことがあるような...」と思ったら、所持している中島先生の『どうせ死んでしまう... 私は哲学病。』のタイトルと出版社を変えて出したものだった...。同じ本が我が家に二冊...でも、著者が今年書いた後書と解説が追加されている。安かったものだし、まぁいいか。

内容は表題のものだけではなく、中島先生が散文的に書いた短い作品の寄せ集め的なものになっている。個人的には徹底的にこの本の題名となっている内容について言及して欲しかったのだが。

amazonの本書紹介文を引用させてもらおう。

所詮人生は、理不尽で虚しい。いかなる人生を営もうと、その後には「死」が待っている。「どうせ死んでしまう」という絶対的な虚無を前にしながら、なぜ私たちは自ら死んではならないのか?生きることの虚しさを徹底的に見つめ、それをバネにたくましく豊かに生きる道を指南する、刮目の人生論。無気力感に苛まれる時、自分に絶望し苦悩する時の必携本。

今の私にとって、最大の問題といっても差し支えないほどの問題、それがニヒリズム、虚無感である。ある瞬間瞬間、何かに集中しているとき(そういう時間そのものも随分と最近は減ってしまったのだが)を除けば、過去を見直したり将来を思ったりしてもただひたすらむなしいだけに過ぎなく感じられてしまう。あっという間にやってくる死という誰にもかわすことが出来ない現実、そしてその人が存在したという事実すらほんの少しの時間しか残らず、それがどれほどの時間なのか自分で知ることすら出来ないのである。生きているというのはどういうことなのだろう?何のためなのだろう?それに意味を見出すことが出来ないのならば生きることを止めてしまうのも一つの選択肢であると私は思っている。
私のこの思いは、例えば人生の何らかの選択や実行に失敗したときにやってくるだけではなく、日々、笑っても酒を飲んでも何をしていても頭をよぎる。もう一過性の問題ではなく、ずっとこのことを意識しながら生きていかなくてはならないのだと、心の中で思っている。多くの過去の賢人達がこの問題に全力で取り組んだのできた。人間は唯一、自分の存在というものに対して疑うことができる生き物だからだ。ハイデガーは「現存在」や「実存」という言葉でこの認識について超越した意見を述べたが、私は未だにその自分の存在すら揺らぐような思いをすることがある。

今の私は、過去の賢人達と書物というものを通じて対話し、その思いと自分の思いをぶつけ、考えながら生きることを生きがいとしている。他の全ての作業は、振り返ってみてみれば全て「壮大なる暇つぶし」に過ぎない。しかし暇つぶしばかりしているわけにもいかないのだ。
悪い頭を振り絞って、自分なりに「生きる」ということを考えながら生き続けるしかないようである。

開口部を完璧に閉ざされたダッソー家で、厳重に施錠され、監視下にあった部屋で滞在客の死体が発見される。現場に遺されていたナチス親衛隊の短剣と死体の謎を追ううちに三十年前の三重密室殺人事件が浮かび上がる。現象学的本質直感によって密室ばかりか、その背後の「死の哲学」の謎をも解き明かしていく矢吹駆。二十世紀最高のミステリー。

amazon.co.jp 本書紹介文より


良くわからない超人的な日本人青年「矢吹駆」が活躍する推理小説の4作目。ちなみに私は他の作品を全く読んでいません(笑)。そういう関係上なのか、この矢吹駆という人物がどうも好きになれず。常人の理解を超えた推理をして一人納得するようなヒーローが活躍するよりも、読者と同じような視点で迷い、戸惑うようなキャラクターを愛してしまう私向きではなかったのかもしれない。矢吹駆をヒーロー的に扱うためか、他の登場人物による推理があまりに稚拙というか無理やりで何だか苦しくなってきてしまう。

そんな私がこの小説に興味を持ったのは、作品の登場人物の中に「マルティン・ハルバッハ」という人物が居ること。彼の主な著書は「実存と時間」(笑)。もうおわかりでしょう。ハルバッハのモデルは「マルティン・ハイデガー」。ハイデガーの代表的書籍といえば「存在と時間」。そしてこの本の中で「実存」というものに現象学の手法を使って近づいている。ハイデガーによる「存在への問い」は、私の「自己の存在」に対する考え方に非常に影響を与えてくれた。

