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【中川昭一氏死去】自宅のベッドで死亡、目立った外傷なし
2009.10.4 10:10

 中川昭一元財務相(56)が4日朝、東京都世田谷区下馬の自宅のベッドで死亡しているのが見つかった。警視庁世田谷署によると、目立った外傷はなく、これまでに遺書は見つかっていない。同署は死因などを調べている。
 同署によると、中川氏が同日朝、起きてこなかったことから、妻が2階寝室に様子を見に行ったところ、ベッドの上でうつぶせになり、ぐったりしている中川氏を発見。同日午前8時20分ごろに119番通報した。救急隊が到着したときにはすでに死亡しており、病院には搬送されなかった。
 室内に荒らされたような形跡はなく、中川氏は寝間着姿だった。妻が3日午後9時すぎにベッドで寝ている中川氏を見た際には呼吸をしていた。
 中川氏は妻と息子、娘の4人暮らし。当時、息子と娘は外出していた。

産経ニュースより


一度の失敗により、一生取り返しが効かないことがあるものだとつくづく思わされた。
G7での酩酊会見、バチカンでの行動。衆議院当選8回、自民党保守派の先鋒として国益にならないことには断固として反対し続けてきた実績が、一度のこの事件によって全て吹き飛ばされてしまった。プライドも志しも高かったであろう中川氏、今回の衆議院選挙での落選で心身ともに衰弱してしまったのだろうか。
今回、初当選した民主党の議員達を見て、中川氏は何を思っただろうか。プライドよりも志よりも、何を言われても無神経に受け止める鈍感さが政治家には必要なのだろうか。私はそんな人々に政治を任せたくはないと思うのだが。
自殺でも他殺でもないとの見解らしいが、あの酩酊事件のマスコミ報道はちょっと異常ではなかったと思う。

マスコミは政治にも変え、人を容易に殺すくらいの力がある。本当に恐ろしい存在である。

各メディアの自民党バッシングが半端ではない。
それでも私達はそうした情報を元に世の中の動きを知るしかない。しかし、報道がある方向に寄れば寄るほど、その内容を疑ってしまうのが天邪鬼の私。別に自民党が好きなわけではないのだが、世論調査をはじめとする各種統計情報、社説、解説員の説明、あまりにも民主党より過ぎはしないだろうか。
もう、椿事件の二の舞のようなことは止めてほしいものである。

ニヒリズムのことに関しては、以前、西部 邁先生の『虚無の構造』の書評と同時に私のとりうる態度を書いた。
ニヒリズムを語る上で欠かせないニーチェは、ニヒリズムに対する私達の態度を二つに大別した。

  1. すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、能動的ニヒリズム)。
  2. 何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、受動的ニヒリズム)。

しかし、日常的にニヒリズムというものをこのように捉えて考えている人など、あまりいないことだろう。
例えば「ニヒルな人」という使い方がある。これはどういう人を差すことが多いのだろうか?私が思うには、自分を含む全てを疑問視し、冷静な態度をとりつつも、思慮深い慧眼を持ち、かつ紳士的な人あたりを指すのではないかと思う。今となってはあまり使われる言葉ではないのかもしれない。

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私の中でニヒルな俳優といえば、本題作品にて探偵、明智小五郎役を演じた眉間の皺が似合う男、「天知茂」が筆頭に挙がる。いや、天知茂がニヒルというよりも、明智小五郎を演じる天知茂がニヒルに感じられるのかもしれない。人というものに絶望しつつも、自らの推理という仮象を次々に生み出し、周囲とは全く違う視点で事件に挑む。毎度毎度の登場する美女の誘惑に負けそうになりつつも(笑)。

本シリーズはテレビ朝日系列で1977年から『土曜ワイド劇場』の中で放送していたドラマシリーズ。今はそれらがDVD化されており、かなりのペースで見ている。
残念ながら、天知茂は本シリーズが終了する前、1985年に亡くなっている。享年54。若すぎる死であった。

その後は北大路欣也、 西郷輝彦が明智小五郎を演じる。私は北大路欣也も好きなのだが、このシリーズに関してはやはり天知茂がしっくり来るのである。

明智小五郎モノというと子供向けの作品が多い中、大人向けに演出された本作品は(原作からはかなりかけ離れてはいるものの)今見ても十分に楽しめる。とりあえずは、天知茂作品を全部見てみようと考えている。

