staygoldさんとの往復書簡の最近のブログ記事

「便利の向こう側にあるもの"我々が得たもの失ったもの」
第2信 staygold→ヒデユキ

かなり、私の理解しにくい主張を的確に解釈いただけて感謝しております。

先日、知人が講演のために京都に行きました。
東京から京都だと、二時間とちょっと。のぞみだともっと早いのでしょうか?
京都で日帰り出張だったそうです。
昔なら、京都ほどの距離ならば最低1泊くらいするのが当たり前だったと思うのですが、
なまじ交通機関が発達したがゆえに、こうしたことが可能になってしまったのですねぇ。
本当に無粋だなぁと思います。
リニアモーターカーなんて開通してほしくないなぁと、その話を聞いて心から思いました。

さて、そろそろ北京でオリンピックが始まりますね。私はこの世界的スポーツの祭典について正直言って全く興味が無いのですが、これを当局の思惑通り粛々と実現するが為に、色々な悪い面が噴出しだしているいます。そこを光に対する「影」と表現し、話を始めさせていただきます。今回のテーマは急速に進歩するネットサービスの話題が中心ですが、Webというバーチャルワールドではなく北京というリアルな都市も「急速に成長していく世界」という意味で、同じような題材に考えられるのではないかと思います。


光の後ろに影がある

「いったい誰のためのオリンピックなんだ!」
北京市に80年間住む老人が、叫んでいた映像が非常に印象に残った。何の番組だったかはわからないが、ドキュメンタリーで見た映像です。市街地整理、景観維持のために追放される人々。彼らが怒るのは当然のことのように思います。
今、北京市はネット上のバーチャルワールドでおきているようなスピードの変化が、リアルな世界でおきています。新しい道路や鉄道が次々に開通し、競技のためのスタジアムや、観客のための宿泊施設がすごい勢いで作られています。
これらの建設には民工と呼ばれる、国内各所からやってきた低賃金で働く人々が携わりました。しかし、彼と彼らのための食物市場は一つの工程が終わるごとに、市外へ追放され、整理されています。また民工として北京で働くためには新たにその資格の申請が必要で、オリンピック終了後に北京で同じような仕事ができる可能性はまさに皆無に近い。事実上みな泣き寝入りに近い状況で追い出されるそうです。皆、今後の生活について不安を抱いています。
国家の威信をかけたオリンピックというイベントは、一体誰のためのものなのでしょう?もともと北京に住む貧民層はその協力だけさせられ、祭典を眺めることすらできず追放されていく。元もとその地に暮らす人々に大いなる影響や犠牲を与えてまでして開催すべきものなのか、私には理解に苦しみます。これ以外にも、テロに対する厳戒態勢などで、オリンピックという光の後ろに確実に存在する影が、中国当局が隠しきれないレベルまでに見え隠れするようになってきています。

amazonにも、その便利なサービスという光の後ろに、時間だけでただひたすら働かされている人間という物流の影がありました。
何かに光が当たるとき、その光に対して影が、その大小の差はあれど、確実に存在すると私は思います。技術革新という点だけではなく、何か明るいところがある時、そこには必ずと言っていいほど影としての面が存在しているという「光だけではなく影も見つめる」複眼的視点や考え方を慎重にしていくことが、私はこれからの世の中を生きていく中では非常に重要だと考えます。
私たちは何かの便利を得るためには、何かを失っている。それは、昨今注目を浴びている環境問題などを例にすれば、いくらでも語れることなのではないかと思います。こういう視点を...そうですねぇ、義務教育を終えたころから、実際に若い人たちに考えさせていっても良い話題だと思います。(前回のStaygoldさんからの返信、「屠殺」を高校程度のレベルならば学校教育の中で見せて、考えさせるという意見には非常に賛成いたします)