もちろん、ハルバッハがハイデガーの主張と全く同じなわけではない。それは物語を読み進めるにつれて明らかになっていく。

人間を生存本能の奴隷以上のものたらしめるのは、避けることの出来ない死の可能性を凝視し、その運命を先取りし、あえて宿命に忠実であろうとする実存的な意志である。

第一次大戦の経験がもたらした死の無意味性から、何とか意味ある死を救出しようとして、ハルバッハは死の哲学を考案した。それなのに彼の哲学は、さらに大量な無意味な死に帰結したんだ。

ハルバッハは、死を先駆し意味あるものと見据えよと「死の哲学」を提唱する。この考えが物語全体に横たわっている。私は本書を読んだ後もこのハルバッハの考えには結構肯定的である。英雄的な死、特権的な死。しかしそれを望み叶えても、その知覚を最も望んでいるであろう本人はこの世に存在しない。それでも見極めたい、平凡なまま死にたくはないと夢想する。

画然とした死ではない曖昧な死。人生の意味を残らず、一瞬にして照らし出すような特権的な死ではない、たんに人間を廃棄物に転化するに過ぎないような死。だらしのない、惨めきわまりない死。それを見すえ、その事態を心から承認し、それを肯定できないとしたら、人間は自分を肯定することなんかできはしない。

そして第二次世界大戦。近代兵器による大量殺戮による死。ホロコーストによる大量の死。それらを目の当たりにし、ハルバッハ自身も死の哲学という考えから怯む。結果として本書では特権的な死というものを否定している。
しかし、何をしても空虚であるというニヒリズム漬け状態の私には中々響かない意見だ。人が生きられる時間は実にわずかなものであり、その人が存在したことが明らかになっている期間とて、わずかなものなのだ。私は死を先駆するということを考えると、三島由紀夫のことを思い出さずにはいられない。確かに三島由紀夫なる人物の存在を知る人は、他の名も知れぬ人の存在を知るものよりも多く、その時間も期間も長かろう。だがその長さとて、地球や宇宙という規模の時間の中ではわずかなものである。
それでも特権的な死を私は求めてしまう。平凡な世の中から離れたいと思い、自分の死がどのようにあるべきかを考えてしまう。考えたところで、それが実現できないのだが。

自殺者はその行為によって、最終的な自由に他ならない私の死を得ようとしながら、それに失敗する。死んだのはもはや私ではない。

そう...そうなんだけどね。


訴えかけるものが納得できるかどうかは別として、展開は非常に面白く、30年前の密室殺人との相似性などとても面白く読むことができた。あるときはモガール警視の視点で、あるときはナディアの視点で、そして30年前のヴェルナーの視点で...いろいろな視点から状況は語られる。立場が異なればその言葉も異なる。こうした書かれ方が私はとても好きだ。

この本において一番問題なのは本の厚さかも。4.5cmの厚さがあり、読み終えるまでに相当な時間を要した。持ち運びもわりと大変(笑)。まぁ、それだけの甲斐はあったと思うが。


写真はアウシュビッツ駅から800メートルのビルケナウに貨車で到着したユダヤ人たち。アウシュビッツの第二収容所いうべきビルケナウ収容所の中には「ランぺ」(荷役ホーム)お呼ばれる引き込み線の到着ホームがあった。


『夜』は、その恐ろしさで我々を戦慄させ、同時にその美しさで我々を打つ。これは15歳の少年の時にアウシュビッツを体験した著者の最初の自伝小説である。
東方の片田舎の小さな町、ナチスのユダヤ人狩りなど想像もつかぬ平和な町。だが、ある日悲劇が音もなく訪れる。やがて一夜にしてこの世は地獄と化し、少年の中で神が死んだ。格調高い文体と淡々とした語り口によって、人間の悲惨な崇高がみごとに織りなされる。刊行されるや、たちまち世界中に翻訳された比類ないドキュメンタリー小説。アメリカで1966年度ユダヤ人図書賞を受けた。
「この並外れた書物が私の心をとらえて放さなかったのは、すべての結果のうちでも最悪のもの...すなわち、一挙に絶対の悪を発見した子の幼い魂の中で神が死んだ、ということなのである。」(F.モーリヤック)