先日まで、私の務める会社の一室にたてこもり、膨大な資料の確認をしている人たちがいた。我社が契約している監査法人からやってきた会計士達である。期末決算書の妥当性について細かく調査を行い、決算書が承認しうるものかどうか意見する。その昔は監査法人には多少の温情意見というものがあったようだが(そもそも企業から決算書の監査を依頼されるわけだから、癒着といった構造が生まれやすかった)、市場が世界規模に広がるにつれて厳正なる監査を金融監督庁からも求められるようになってきた。もし、この監査法人の意見が「承認できない」という回答であれば、粉飾決算とみなされ株主との関係が崩れ、資金繰りが難しくなる。さらに上場企業であれば、株式の下落という危機も待っている。社内の経理部門がうるさいのはこうしたリスクを軽減するための努力と見るべきであろう。

話は変わるが、NHKで土曜日21:00枠に放送されている「土曜ドラマ」では私好みのドラマをよく放映している。この枠で比較的有名なドラマをあげれば、柴田恭兵や大森南朋が出演していた『ハゲタカ』がある(『ハゲタカ』は映画化されるらしいですな。オフィシャルサイトはこちら)。銀行の自己資本比率が総資産額に対する4%(海外拠点がある銀行の場合8%)を切りそうになり、銀行業務が行えなくなることを恐れた銀行経営陣が、バルクセールなどを行っていた1997年頃のお話。通称『ハゲタカ』とは、瀕死の企業に対する貸出債権などを安値で買い取り、工場閉鎖やリストラを強引に推し進め、企業を事実上解体して利益をあげるような投資家・ファンドの俗称として用いられる。1980年代後半、米国で多額の借入金債務で倒産しそうな会社の暴落した社債や貸出債権を底値で買い取る金融業者、それを専門とするファンドが現れた。その姿が死期の近づいた動物の上空を旋回する「vulture(コンドル、ハゲタカ)」を想わせることからこの名がついた。日本ではより広く、投資リターン獲得に貪欲なファンドをすべてハゲタカと呼ぶ風潮がある。「護送船団形式」のような温情をかけすぎるのも一つの問題ではあるし、常に雇用の不安を抱えながら仕事をしなくてはならない社員が生まれるような強硬かつ冷淡な外資ファンドのやり方にも問題がある。この「旧体制的温情治療 VS 強行冷徹荒療治」が争点となったが、どちらが良い・悪いではなく、この国に合った手法を、悪しき習慣、外圧に屈せず模索していく必要があるという大きな問題提起となった番組だと思う。

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さて、『監査法人』である。全6回(だが、NHKの1時間ドラマはCMが無いので、民放の2時間番組に内容は匹敵するのでは?)。撮りためていたものを一気に見た。オフィシャルサイトはこちら
2002年、未だバブル後の日本経済が不透明だったころ、最大手の監査法人である「ジャパン監査法人」では、不況の影響により経営が苦しい企業に対して「多少の粉飾を見逃そう」とする温情派と、「厳格な意見を下す」厳格派の対立が起きていた。主人公である公認会計士の若杉 健司(塚本高史)は厳格監査の急先鋒である小野寺 直人(豊原功補)の方法を正義と信じ鑑査に望むが、その監査結果により制裁を受けた企業、社員を見て仕事に疑問を抱くようになる。一方、ジャパン監査法人の理事長 篠原 勇蔵(橋爪功)は、厳格監査を推し進めれば日本中の企業が倒産しかねないと、小野寺と対立する。
若杉は食品会社「飛鳥屋」の監査の中で、大手メガバンク「東都銀行」頭取との間に設けられた架空会社の存在を知り、飛鳥屋の経理担当から裏帳簿を入手する。これらの仕掛けを公表されることにより、飛鳥屋、そして今まで飛鳥屋の監査を承認してきたジャパン監査法人、仕掛けの立案者でもある東都銀行が経営危機になることは目に見えており、篠原は審査会で「承認できない」とされた監査結果を覆そうとする。だが、小野寺は財政監督庁の宮島恭一検査局長(利重剛)らと共謀し理事長の座から追放、証券取引法違反で逮捕されるに至った。
これにより、ジャパン監査法人は解体し、小野寺は「エスペランサ監査法人」を起こし、自らが理事長の任につく。小野寺の下、若杉は厳正監査を進めていくが、理事長という立場になった小野寺は会社存続のために厳格監査ではなく、多少の粉飾を容易に認めるようになっていた。若杉は変わっていく小野寺と同向き合うか、エスペランサ監査法人の行方は...