今回はいきなりStaygoldさんの質問への回答から始まってしまいますが、私が考える哲学的基盤は「疑い続ける姿勢」といえるでしょう。自分が心地よい、便利である、楽であると感じる何かには、その光の面だけで完結しない影というか、別な面が存在する。そうした多面的・複眼的なとらえ方と、考えることをやめないという姿勢が必要かと考えます。
ただし、これは相当な理想論であることは私も承知しています。多くの人々は自分の生活を守ることに時間を費やさざる得ず、情報ばかりが次々にやってくる。私たちは立ち止まる余裕すらありません。そうすると、やはり絶望的な経験を人類にはもう一度してもらう必要があるのかなぁと、悲観的な考えをせざる得ないのです。


絶望による治安の悪化

今回論じているのはネットをはじめとした技術革新の上で便利なツールを得るという中で、我々は何を失っているかという点ですが、ありきたりな回答で申し訳ないのですが、これはやはり『治安』や『安全』ではないかと思うのです。
テクノロジーの急激な進歩が恐るべき貧富の差を作る要因となってきていること、そしてその貧富の差が治安の悪化を生んでいること。それは昨今のニュースを見ていれば枚挙にいとまがないことではないかと思います。

また中国の例で恐縮なのですが、私は正直に申しますと、中国という国は国内の経済格差や、宗教・民族問題でもう少し早く国家が崩壊するのではないかと本気で考えていました。しかし、一筋縄ではいきませんね。統治する側は力を持って強制的にそれらを封じ込めにかかっている。中国の治安担当者がこう言っていました。
 「下層階級には暴力的な強制力を、上層階級には法をもって対応する」
と。

さすがに民主国家を標榜する日本においてそれは行われていませんが、本来、政府が行うべき『富の再配分』としての納税と社会サービスの機能は「どこも金がない」、「自己責任」などという言葉とともに次第に放棄されつつあります。このまま突き進むと、平和に暮らせる世の中を構築するには、中国的方法をとらざる得なくなるのではないかという危惧感を抱いています。たった数万円のために命を奪われる人々、平等だと教えられてきた結果が全く不平等であることに怒りや悲しみを覚え、周囲に危害を及ぼす人。そんな人が大量に発生しているではありませんか。

そして、私のような新しいサービスを創出しようとしている集団も、おもに富裕層を見ながらサービスの検討をいるのが事実です。その層に対してサービスを提供していかないと、やはり利益が上がりません。昔から『パレートの法則』のような「全体の大部分はその一部が生み出している(世界の80%の資産は20%の人間が所有しているなど)」ことが言われてきましたが、現在ではこのような傾向がさらにすすみ、新しいサービスを提供する側も急速に目がそちらに向いているような気がしてなりません。
そこから漏れた人たちは、半ばどうでもいい...生活にも、食にも、仕事にも、どんどん無視されていく存在になりつつあるように思えて仕方がありません。

実際のところなんとも言えませんが、大規模核を使うような戦争はこれからは起きにくいのではないかと私は考えています。
そうした大規模戦争がなくなった代わりに、テロのような局地的戦闘が続いています。貧しきものが富める者へ行う主張や復讐はこうした形に変わってきています。治安は先進国、発展途上国ともに明らかに悪化しています。こうしたテロをはじめとした危険は富裕層にも当然及ぶ可能性があるわけですから、やはり私はここでも「複眼的視点」を持っていただきたいと思うのですが、そんなことまで考えながら生きている人は本当に少ないと思います。
(先日のウイグルにおけるテロで中国の警察が十数名亡くなったことは気の毒ですが、ウイグルに対していままで行ってきたことを思えば、イスラム圏である彼らがジハードを起こすという気持ちも、非常によくわかります)

この便利の向こう側にあるもの...それは大いなる貧富と絶望。これら双方の戦いが、テロという手段に変わり、さらなる苦しみを生んでいるように見えてしまいます。


人と仕事について

仕事は生きるうえでの必要条件ではあっても、十分条件ではないと考えます。もし人生の重要局面に立たされてその決断を下さなければならなくなったら、その時はきっぱりと切ってしまったほうがいいのです。

そうなんですよね。ああ、わかってくれる人がいてよかった。
だから仕事のことで精神を患ったり、自殺したりするというのは、本当に本末転倒なのです。

人が生きる目的は仕事をするためではありません。それが何かは、具体的にこたえられませんが。
(会社の経営者なんかだと、生きる目的が仕事という人もいるのかもしれませんが)
生きるための「手段」と考えたほうが、肩の荷が下りるのではないかと考えています。

Staygoldさんには、人がする仕事がする仕事における重要な成果として「収穫」を挙げていただきました。
ちょっとこの点とは話が違うのですが、日本は食料自給率が先進国の中でも著しく低いわけですから、ちょっと法律を改正して、株式会社が農業に参画することにより、地方における雇用も活性化するのではないかと考えています。すごくビジネスチャンスもあると思うんですがねぇ...