本書裏表紙より


この日本と言う国に生きる私は、特定の宗教を信仰しているわけではない。これは世界的に見ると比較的珍しいことのようで、人の行動規範や道徳性の基盤は宗教によって支えられているという場合が多数を占めている。となれば、私のような人間の道徳基盤がどこにあるのかと言うことになるが、それは周囲との関係や伝統、歴史というものが構成しているとでも答えるほかはない。実に微妙な状況の中で自分が生きてきたということにあらためて気付かせられる。

本書の主人公エリエゼルは多くのユダヤ人がそうであるように、敬虔なユダヤ教信者であった。彼はビルケナウへ強制移送されたときも、「男は左!女は右!」の一言で母や姉や妹がガス室送りとなり一生の別れとなった時も神を信じ続ける。しかし、我々を創造し、我々を苦難から救ってくれる神はどれだけ祈ろうともこの強制収容所には手をのばしてはくれない。そんな中、エリエゼルの心の中でじわじわと生まれる神への信頼の揺らぎ...それが何よりも私には印象に残った。
エリエゼルは焼却炉にトラック一台分の生きた子供たちが投げ込まれる様子を見たときの様子をこう書き表している。
「私の<信仰>を永久に焼き尽くしてしまったこれらの焔のことを、決して私は忘れないであろう。」

私は深い信仰と言うものを知らない。ただ、それが私が持っている社会を生きるための道徳基盤と置き換えて考えてみると...全てが、生まれてから疑うことのなかった全てが逆行していくような感覚?それは体験のない私には正直、表現いや、想像すらできない。


第一次世界大戦末期のドイツ革命によりドイツ帝国は皇帝カイザーの亡命・退位、崩壊する。後に興るヴァイマール共和国は敗戦からの復興を順調に進めることはできず、世界恐慌がさらなる経済危機をもたらした。そんな中、ヒトラーはヴァイマール憲法を全権委任法をもって事実上崩壊させ、独裁体制を引いた。ヒトラーはアーリア人の優秀さを強調、他民族の排斥を開始しユダヤ人の大量虐殺に至る。それが時系列の歴史である。
私は歴史を後の価値観で裁くことは大いなる過ちであると考えている。その当時の情勢を的確に把握した上で顧みるべきことであろう。顧みるにあたり、こうした「当時を生きた一人の人間の視点」と言うのは非常に重要な資料である。第一次世界大戦という試練の後のドイツも、そしてユダヤ人たちにとっても、私たちの祖先にしても、その時代をどう生きたのか、もっと知るべきことは多くあるように思う。

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑い転げ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追及したカミュの代表作。

本書裏表紙より



人が社会で生きていくためには、自分がある役割を演じることを強要される。その演じる内容は国や地方によって多少の違いはあるにせよ「演じる」という行為そのものはどの社会でも必要とされる。演じることとは自分に対して「嘘をつく」ということに同義だと思う。
この作品の主人公ムルソーはこうした「演じる」ことを拒否した。だから、社会は彼を同じ国の大衆として認めない。彼は大衆から見て「異邦人」なのである。そしてムルソーが「演じる」ことをしない限り、どの社会の大衆から見ても彼はずっと「異邦人」のままであろう。

その反面、彼は自分が好むものに対しては非常に積極的でもある。しかし、深刻な問題に対して「どうでもいい」という態度を崩さない。彼は自分自身というものに無関心なのである。ニーチェ風に言えば、ムルソーは典型的な「受動的ニヒリスト」というところだろうか。
ふとしたことからムルソーは人を殺すことになる。そしてこの国の宗教はキリスト教で、裁判は陪審員制だ。つまりキリスト教的な大衆規範によってムルソーは裁かれることとなる。弁護士はムルソーが有利となるために積極的に働きかけるが、それすらムルソー自身にとっては「どうでもいい」ことなのだ。半ば被告人不在のような状況で検事と弁護士は法廷で戦い、結果彼は死刑となる。斬首刑である。
死刑確定後、ムルソーの元に幾度となく司祭がやってくる。その司祭とのやり取りが私は本書の最大の読みどころであると思う。考えさせられることはたくさんある。