と、前フリのつもりで書いたが3話くらいまで書いてしまったかもしれない。
ハゲタカにも共通するが、この物語の中には「温情監査会計士 VS 厳格監査会計士」と「理事長としての立場 VS 正しい監査」という2つの側面について対立が見られる。もちろん、これは「どちらかが絶対に正しい」というわけではなく、それぞれの時代、その国の文化、かかわる自分の立場という面から、ただどちらかを一方的にではなく、必要とするものを取り入れ、不適格なものを排除していくしかない。特に「理事長としての立場 VS 正しい監査」は小野寺の内面の葛藤だ。ジャパン監査法人の理事長であった篠原と同様...いや、それ以上に会社存続のことしか考えられなくなっている。

実に面白いドラマであった。こんなに面白いと感じたのは久しぶりである。

最後に、とある人がドラマの中で話したことがあまりにも自分の考え(というか、そうしたほうが良いと気にしていること)に近かったので、それを紹介しようと思う。

 『真実を貫くことだけが全てじゃない。
  それが誰かのためにならなければ意味が無い。』
 『正しい言葉は正しいが故に、時には人を傷つけることがある。』

昨日の夕方あたりから嫌~な気分がこみ上げて来ていた。
大型連休の終わりはいつもこのような悲しい気分になってきて、ため息ばかりが出てしまう。

今の私にとって、仕事というのは手段である。目的ではない。
正直、仕事を楽しんでいるという人を見ると羨ましくてならない。楽しそうに踊っている人々の中に入ることがどうしても出来ないのである。踊り続ける体力もないし、やはりそういう自分を客観的に見てしまい、何だかうんざりしてしまう。そういう癖が沁みついてしまったようである。
私の生活の軸足は、私自身に未だ置いている。家庭とか子供とか、そういうところに置くのが一般的なのかもしれないが、それが出来ないのである。わがままで身勝手でどうしようもないのだが、そうそうこういう考えをこの年になって変えることができようか?

ちなみに、生活するだけに困らないほどの財力があれば、大した金にならない仕事を少しするかもしれないが、会社は辞めると思う。だが、そんな宛てがあるわけでもないので「あぁぁ、しかたねぇなぁ」で仕事をする。宝くじでも当たればねぇ...って、買ってもいないのに当たるわけが無いよね(笑)

私が「今」と発した瞬間に、「今」と言った時間は過去となる。「今」とは常に消費され続け、その実態を掴むことができない。
そんな性質だからか、日本語の「今」という言葉には直近の過去を含めて使用している。というか、つかみどころがないのだからこのように表現するしかないというのが実際である。

一昨日の記事に「時間の最小単位はあるのか?」ということを書いた。『ループ量子重力理論』が正しいものだとするならば約10-43秒が最小単位となるが、このような瞬間を捉えることはほとんど不可能で、やはり「今」とは瞬時で過去にとり変わられるものらしい。
今が過去に取って代わられる現象からは逃れることが出来ない。自分の体の老いなどを意識するとき、この現実がとても残酷なものであるように思えてならない。
ところで、仕事とは労働力を売るだけではなく、時間を売ることでもある。特に仕事嫌いの私にはこのことを思うとうんざりしてくるのである。

昨日より、時間ネタ続きである。退屈なネタですいませんねぇ。個人的にはすごく興味があることなので。

以前、アインシュタインの『特殊相対性理論』によれば、「光の速度は、観測者が移動していようといまいと関係なく一定である」ということを紹介した。この『特殊』とは「加速している場合や重力が加わった場合を含まない」状態を意味している。それに対して「加速している場合や重力が加わった場合を含めた一般的な状態」における重力や光、時間に関する現象をまとめた相対論がアインシュタインの『一般相対性理論』である。一般相対性理論からは重力場によって光が曲がったり、強い重力場から放出される波長はもとの波長より長波長になる現象、ブラックホールの存在などを予測することができる。
時間と重力の関係について、地球の中心から離れれば離れるほど(高度が高くなればなるほど)時間が進むことを証明している。例えばエベレスト山頂地点(標高8,848m)と、海抜0メートル地点との時間の差は100年あたり1/300秒ほど早く進む。まぁ、普通の人間がこの差による何らかの影響を直接受けるかといえばそうとはいえないが、GPS衛星のようなものは高速で運動する(4km/sec)が故の発振信号の時間の遅れ(特殊相対論効果)と、地球の重力場から離れている(20,000km上空)が故の衛星時間の進み(一般相対論効果)を意識しなくてはならない。これらを合算することでどの程度の誤差があるかといえば、約0.00004sec/1dayである。大したことがないように思うかもしれないが、GPS衛星は4km/secで動いているため、位置の誤差は12km/1dayも発生し、使い物にならなくなってしまう。このため、GPS衛星の時計は、地上の時計の遅れを補正するために遅く進むように設計されている。