恨まれるテクノロジー

お父様の写真製版の話、写真製版を無くす方向に動いて仕事をしてきた私には、何とも耳の痛い話です。私がその印刷会社に入った初めの年には、工場では製版フィルムとマスクを使いながら紫外線露光し、印刷物のフィルムを作っている職人さんたちが何人も居ました。しかし、その会社を退職する事となった4年後には、そのフロアは完全にMacばかりになってしまってました。

コンピューターを使った仕事が恐ろしいなぁと思うのは、技術習得に必要な時間が、手作業などでして来た頃と比較して、圧倒的に短いことです。例えば、しっかりとした機械図面を起こす技術を習得するには大変多くの時間を必要としましたが、今はCADソフトの進歩により、手作業の1/3~1/5程度の時間で、それなりに見栄えがするものを作成することが出来ます(まぁ、それでも昔からやっていた人に言わせるとまだまだ、色々なところが抜けているらしいのですが)。こんな具合なので、一般的に職人的な仕事を一途にしてきた人には、ずいぶんと恨まれたものです。やはり年齢と共に賃金は上がるものですし、若くて人件費が安い人間にさせたほうが会社としても利益が上がる。辛いところです。

例えば、医療の分野での技術革新は人間の寿命を延ばすことに大きく貢献してきました。それで多くの人が数年でも長く幸せを享受することができたのなら人を幸せにしたといえるでしょう。しかし、いたずらに寿命が延びたためにかえって本人は無為な時間を送り、あるいは介護でその家族が苦しむようならそれはどうなのでしょうか?

私は生に対する渇望が人より希薄なためか、本当にいい迷惑だと思っています。
放置しておいたら死んでしまうような病気にかかったなら、そのまま死んでしまってもいいと思っているのですが。
こういう技術進歩があるならば、尊厳死というか、死ぬことを選択する自由というものもほしいなぁと思っています。日本はまだそれを認めていないようですが、これは医療の進歩と併せて法律も同時に検討すべき重要な事項だと考えています。

また、ITの分野における技術革新は利便性をもたらす一方で、人間から「思考」というとても重要な作業を奪う傾向にあります。具体例を挙げれば、インターネットやPCが情報整理を円滑にし余暇を生み出し生活の効率化をもたらすどころか、人間から睡眠時間を奪っているという事実。それで人間が「白痴」のような状態にでもなってしまうのであれば、それもどうなのでしょうか?

いやー、本当に脳が退化していますね。
私の場合、思考能力よりも記憶能力に多大な影響を与えているようで、数日前にした自分の仕事のことを覚えていなかったりします。仕事自体が平坦な時など、その苦労などもさほど記憶に残らず、あっという間に忘却のかなたです。
また、簡単に色々な処理が出来るようになったので、単純に仕事量も増えましたね。仕事量が変わらず、パソコンなどが使えるならば理想的なんですがねぇ。私は仕事で使用するパソコンの処理速度が向上するたびに「クロック周波数に比例して、仕事も増えるんじゃないだろうな?」と冗談交じりにいつも言ってしまいます。
冒頭の京都の話ではありませんが、情報機器が発展することで出来るようになるからといって、仕事量が増えるのは本当に嫌だなぁと思います。でも、自分だけがその仕事量を維持することは出来ないんですね。全世界でパソコンの処理能力の向上が起きているわけですから。