一つ、考えたことを明らかにしたい。それは「社会常識」というものについてである。私は「常識」という言葉を御旗のように掲げて話をされることをとても嫌っている。常識というものが非常に揺るぎやすい存在であるということを認識せず(国家、宗教、文化といった状況が変わればあっという間に変化するものである)、ただ思考を停止してそれを元に話すのは一種の暴力である。
さしあたり私もこの日本で生きていくため、大衆に迎合した存在にすぎない。しかし宗教的、国家的な思想の拘束が少なく、色々なことを(場所次第では)論ずることが出来る日本という国は比較的健全だと思う。ただ、その健全さを活かさないことが多すぎる点が少々もったいないと思う。

カントの著書『純粋理性批判』、『実践理論批判』、『判断力批判』などを読んで批判哲学(コペルクニス的転回)を生み出たイマヌエル・カントという人間とは一体どういう人なのか、本当に不思議になってくる。「人間の根本悪」、「道徳的とはどういうことか?」考えさせられるテーマは山のように提示しながら、彼自身はこれら学説とどのように向かっていったのか?私が哲学を離れたカントという人から聞く話は「毎日同じ時間に散歩に出かけるため、周囲のみんなの時計代わりになった」とか、「客人を自宅に招いてよく会食をした」とか、そういう話ばかりである。

まぁ、時間概念の確立に重要な役割をカントは果たしているので、この時計の代わりになったという逸話は自説とリンクしているのかもしれない。カントは人間の認識能力の基礎を追及し続けた哲学者で、時間と空間の主観的形式だけは絶対に不可欠であると考えた。これが「絶対時間」、「絶対空間」と呼ばれる考え方で、こう宣言している
『時間は一切の直感の根底に存する必然的現象である(純粋理性批判より)』
つまり、時間という先験的な直感がなければ、そのそも人間は、世界を認識することさえできないと考えたのである。

少し、細かな話に入りすぎてしまった。
勝手な私の願いなのだが、哲学者というものは実生活であっても狂人的であってほしいと思っている。自らが提唱する学説を実践しながら生きている(大体そういうことを本当にすると狂人になる)ものだと勝手に思っていたのだが、カントは80年も生きているのである。死因は身体衰弱と老人性痴呆。この時代としては大変恵まれている方ではないだろうか?キルケゴールはデンマーク教会の改革を求めた教会闘争最中に道ばたで倒れて、その後死んだ。ニーチェは発狂し、最後は肺炎で死んだ。こういうのが哲学者の理想的な死に方(勝手に言わせてもらってます。すいませんねぇ)だと思うのだが、カントは後に残した影響に対して、その人生があまりに淡々としているように思えてならないのである。

というわけで、カントという「人間」に迫った本が読みたくなった。私はカントの「道徳的とは何か?」という考えに大変感銘を受けて、実はこの生きにくい世の中を何とか生きていこうという気になったのである。そこで、私の書評ではおなじみの中島義道先生の「カントの人間学」を早速手にとってみることにした。すいませんねぇ、また中島先生で。他の人の本も読んでいるのだが、書評を書くという気にまではなかなかなれないのである。

さて、「根本悪」や「道徳的とは」ということに論じていると、きっと今日の記事はすさまじく長くなり、私の精神力が持たなくなってしまうし、読む人も辛くなってきてしまうのでその辺については後日詳しく意見を述べたいと考えているのだが、一気に総論を述べると、そうした哲学的理想と現実的考えをかなり内包した人物であるということが分かってきた。どうも私は「女性との接点が少なく一生独身であった」とか、「清貧に徹した人物であった」とか「小男ながらも思想は崇高で清潔な哲人」といったイメージを勝手に持っていたわけである。しかし、この本を読んで、逆にそのような人間では理想と現実(たとえば、形而上学の基礎付けや道徳法則の演繹を徹底的に行いながら、おむつはなぜ害があるのかを真剣に論じるなど)を非常にリアルに見ていた。またカントは地上の永久平和を論じながらも、永久平和は墓の中だけで実現されるとみなしていた。つまり、表面的な不整合性をものともしないような懐の深さをもつ人物であるということに、この本の中の数々の例を読むにつれて理解していくことができた。(とは言いつつも、持論に対する反論には徹底的に戦ったりと、意外と器量が小さい面もあるなぁと思わされるのが、カントを人間としてみなすうえでは救いである)