私たちの身近な事象(例えば『特殊相対性理論』で紹介したガリレイ変換など)の場合は相対論による効果は無視しているが、光速に近い場合にはローレンツ変換を行う(というか、慣性系の動く速度が0に近いと、ガリレイ変換と同じ式となるわけだが)。

なお、18万km/hで進む宇宙船に乗った場合、静止している人に比べて1秒あたり0.2秒遅れる計算となる。この宇宙船に乗っている人自身が時間の遅れを自覚することはないが、宇宙船外の世界が全てスローに見えるという。ぜひとも体験してみたいものである。

「時計を見ればわかるだろ」というレベルより、もう少し深く掘り下げて考えてみたい。
つまり「なぜ時計を見ると時間がわかるのか?」ということについて今日は論じてみたい。

「時間とは何か?」という問いに正しく答えられる人間がどれほど居ようか?私も理路整然と答えることが出来ないのだが、稚拙な知識から述べるのならば「時間とは繰り返しの回数である」というのが一番しっくり来る。1日という時間は、また明日が来ることで知ることが出来るし、1年という時間はまた同じ季節が来ることで知ることができる。しかしこれらが非常に漠然とした時間の感じ方で、精密な計測などにはとても使えるようなものではない。そして、もっと細かい単位で時間というものを知りたいと思うはずである。
正しく時間を知るためには、等時性のある「基準となるもの」を持つことが必要であり、その精度を高めるためにはそのペースが一定でなければならない。大昔、人間は日時計や水時計というもので時間を測定していた。日時計は地球の自転を基準にしており、水時計は水が落下して貯まるまでの時間を基準とする。しかしこれが厳密に一定ではないことは明らかである。13世紀頃、教会などに機械式の時計(といっても、現在の機械式と原理は異なる)があったそうだが、これは1日に30分近くずれるという非常に精度が悪いものだった。

画期的な等時性の基準が発見されたのは、1583年のことである。
ある日、18歳のガリレオ・ガリレイはピサの大聖堂の天井からつるされたランプの揺れを眺めていた。はじめは大きかった揺れは次第に小さくなっていき、やがて揺れはおさまった。ガリレオはこれを脈をとりながら観察し、揺れが大きいときの一往復とゆれが小さくなった後の一往復に要する時間が等しいことに気がついた。これは「振り子の等時性」という法則で呼ばれ、例えば長さ1メートルの振り子は、揺れが大きくても小さくても、振り子の重さによらず、1往復にかかる時間はいつもほぼ2秒である。逆に言えば、長さ1メートルの振り子を用意し、適当に揺らしすれば2秒の長さを正しく知ることが出来る。これが振り子時計の原理である。ガリレオはこの振り子時計の完成を目指したが実現できなかった。後に実用に耐えうる振り子時計は1656年、クリスチャン・ホイヘンスによって実現された。また、時間のずれが小さくなったことにより「分」や「秒」といった時間の単位が使われだすようになった(60進法である理由は、メソポタミア文明の角度分割に由来する)。
この「振り子」に該当するものを「ひげゼンマイ」と「テンプ」によって得ることで省スペース化したのが、現在の機械式時計である。1日あたり10秒ほどの誤差が出る。
1927年には「水晶(クォーツ)時計」が発明される。これは水晶(SiO2の結晶)の薄片に電圧を加えたときにおきる32,768Hzの振動を振り子の代わりに利用している。誤差は1ヶ月に15秒ほどである。
1955年にはさらに正確な「セシウム原子時計」が発明された。これは「セシウム133」という原子に特定周波数の電波を当てると、セシウム原子が「基底状態」から「励起状態」へと変化する。この電波を電気信号に置き換えて振動数を数え、91億9263万1770回になった時を「1秒」としている。現在、国際原子時に採用されており、我々が使用する1秒はこれが使用されている。誤差は3000万年に1秒程度である。
採用されていないが、セシウム原子時計を越える精度を誇る等時性の基準が存在する。それは「パルサー」という中性子星の規則的な点滅である。1967年に発見され、当時はその規則性から「宇宙人からの通信ではないか?」と疑われたという。この誤差は1億年に1秒ほどである。