この流れは止まらないのか?再考

「核」の例は実によい例であったと思います。Staygoldさんが取り上げないのならば、私から書こうと思っていたところです。
あの当時の物理学の大結晶ですからね。
なぜ「核」があのような使われ方をするに至ったかと問われれば、やはりあの時のアメリカにとって最も重要なことが終戦後のミリタリーバランスにおいてソ連に対し優位に立つことであったからとしか言いようがありません。単純に、ミリタリーバランスで優位な局面に立つという目的以上に、敵国民(日本人)の命は重要ではなかったと私は考えています。人間というものはやはりそうした非常に残酷な面を持つ生き物であるとしか言えませんし、私が当時のアメリカ大統領であっても同じ決断をするような気がします。私にとって、人というのは時としてそうした判断をもいと簡単にする存在という認識なのです。

そして、この弱者を省みないテクノロジーの進歩も、相当なる被害を被ることにより何か人が気づくか、それか人類が滅びるまで続くのではないかと思います。それによって実生活で困る人は真剣にこのテクノロジーの進歩による影の面をとらえるでしょう。しかし、それを便利に利用する層に、複眼的な視点で考え続けよというのは、かなり難しいのではないかと思います。愚かなる歴史は、残念ながら繰り返され、苦しむ人間が大量に発生し、治安の悪いすみにくい世の中になっていくのではないか考えています。
(この点「人間はそんなに愚かではない」というような反論があったら、ぜひともいただきたいと考えています。私は結構絶望しているので、明るい意見をいただけると救われるのですが)。

格差が残酷なのは、そのスパイラルに入ってしまうと、そこから中々脱出することが出来ないことにあります。短期的に見れば、一度の失敗することから経済的に再起することが非常に難しい世の中になっていますし、長期的に見れば収入格差が学歴などに現れることとなり、次の世代にもまたそうした重荷は受け継がれていきます。先ほども申しましたが、国にこれを改善する社会保障を期待することも難しい状況ですしね。

ちょっと話がずれてしまいましたね。
私は仕事をはじめて10年以上、こうした新しいサービスを創出する仕事についてきましたが、正直、もう飽きてきました。ですが、私が明日食べるパンを得るための手段はこのようなものしかなく、かなり仕方がなくやっているという現実があります。
(といいつつ、ものすごい夢中になっていること...つまり、単眼的視点しか持たずに、猛烈に仕事をしていることがあることも事実なのですが...矛盾してますねぇ)

でも、本心からすると、洛陽で仙人を待つ杜子春のような気持ちになっていることも事実です。私は本当に生活力のない人間なので、杜子春のような生活ができないかもしれませんが。
例えば、せかされて仕事をすることが無い、人間国宝級の技術を持つ職人というのは、戦わずに済む人がうらやましい。戦いたくないのに戦っている自分には、ものすごく魅力的に感じます。

さて、こんな具合に私は人類とはまた学習もせずに技術的に行き着くところまでいってしまい、多くの被害をこうむるしかないのではないかと思っています。それをやめるなら、金銭欲や権力をかなりに放棄し、隠遁しながら自給自足でもするしかないと思っているのです。
(実際に、私にはそれに近いことを実践している叔父が居ます。)


ご意見をいただきたい

さて、先ほども書きましたが、私にはどうにも明るい未来が描けません。
人を高みから見て「愚かだから不可能だ」といっている傲慢な姿に見えるかもしれませんが、正直言えばそのとおりなのです。
できればそのような思いは打ち砕いてほしいと思っています。
私ひとりがもつ権利とほかの成人がもつ権利は同じ。私ひとりが政治や経済に与えられる影響はたかが知れています。

私が考える「影も見て、そこそこ自重した発展を望みたい」という思い事態を否定する意見も結構。
もし同調いただけるならば、これをどう浸透させていくべきかという意見をぜひ伺いたいです。
まったく違う未来を考えられているというのであれば、それも是非ともご意見いただきたいと思っています。

また難儀なお願いをしてすいませんが、ご意見をお聞かせください。

ワンクリックの向こう側

ブラックボックスに対する興味

amazon、確かに便利ですね。私は直接注文することは少ないのですが、書籍のリファレンスとして、または近くの書店に本を発注する際にあると便利なISBN番号を調べたりすることによく使っています。