この本はどちらかというと「あまりに偉大なるイメージがある(イメージが作られてしまった?)」カントを少々人間臭くあつかい、貶めている感も否めないが、人は神ではなく、そして、その自分の持ちうる状況を最大限に生かし、考え、それを表現していったという現実の方が「人間のする哲学」らしいし、きっと私の心に届く何かもなかったのかもしれない。
惜しむらくは、死の床に際して著書となり得なかったカントの断片的メモ類である。彼に時間があれば、これらはどのような花を咲かせたのだろうか?

カントの著書を読んでない方でも伝記のように楽しめるし、何らかの著作を読んでいれば、そのギャップというか、どういう生活の中から思想が生まれてきたのを考えることができ、より楽しめるのではないかと思う。それほど重い本ではないので、ぜひご一読をお勧めしたい。

なぜ日本人は「汚い街」と「地獄のような騒音」に鈍感なのか?
我々は美に敏感な国民である。欧米人に比べても、心づかいが細やかで洗練されている――。しかし、いや、だからこそ、この国には騒音が怖ろしいほど溢れかえり、都市や田舎の景観は限りなく醜悪なのだ!「心地よさ」や「気配り」「他人を思いやる心」など、日本人の美徳に潜むグロテスクな感情を暴き、おしつけがましい「優しさ」と戦う反・日本文化論。

本書 帯より


私の出身地は福島県福島市である。
高村光太郎の妻、千恵子は「東京には空がない。」と言っていた。彼女にとっての本当の空とは、生誕した福島県二本松町(現在の二本松市)の、安達太良山が見える空だという。二本松市は福島市の隣だ。二本松市まで行って、私は空を眺める。そして私は思う。
 「おい、電線だらけじゃないか!」

本書は以前書評を書いた『うるさい日本の私』と『「うるさい日本」を哲学する』の間の時期に発刊された本である。先に紹介した二作は日本中を取り巻く騒音に対する内容が中心であったが、本書では日本固有の都市景観や美的感覚、日本的サービスについて言及している。

中島義道先生は、間違いなく現代日本におけるマイノリティである。ありとあらゆる「普通の人」がなんとも思わないことに日々、苦しんでいる。しかし、ほかのマイノリティと明らかに違う点が一つある。それは、表現する手段を持っているということである。
中島先生が上記の本を含めて強く主張し続けていること、それは「この日本で生きているのはマジョリティだけではない。マジョリティがなんとも思わないことに悩み続けているマイノリティが少なからず存在することを忘れずに、安易に物事を決めてくれるな」ということである。色々な人がいる。だからそれぞれの人々の感覚を許容する...そう「感受性の共生ができる社会」を目指したいという思いが随所から読み取れる。
だから本書でも「日本のマジョリティはなんとも思わないこういう事態は、いったいなぜ起きるんだ?」という点を、日本と他国、現代と近代・古代といった様々な軸を持って説明している。だが、この本の本来の目的を見誤ると「変人大学先生の変人紀行」にしかならない。おそらくamazonあたりで星ひとつをつけている人たちは、そうした表層的な面しか読み取れなかったのではないかと思う。これらは真意を伝えるための例に過ぎない。


まずはその例たる、目次を紹介しよう。

  1. ゴミ溜めのような街
  2. 欲望自然主義
  3. 奴隷的サービス
  4. 言葉を信じない文化
  5. 醜と不快の哲学

1~2章は日本の都市景観を中心に語られている。
特に声高に主張されているのは、日本の空を覆い尽くす電線と電柱の存在である。こうした景観に対して何の疑問を持たない人(マジョリティ)と、「こんな景観おかしいでしょう?」と訴え続けてきた中島先生の行動が記載されている。