我々は1秒という単位を時間の最小単位とし、これに小数点をつけることでさらに小さな時間を表現している。物質を切り刻んで最小にすると、原子だけが残る。これと同じように時間の最小単位は存在するのだろうか?
紀元前4世紀の古代ギリシアの哲学者アリストテレスは著作『自然学』の中で「時間は、運動の前後における数であり、運動や変化が起きて始めて認識できるもの」と論じた。さらにアリストテレスは紀元前5世紀の哲学者ゼノンが述べた「飛ぶ矢は、一瞬一瞬は静止している。静止している矢をいくつ集めても、矢は飛ばない」という『飛ぶ矢のパラドクス』を紹介している。ゼノンの理論では矢が飛ばないということになる。当然、矢は飛ぶものであるというのに!そしてゼノンが言う、一瞬とはいったいどんな時間を指しているのだろうか?
近年、時間の最小単位について考えている日本人科学者がいる。1949年にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹である。彼は1968年に「時間と空間には、それ以上分割できない最小の領域が(素領域)がある」とする『素領域論』を発表した。残念ながらこの理論はその後あまり大きな発展は無かったが、現在盛んに研究されている『ループ量子重力理論』の中で、再び時間と空間の最小単位に関する仮説が挙げられている。その中ではプランク時間(10-43秒程度)と想定されている。あまりにこの最小時間が短いため、人間には時間が滑らかに動くものとしか考えられないという。

こんなに身近である時間という言葉にも、未だ解明されない謎が多く存在する。
人はずっと時間を意識し、時間という矢の動きを止めることは出来ない。常にがんじがらめにされている。
「時間はいつから始まったのか?」
こんな単純な質問にさえ、今の科学では明確な答えを出せずにいるのである。

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私は時代劇を結構くまなく見ているもので、出演率の高いこの二人が広告をしているとなると、気になってならない。
これは『BOSS 食後の余韻』という新しい缶コーヒーの電車内に張られている広告である(電車内で急いで撮影したもので、色々反射したひどい写真になってしまった...)。大体、車両のドアに北大路欣也さんバージョンがあれば、隣のドア付近には中村敦夫さんバージョンが張られている。

まだこのコーヒーは飲んでいないので、味については何にも言えないのだが...
食事をとっている最中や、その後にいきなり仕事をしだしたり、仕事の話題ばかりするというのは実に無粋なことだと思う(特に私は仕事嫌いだから)。食事しながら仕事しているまぁ、器用な人も世の中にはいるようですが、大体ね、その食事を用意してくれた人に非常に失礼ではないかと思うのです。私の昼食は妻が作った弁当であることがほとんどなので、家に帰ってから「何がおいしかった」とか、「あれはちょっと苦手だ」というような会話を交わしながら、空になった弁当を渡したいものだなぁと思っております。
携帯電話というのは、無粋の骨頂とも言える道具ですなぁ。まぁ、こういう世の中になってしまったので仕方がなく持っていますが、どんなときでも相手に「電話に何らかの対応をさせる」という強制力を持つ、恐ろしいほど図々しい道具でもあります。

ちなみに、テレビCMもかなり笑えます。このサイトから見に行けるので、興味のある方はぜひご覧あれ。

私には自分の習性という者の中で嫌気がさしているものがいくつもある。
その中で最も厄介なのが、常に「死ぬ」ということを意識してしまうことではないかと思う。

まず、この話題は人に忌み嫌われる。できるだけこの話題から離れたところへと...意図的になのか、無意識のうちになのか導こうとする。日常の会話ではもちろん、葬儀や法事の席でも「自分自身のこととして」死を語ることはとにかく嫌われる。葬儀の後の食事の席ともなれば、こうした話題は避けられる対象とすぐされてしまう。
私も社会に身を置くものとしてそうした習わしにはそこそこ沿って生きてきているわけだが、今生きていることが当たり前(いや、当り前ではなく多くの奇跡の中から今があると私は思うだが)であるように、死が訪れることもまた当たり前であるように思う。当たり前だが死んだ先には自分はいない。

死んだ人との別れは辛い。しかし死んだ当人は相手に対してそのような意識を持つことはできない。
自分がいつ、どのような死に方をするのかはわからない。だが、後悔しようとしても後悔することすらできないのだから、一瞬一瞬の人との出会いや自分の体験というものを大事にしたいと思う。

だから、死というものをいい加減にではなく真剣に考えたいし、ほかの人がどのような考えを持っているのかも真剣に聞いてみたいのである。

歯のケア対策にはインプラント・矯正歯科・入れ歯などに役立つ情報サイト

定期的に歯のケアをされている方がいます。そのような方々は受診前に歯に関する情報サイトで、知識を吸収しているようです。歯医者さんで、インプラント・矯正歯科・入れ歯などの受診に役立ててください。

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