私達、利用者から見えるのはその多彩な書籍から時計までのラインナップ。とかく華やかな面です。しかし、それがどのように実現されているのかは全くわからない。ブラックボックスなのです。このような告発本が出ることで、ようやく事実を知ることができるわけですが、そこまで「何でこのようなサービスが実現できるのだろう」ということを考える人間はあまり多くないようです。「便利、だからいいじゃないか。」それだけで思考が停止してしまう。そして、それが企業側の思惑もあるのでしょう(サービスのための犠牲といういわば「負」の面は見せたくありませんしね)

このような、産業のブラックボックス化は最近始まった話ではありませんが、私なりに驚いたものがあります。それは、屠殺という作業です。おいしく肉を頂いていますが、その肉がスーパーに提供されるまでにどのような流れがあるのかを知りませんでした。知ったときにはしばらく肉を食べられなくなりましたが、その後は、決して肉を残さず食べるような態度にかわりました。命をいただくということ、そしてそれら仕事に従事している人のことを思うと、私的には必然的にそうなりました。

あらゆる便利なことには何かがある。そのブラックボックスを明かしていくことで、そのシステムとの付き合い方、そしてそれに携わる人への感謝が現れてくるのだと思います。情報化が進む中で、こうしたブラックボックスがどんどん解明されてくるということは、非常に良いことではないかと思います。

企業は新しいサービスの創出をとめられない

私は仕事柄、むしろこうしたシステムを考え、世の中に提供していく立場にあります。情報化、技術革新を推し進めるにあたり、それはすんなりうまくいくことはなく、多くの失職者を出したり、恨まれたりすることを覚悟しなければなりません。

過去に経験した一例を挙げますと、私は昔、某印刷会社の研究所のようなところに所属していました。そこで、カスタムドキュメントという仕組みの開発を行っていたのですが(この特許の延長線上のものです。あ、実名がw)これはサーバ上で、本の必要な部分だけを集めて電子ドキュメントを作成する処理を行い、インターネットを介して配信するというものです。例えば、今は読みたい漫画があれば漫画雑誌1冊を買う必要がありますが、これが実現すれば、ほしい漫画の部分だけを買える。しかも、必要な作品分マージして、その人専用の雑誌を提供できるわけです。。

もちろん、電子的に配信されるわけですから、印刷・製本・物流関連の部署・本屋からは総スカンです。彼らの仕事が減りますから。会社としてもおそらく紙ほどは儲からないと思うので、本当は程ほどにしておきたい事業とと思ったことでしょう。しかし、他社が始めてしまえば(実際にもう、始まってますよね)自社の優位性がなくなる(特に、ネットの世界ではNo.1であることに大きな意味があるのです。No.1に対するNo.2,3の認知度が違いますから。例えばamazon以外に本のオンラインショッピングサービスを提供している会社を3つこたえられる人間は、結構少ないのではないでしょうか)。

このような強迫観念の中で働く企業の人間というものもまたつらいのですが(でも、経営者は「会社が生き残れなければ意味がない」と、もっともらしいことを言いもするに通じますね)、従来の仕事を失う人の辛さの比ではないかと思います。

人がする仕事とは何か?

こういった作業現場では、考えることはすっかり放棄して、上からの指示通りに体を動かすことが求められる。(P.115)

「よく考えろ」といわれる仕事もあれば「考えることを放棄しろ」という職場もある。放棄しろというのは機械の代用でしかないわけですね。
ちょっと流通業には疎いので、従前からある仕事として製造業を例に私の思いを語らせていただきます。

最近、大手電機メーカーの携帯電話製造からの離脱が見られるようになりました。製品のライフサイクルが短すぎて、製造ラインを組む時間すらないそうです(そして、大して利益も上がらない)。そうなると、製造ラインの変わりに人が投入されるようになる。本来なら機械が正確に行わなくてはならないような気の滅入る作業を人間が行うわけです。