私はバウハウスにインスパイアされたような造形物が非常に好きで、とくにモダニズム建築の家にはいつか住んでみたいと思っている。あの開放的な空間(特に窓。日照時間が短いドイツならではの工夫なのだろうか?)、機能とデザインが調和した(いや、最も機能的なものはデザイン的にも優れている)という合理的な考え方がとても好きなのである。
都心の高級住宅街を歩いていると、そんな建物に出会うことがある。日本人の美的感覚も捨てたものではないと思う。庭もよく手入れされている家が多い(我が家は微妙だが...)。
そして、東京や横浜のウォーターフロントの景観の美しさといったらない。ベイブリッジの光を見ながらドライブしているときなどは、こうした美しい景観を作れる日本人のセンスの良さは驚くばかりである。

私は就職活動等のために上京してきた19才の頃、東京の繁華街という洗礼を受けた。新宿歌舞伎町の電飾と音と人とゴミだらけの道路に驚かされた。同様に、上野や神田や秋葉原でも同じような衝撃を受け、こういうゴミ溜めのような街には居たく無いし、住みたくないと思った。
なぜ、自分の家はあれほどこぎれいにでき、美しいウォーターフロントの景観を作れる人たちがたくさん居るというのに、ちょっと繁華街に出ただけでなんでこんな風になってしまうのだろうか?
店レベルでいえば、あまりに典型的なので挙げさせてもらうとドンキホーテである。統一性がなく、商品を探しにくい陳列。人と人がすれ違うことすら難しいほどに商品が店内を埋め尽くしている。あの店なら、火事で死人が出るのも良くわかるというものである。おいてある商品も低俗なものと、比較的高価のブランド物が混在している(といっても、本当に一流のものはこのような店に卸されないから、街でよく見かけるような商品が多い)。少なくとも、この店でブランド品を買いたいとは微塵も思わない。究極のカオス店だと思う。私はこの店に居ると具合が悪くなってくる。しかし、私の住む近くに店舗が増えたりしているのである。つまり、多くの人々はこういうカオス状態に嫌悪感を抱かないのだろう。
茶の湯の侘び寂び、東山文化の代表とされる銀閣寺のようなものを愛する感性をも持ち、自宅はこぎれいにすることができる日本人が、なぜあのような街や店で買い物が出来るのか、不思議でならない。

そこで筆者は、欲望自然主義という言葉でこの日本人の不思議な行動を説明している。その点を引用してみよう。


欲望自然主義とは、その欲望の歯止めのない大きさを意味するのではなく(その点にかけてなら、欧米列強の欲望の方が桁違いに大きい)、欲望の様態を特徴付けるのだ。日本人にとって「自然」とはある決まった領域ではなく、そこにはいかなる限界も無い。まさに人間のなすこと全てが自然なのである。(中略)欧米人は美を実現する際に徹底的に「醜」を排除しようとするが、日本人はそうではない。「美」のすぐそばに「醜」があっても、それほど気にしないのだ。「醜」が「美」と共存していても目障り・耳障りではないのである。こうして、京都に典型的であるように、清涼な寺院の庭園が原色の看板に埋もれ、電柱が林立し、頭上では電線がとぐろを巻き、それにスピーカーががなりたてているゴミ溜めのような街と自然に共存していることになる


つまり、(マジョリティ的)日本人の特殊性としてその景観に一貫性を持たない(そういう意味での自由)ことができると解釈している。まぁ、この辺は正直、私の疑問が解けたわけではないが、自分の事実認識とさほど異なってはいないので納得できる話である。