しかし、製品のライフサイクルも短いわけですから、作業に多少習熟してもあっという間に仕事が変わってしまう、その技術が次の製品で役に立つとも限らない。

過去、製造業というものはまさに技術の習得という点に仕事の面白さが集約している仕事だったと思います。その中で職人と呼ばれるほどの高度な技術を持つ人たちが生まれる(私は時計が好きなので、そうした職人を特に尊敬しているのですが)。それが仕事に向かう夢であり、目標であり、楽しみだったのではないかと思います。現場のリーダーから、製造管理をするような役職へのステップアップも見えた。そんな製造業で「考えることを放棄しろ」とは絶対にいいません。

最近は個人のモチベーションを上げる(製造するプロダクトに対する責任、仕事への興味を上げる)といういみで、トヨタなどでは「セル生産」という方法が用いられたりしています。これはまさに、製造業における人間と機械の共存だと思います(高価な機械式時計などは、昔からこうだったのですが)。

一般的な話をすれば、その仕事を通じて成長が望めない仕事は、長期間にわたって人間にさせるべきでは無いと思います(短期的なバイトだとどうなんでしょう...そうおもうと、amazonの流通を支える人たちへの考えも変わって来ざる得ませんが)。それをやり続けることに対する、ポジティブな向上心が起こらないからです(3ヶ月でクビをきられる可能性があるから必死にやる...と、恐怖で締め付けているだけですよね)。それは非常に苦しいことでしょうし、労働者を不安にさせます。偽装請負で投入されているような人材ならば、労災をはじめとした社会保障も無いわけで、体を壊すようなトラブルに見舞われたら、それこそ、その人の死を意味することになるかもしれません。

仕事ってなんでしょう?

ちょっと観点を変えて、持論を展開させていただきます。

「仕事」という言葉を辞典で調べると
 1.生計を立てるために従事する勤め。職業。
以外に
 2.するべきこと。しなければならないこと。
という意味があります。

圧倒的に1.としての意味で使われることが多いようですが、私の中ではもう少し仕事という言葉を2.に近づけて使いたいと考えています。つまり、その人が生き続ける中で行うべきこと、まぁ、ライフワークとでも言う方が適切でしょうか?

例えば、私の知り合いには野良猫ばかり救済している人が居ます。彼女は会計事務所に勤めているのですが、彼女自身の「しなければならないこと」という意味での仕事は「野良猫を救済すること」なのです。会計事務所でして居ることは、その「野良猫を救済すること」を実現するための手段に過ぎないのです。

チェコの偉大なる作家「フランツ・カフカ」は、とにかく仕事と文学の両立に苦しんだと聞いています。彼の親友であったマックス・ブロードの『フランツ・カフカ』によると

いよいよパンのための職業をみつけなければならなくなったとき、カフカはこう仮定した。仕事は文学とはまったく無縁なものでなければならない。なまじ文学と縁のある職業は、詩的な想像をはずかしめるものである。パンのための職業と文学とは厳密に区別され泣ければならない。

そこでカフカは半日出勤で住む職場、ボヘミア王国労働者災害保険局で午後二時ぐらいまで働き、その後に執筆の時間を持っていました(それでも本人は足りないといっていたそうですが)。カフカのスタイルからすれば、強烈に2.になるのではないかと思うのです。

まぁ、全ての人がカフカのような才能や強い思いをもっているとはとても思えませんが、賃金を得る仕事に対して、それほど熱心になる必要も無いのではないかと思っています。

むしろ1.に過剰な(ワーカーホリック気味な)人がこうした便利なサービスをどんどん、脅迫的にリリースしているような気がするんですね、私は。もっと1.に対していい加減になって、もっと自分の時間を持って色々なことをトライして、2.にシフトしていけばいいのかなぁと思うのですが、とかく、自分の居る業界は1と2を一緒にしたがる。そうじゃないとダメ的雰囲気にあふれています。

正直、私にとってオフィスでしている作業は2.の仕事ではありません。仕方なく、飯を食ったり家族を養ったりするために1.をし続けているに過ぎないということです。但し、パフォーマンスとしては「限りなく1と2を近づける」ようにしているのですが(笑)
世界のグローバルスタンダードが自分のような方向に行ってくれればと常々思っているのですが、そうやらそのような兆候はまったく無いようですね。

技術革新は人を幸せにするのか?