3章の「奴隷的サービス」と4章の「言葉を信じない文化」では、日本的サービスの特殊性について語っている。

私たちが店で何かを購入する場合、その商品と、商品に対する対価(お金)をもって取引をしているわけだから、この点において、売る側と買う側の力関係は同等な筈である。
しかし、日本と言う国において提供されるサービスは非常にお客に対して謙ったものであり、そしてサービスを受ける側の客もそれを当り前だと考えている。ちょっとにわかには信じられないような要求をする客もいるし、そうした客に対応すべく、恐ろしいほどの対応マニュアルを用意してサービスを提供する側は待ち構えていたりする(特に公共交通機関やホテルでは非常に徹底している)。
そして、この王様のような客と奴隷的なサービス提供者の関係が成り立つとき、王様(客)は個性や人間味をすっかり洗い流して思いっきり匿名的な存在に留まろうとする。
例えばタクシーでのやり取り。ほとんどの日本人客はタクシーに乗り込む時「九段坂下交差点」と目的地を言うだけである(ちなみに私はタクシーの運転手と話をするのが好きなので、一人で利用した時は、東京中の道路の話などをしている。お互いに最短ルートを考えあったりする)。降車するときに運転手から「ありがとうございます。お忘れ物ありませんように」と丁寧に挨拶されても、多くの方は全くの無言である。
近所の方に挨拶をされても返さないという人はまれだと思うが、いざ、サービスを受けるという立場になるとこのような態度を平気でとる。むしろ逆に「安全運転ありがとう。さようなら。」などと返事をすると、妙に勘ぐられてしまうのではないかと思うほどである。
このような現象は西欧型市民社会に共通にみられるものらしく、社会学的には「儀礼的無関心」と呼ばれるものらしい。これが日本では気持ち悪いくらい徹底している。

さらには、コンビニでの「いらっしゃいませ~~こんにちわ~」という、こちらを見ることもなく発せられるあいさつから、町を埋め尽くす標語、注意を促す放送へと矛先が向けられる。つまり「実効性が伴わないにもかかわらず、ただ存在するだけで、かつ、マイノリティ(中島先生)の美的感覚を著しく損なう」対象(役所など)へと突進しつつ、言語哲学者の加賀野井修一の言葉を借りつつひとつ面白い分析をしている。


言語哲学者の加賀野井修一は、こういう日本人の言語観を「言霊思想」と呼んでいる。日本人の言語使用にあたっては、言葉はその意味伝達機能を無限に希薄化され、ただ「語っていること」が異様に前景にでてくる。加賀野井が言っているように、その典型的例は「祝詞」であって、「交通安全」も、「駅前放置自転車クリーンキャンペーン」も祝詞なのである。実効を期待せず「いつか気づいてくれる」だけでいい。人々の心に残って「だんだん改善していく」だけでいい。短期にならずに、その時まで忍耐強く待たなければならない。
こういう考えだからこそ、掛声、標語、警句、お願い...という「言葉」が街にあふれることになる。しかも、それによって直ちに効果を求めているのではないから、一度決まったら、えんえん何十年でも続くことになるわけだ。


こうした実効性のない「祝詞」も、景観を愛する人々からすればとてつもなく不快なものなのだろう。そう、私などはこういうものがありふれているところで育ってしまったので、あまり感じなくなっていたが...。しかし、定型的な「祝詞」で迎えられるコンビニの客と言うのも、ずいぶんとなめられた存在だなぁと思わずにはいられない。


以上が多様な感受性が存在するということに対する数々の例の一部である。

多くの進歩的(に見える)人々は感受性の多様化を認めているようであるが、その実、どうかはわからない。「個性を伸ばそう」という学校では児童・生徒の平均化に躍起になっているし、マイノリティはコミュニティの中で排斥され、いじめに苦しみあえいでいる。感受性のファシズムがまかり通っている。
私はこの本に書かれている数々の例に共感しているわけではない(だって、私は中島先生じゃないですから)。だが、こういう例題で具体的に説明されないと、鈍感な我々はその苦しみと言うものを寸でも理解できないのである。

本書のタイトル「醜い日本の私」は、感受性のファシズムが猛威をふるい、異端者を排除する日本と言う構造の醜さ、そして、こんな滑稽なことまでしないと皆に理解してもらえないという、中島先生流の皮肉のこもった自身に対する醜さ、双方にかかっているのだということを、最後まで読んで理解できた。

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