現代人は、アマゾンに代表される熾烈な国際競争を勝ち抜くニューエコノミーの恩恵を受けている。しかし、さらに細分化されていくであろうこの労働格差と繰り返される競争は、果たして人を幸福にするのだろうか?(P.281)

以前、自身のブログでこのようなことを書きました。

アメリカの製薬会社を中心に、新たな抗鬱剤や精神安定剤が次々に生まれています。社会自体を変えるのではなく、こうした薬を使って、今の社会に人間を無理やり適用させようとしている。それでいいのだろうか?


原始資本主義社会を風刺したチャップリンの「モダン・タイムス」のように、テクノロジーの発展と人間の幸福には負の相関関係がしばしば見られますが、これらは人間らしさを取り戻すための先人たちの努力によって、ある程度は回避されてきたと思います。しかし、ここまで急速な技術革新は例が無い。そこに我々はどう立ち向かうべきでしょうか?


今回の返信では、結論を急がずに問題提起の追加で終わらせたいと思います。

amazonを支える労働者をどうすべきかというミクロな意見も少しありますが、いったんここでとめておきます。

それでは、staygoldさん、次をよろしくお願いいたします。
(このタイミングでの次をお願いするのは、ちょっとずるかったかな?)

Staygold's cafe "ワンクリックの向こう側"

言いだしっぺの私が中々テーマを挙げなかったので、挙げてくれて感謝です。いいですねぇ。このネタなら大いに語りたいですね。

個人的に考えていたにもかかわらず、中々ブログに挙げられなかったテーマが3つほどあり(タイトルは仮名です)。

  1. 自由は存在するのか?
    まだ秋葉原の無差別殺傷事件やらを引きずっています。
    我々が「自爆テロ」と呼んでいるあの捨て身の攻撃ですが、イスラム原理主義思想の方々から見ると、それは「テロ」ではなく、「聖戦」なわけです。20才にも満たない若者が、自爆テロという形を取りながら、命を散らしています。彼ら若者達がなぜそのような公道をとるのか?それを思うと、私達が自由だと思っている、自分で決めていると思っている様々な出来事は、本当に私達の意志から生まれたものなのでしょうか?
    社会情勢、常識、教育、そして遺伝子レベルまで深く掘り下げると、すべての事柄が「自由に選んできた」ということに大いなる疑問を抱かずには居られません。
  2. 文系人間と理系人間の30代的仕事
    社会人となって10年余り、そろそろ私たちに期待されてくる仕事に変化が出てきていませんか?「自分でせずに人を使ってしなさい」と言われるわけですが、これがどうも自分一人でやるより圧倒的に苦しい。文系・理系と出身がお互いにかなり違うようなので、まず今、どのような状況にあり、そしてこれからどう変化していくべきかを考えてみたいというものです。
  3. なぜ、死を語ることは禁忌なのか?
    何だか暗そうなテーマですが、まぁ、暗いです(笑)。20代、30代の死因で最も多いのが自殺です。そして、若年者の殺人事件、高齢者の自殺といった問題が実際に存在するのに、メディアは何でそれを直視しないのだろう?死は忌み嫌われるが、誰にでもいつかはやってくる出来事です。なぜ語れないのか、語ることが嫌われるのか?語ることにより解決できる問題は無いのか、その辺を考えてみたいと思っています。

いや〜、あらためて自分が日々考えていることがいかに陰気か、思い知らされますね(笑)

整理できて無いだけで、日々考えていることはまだまだありますが「経済は永遠に成長し続ける必要があるのか?」という大問題に真っ向から立ち向かう良いテーマですね。少しずつまとめていますので、もう少々お待ちください。

歯のケア対策にはインプラント・矯正歯科・入れ歯などに役立つ情報サイト

定期的に歯のケアをされている方がいます。そのような方々は受診前に歯に関する情報サイトで、知識を吸収しているようです。歯医者さんで、インプラント・矯正歯科・入れ歯などの受診に役立ててください。

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